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碧水工房 小説部屋

初冬の朝 -翠-

 温かい。
 ふと目覚めて、すぐ傍に『彼』の温もりを感じた。
 サネユキ以外の人間が、こうやって自分と同じベッドにいることに、未だ不思議な気分がする。
 それだけではない。
 目覚めたばかりの身体に気怠い疼きを感じることも、嬉しいことなのにまだ慣れることができない。いや、これに慣れるようになることは、きっとないだろう。
 ああ、それでもと、自分の隣で眠る彼の素肌の胸元に顔を寄せ、深く息を吸い込む。
 彼の温かさが、また目覚める様子もなく、穏やかに上下するゆったりとした胸の動きが心地よい。
 彼の存在に、こうまで気持ちが落ち着くようになったのは何時からだっただろう。
 ハツキは顔を上げ、隣で眠るメールソー・テレーズの顔に目をやった。
 長めの金色の睫毛に縁取られた、涼やかな目許が閉ざされた彼の寝顔も美しい。
 間近で見る彼の顔に、いつものように手が伸びた。
 うっすらと髭の浮いた顎から頬へ指を動かし、彫りの深い眼窩を軽く撫でる。
 自分とは異なる、顎のしっかりとした男性的な輪郭や顔立ちに、少し羨ましい気持ちはある。それでも愛おしくてたまらない思いに嘘はない。
 光り輝く見事な金髪と、男らしい美貌といった外見だけではなく、類い希なる能力と立派な家柄を持ち、少々周囲を顧みずに行動するきらいはあるものの、人柄にも優れたこの人を嫌うことなど、到底出来ないことだ。
『今だけでいい。今だけ許して』
 サネユキにそう懇願して、この人を欲し手を伸ばした。
 ──でも、そう。これは今、このほんの一時のこと。
 彼に今以上こちらに踏み込ませるようなことは、決してさせてはいけない。
 彼の顔に触れていた手を握り締め、もう何度目になるのか解らないけれど自戒を新たにする。
 けれど何度そうしたところで、彼の笑顔や優しさ、彼の持つ眩しいまでの意思の強さ気高さ、そして自分に向けられる混じりけなしの好意に心は揺れ、彼の逞しい腕に抱き締められ、身の内に彼を受け入れる快感に、結局は身も心も溺れてしまうのだ。
 今まで気づくことが出来なかっただけで、真の自分はこんなにも弱い人間だったということだろうか。
 ──ごめんなさい。
 その弱さでもたらされる害悪は大きい。その罪を贖う責任が自分にはある。だがその罪は大きすぎて、最早誰に、何に懺悔すべきなのか、そんなことも判別がつかない。
 自業自得の苦悩に、深い溜息をつく。
 ──君だけは……
 それ以上の言葉が続けられない。

 ハツキが顔に触れていたからだろう。テレーズの目許が微かに震えた。その様子を見て、ハツキは自分を抱く彼の腕から少し抜け出し、テレーズへ顔を近づけた。
 目覚め間際の頬にそっと口づける。
 ハツキが見つめる中、ゆっくりと瞼が開かれ、昼の光の下では若葉色に輝く彼の瞳が露わになった。
 その瞳を覗き込みながら、ハツキは微笑した。
「おはよう」
「……ああ、おはよう」
 寝起きで少し掠れているものの、軽く笑いを含んだ美声でテレーズが応じる。
 起きたばかりの彼が目覚めのキスを求めてきた。
 ハツキにとって、そんな挨拶は未だ面映ゆい。照れを微笑で誤魔化しながら、ハツキはテレーズの口許に軽く唇を重ねた。
 キスをするハツキの頭にテレーズの手が添わされ、彼の舌が唇に触れてくる。そうされるとハツキも口を開き、テレーズの舌に自分の舌を絡めて応えた。
 言葉もなく交わすキス一つで、頭の奥まで痺れるような快感が広がる。
 夜明け前の暗い下手の中、温かいベッドの中で、互いの息づかいとキスを交わす音しか聞こえない。
 ようやく唇を離されても痺れは止まなかった。
 頬が熱い。
 しかし、快楽に感覚が麻痺する中でも醒めきった己がいて、自分は今、どうしようもなく蕩けきった表情をしているのだろうと冷静に判断していた。
 そんなこちらの顔を覗き込み、ハツキの顎に残る互いの唾液が溢れこぼれた跡を拭いながらテレーズが笑う。
 窓から庭園灯の明かりが部屋の中に漏れ入り、天井に淡く窓枠の影が映っているが、南の出窓から見える空は未だ暗い。
「まだ朝早いのに」
 テレーズの言葉に、乖離する意識を引き戻しながら答えた。
「ごめん。なんだか目が覚めてしまって」
 これだけでは心配をさせてしまうので、小さく笑いながら続ける。「でも、ちゃんと寝られたよ。夢も見ていない」
「そうだな」
 優しく相槌を打って、テレーズはハツキの頭を引き寄せ胸元に抱き締めた。
「でもどうする? まだ起きる必要はないだろう?」
 彼を起こしてしまったのは自分だが、テレーズは決して責めてきたりはしない。
 こんな些細なことでも甘やかされているのは重々承知しているが、彼にこうやって甘やかされ許される心地よさは、麻薬のように自分を侵していく。
 ハツキはテレーズに気づかれないよう小さく溜息をつき、そして彼の逞しい胸板に頬ずりをした。
「うん。まだ起きる気はないけれど、眠気もないから二度寝って気分でもないんだよね。布団の中が温かくて気持ちいいし、こうしていたいな」
 ハツキの実家、チグサの家があるベーヌ地方に比べ、王都ヴィレドコーリの冬は温かい。また、現在ハツキが下宿している、母方の祖父の屋敷であるこのカザハヤの屋敷は、館内の全てがセントラルヒーティングで暖められている。とはいっても、十二月(霜月)の夜明け前の室内はひんやりとしていた。
 冬場の朝の布団の温もりは心地よいものだが、恋人と一緒にいる朝は尚更だった。
「ふうん……」
 ハツキの背をゆっくりと撫でさすりながらテレーズは相槌を打ったが、不意に手を止めるとハツキの上に覆い被さってきた。
 ざらり、と彼の長い金髪が流れ落ちてくる。
「……どうしたの?」
 思いがけない彼の行動に、少し身構えてハツキが尋ねると、テレーズはにやっと笑った。
 微かな明かりの中でも、彼の瞳が悪戯っぽく光ったのが感じられた。
「こうしているならさ。夜の続き、しようぜ」
「ええ!?」
 テレーズの提案に思わずハツキは声を上げた。
 頬がまた熱くなる。頬だけではない、耳までも熱くなるのが解った。
「昨日、あんなにしたのに!」
「何言っているんだ。そりゃそうだろ。昨日がどういう日だったか、解っているよな?」
「それは……」言われなくても、よく解っている。けれど、どうしても言葉にすることが出来ず、ハツキは口ごもってしまった。
 ハツキのその様子に、テレーズは仕方なさそうに苦笑すると、左手でハツキの前髪を掻き上げ、耳許に口を寄せて囁いた。
「おまえと恋人になることが出来て、ちょうど一ヶ月だったんだ。張り切るってもんだろ?」
「だからって……、君は張り切りすぎなんだ……!」
 テレーズの囁きに昨日の朝から浮かれていたテレーズの姿をサネユキに冷やかされたことや、昨夜のことを思い出し、ハツキは顔を俯かせた。
 ハツキの従兄であるだけでなく、兄も同然の育ちをしてきたサネユキは、家族の中でも一番ハツキのことを理解してくれている。その彼が、涼やかな美貌を微笑ませながら、冷やかし混じりとはいえテレーズに優しい言葉をかけてくれているのはいたたまれなかった。
 昨晩のテレーズは、ハツキが恥ずかしがろうがどうしようが、どこまでも優しく執拗にハツキを愛撫し、交わってきた。際限もなく与えられる快楽の果てに、ハツキ自身自分がどんな痴態を晒し、何を口走っていたのかも定かではない。今もまだその感覚の名残が身体のそこかしこに疼きとして残っている。
 ハツキの力ない抗議にテレーズは小さく笑い、更に囁いた。
「だって、俺で気持ち良くなっているおまえの、いろんな姿が見たいんだ。俺だけが知っている、俺だけのハツキを」
 自分に向けてさらけ出される独占欲がもたらす快感に、身体が震える。言葉もなく恋人を見返したハツキにテレーズは笑いかけ、額をこつんと合わせてきた。
「おまえだって、嫌じゃないだろう?」
 そう言って、片足をハツキの太ももの間に割り入れて来る。
 嫌なはずはない。許されるのであれば、彼の何もかもをも自分のものにしてしまいたい。一片たりとも他人に渡したくはない。
 内ももに感じる彼の素肌に、疼きが増す。
 ──この人が、欲しいんだ。
 どれだけ言い訳をしたところで、この疼きには抗えない。
 こうやってまた一つ、罪を重ねる。
 欲情にひくつく喉を唾を飲み込むことで誤魔化し、ハツキは目を上げて答えた。
「……そうだよ。でも」
 そこで言葉を切ると、ハツキはテレーズの肩に手をかけて彼の身体を押し上げた。
 ハツキの意外な行動にテレーズは眉を上げたが、されるがままに身体を起こすと、ハツキの横に胡座をかいた。
 ハツキも起き上がると、彼の膝に手を置いた。そして彼に顔を近づけ、若葉色の瞳を見据える。
「そういうの見たいのが、自分だけだと思わないでよね」
 一瞬驚いた表情を見せたものの、すぐに気を取り直したテレーズは余裕の笑みを見せてきた。
 万事において、世事に疎い自分よりも彼の方が長けているのは事実なのだが、こういうところは大変癪に障る。
 ふいとテレーズから視線を外すと、ハツキは身をかがめた。邪魔になる前髪を右手で耳に掛けながら、半勃ちになっているテレーズの男性器を口に咥える。
 その瞬間息を?んだテレーズに溜飲が下がる思いをしながら、口に含んだものを、舌と唇をゆっくりと上下させて舐めていく。
 ハツキの動きに、テレーズのペニスも反応し、すぐに大きくなった。
 テレーズが声もなく満足げな息を洩らす。
 その息音、ハツキの黒髪を掴む手、そして彼のものを舐めながら上目遣いに見上げて目にする、ハツキが与える快感に目を細めるテレーズの姿に、身体の奥から更なる悦びが沸き上がってきた。
 口腔全体に感じるテレーズのペニスの味や、嗅覚を刺激する彼の体臭に、感覚もまた痺れてくる。
 彼のことだけで身体中全てが占められる。彼のことしか感じることが出来ない。
 そうなると、未だ昨夜の余韻を色濃く残す身体の疼きは更に増し、知らず腰が動いた。
 右手はテレーズのものに添わせながら、彼を求める自分の秘所を慰めようと、左手を後ろに伸ばす。
 その左手の手首をテレーズに掴まれた。
 欲求が満たされない不満に、ハツキは口からテレーズを放した。
 全身が熱い。刺激を求めてアナルはひくつき、息づかいも落ち着かない。
 そんなハツキを見てテレーズは微笑むと、こちらの上体を起こさせて額に口づけ、そして抱き締めてきた。
 それではまだ足りないと切なく息をつき、再度テレーズのペニスに手を伸ばす。
 そのハツキの手も押さえながら、テレーズがハツキに囁いた。
「もう、俺の負け。おまえ、可愛すぎるよ」
「テレーズ……?」
 問いかけたハツキの唇を、つい先程まで自分のものを口にしていたことも気に掛けずに、テレーズが口づけで塞いだ。
 そうされてしまうと、テレーズの舌の柔らかさに、自分の身体の中の昂ぶりに意識は掻き回され、どうしたらいいのか解らなくなる。
 難しいことなど一切考えることなく、いつまでもこの感覚の中に浸っていたくなる。
 すっかり弛緩しきったハツキの身体を抱き締め、テレーズが再度囁く。
「こんなことされたら、我慢なんて出来る訳ないだろ。おまえが欲しいよ。抱かせてくれよ」
 懇願されるまでもないことだ。
 相手が欲しいのは彼だけではない。自分もそうだ。
 言葉で返すのももどかしく、ハツキはテレーズにすがりついたまま無言で頷いた。
 ハツキの返事に、こちらの首筋を軽く噛んでテレーズも返してくる。
 テレーズに腰を持って上げられ、ハツキは素直に彼に跨がった。
 テレーズが左手を舐めて湿らせ、その手を滑らせてハツキの臀部の奥を探る。探り当てられた感覚に、ハツキは再びテレーズの首元にすがりついて、熱い息を吐き出した。
「まだ柔らかい。……このまま、いける?」
 尋ねられてハツキはテレーズから顔を離して頷き、右手をテレーズの大きくなったペニスに添わせた。
 テレーズに支えられた腰を、ゆっくりをその上に下ろす。
 喩えようのない圧迫感を持ってテレーズが身の内に入ってくる。
 求めていたものが与えられた悦びに、満足感で熱っぽい吐息が漏れた。
 彼の全て飲み込むと、ああ、なんて幸せなんだろうと、彼に抱かれる度に感じることが脳裏いっぱいに広がった。
 彼以外何も欲しくない。彼のこと以外、何も考えたくない。
 彼の手を離したくない。
 ハツキはテレーズの首に腕を回し、彼の逞しい肩に顔をうずめた。彼から与えられる快感を更に貪ろうと、自分から身体を動かす。湿った音を立てて体内を動くテレーズのものが、この一ヶ月の間に彼に暴かれた、自分では知ることのなかった感覚をもたらす場所に当たるよう腰を振った。
 彼のペニスが内奥をこすり、快感が高まると、今以上のものが欲しくなって身体の動きが激しくなる。
 けれどそれだけでは、体内からせり上がる欲求にはとても足りない。
 ハツキはテレーズの肩から顔を上げると、彼に顔を近づけた。
 テレーズもまた、ハツキが与えるものに男らしい美貌の眉根を寄せ、熱い息を吐いていた。
 彼のその姿にも、支配欲とも独占欲ともつかない欲望が満足させられ、背筋をぞくぞくと走りゆくものを感じる。
 ハツキの視線に気づいた彼に蕩けた表情で微笑みかけ、唇を重ねた。お互いに熱をもった舌を絡ませ、唾液をもすする。
 彼が与えてくれるものならば、何でも欲しい。
 罪など知らない。今、この一瞬、この間だけは何もかもを捨て、彼だけで満たされていたい。
「テレーズ、好き。好きだよ……」
 うわごとのように囁く。
「俺もだよ……。おまえ、本当に可愛い」
「ねえ……これだけじゃ足りないよ……! あ……ぁんっ……! もっと君でいっぱいにして……! 君だけにしてよ……!」
 彼のものを抜き差しさせながら、キスを繰り返しながら、身体中全てを埋め尽くしてと、喘ぎ混じりに懇願する。
 テレーズは眉間の皺を一層深くすると、ハツキの脚を持ち上げて押し倒し、ハツキの上に覆い被さってきた。今度はテレーズの方から噛みつくようにハツキの口を塞ぎ、唇を離すと絞り出すような声を出した。
「だから、おまえ可愛すぎるんだよ……! こんな姿、絶対誰にも見せるなよ……!」
 テレーズに突き上げられ、ひぅっ……と、ハツキの口から悲鳴のような声が漏れる。
 身体の最奥を突き刺される感覚に無我夢中になりながら、ハツキはテレーズの背に爪を立てた。
「見せるわけ、ない……!」
 自分の全ても彼のものにされてしまいたい。彼以外の誰にも、何にも縛られたくない。
 ──世界が君だけであって欲しい。
 それ以外、もう考えたくない。

     ※

 浮かされたような熱が冷めると、汗にまみれた身体に初冬の夜明けの室温は低い。
 寒さにハツキはふるりと身体を震わせた。それに気づいたテレーズが何も言わずに、ベッドの脇に押しやられていた掛布を戻して二人の身体にかけ、ハツキを背中から抱き締めてくれる。
 彼の身体と掛布の温かさに息をつく。
 彼に求められ抱かれる悦び、今背中に感じる体温の温かさ、眠りに落ちる時傍にいてくれる心強さ。
 ──なくしたくないだなんて。
 罪だとしても、本来ならば許されないことであっても、彼の未来を損なうことに繋がると解っていてさえももう、この手を離すことが出来ない。
 テレーズの唇に首筋を愛撫されながら、ハツキは両手で顔を覆った。
「ハツキ?」
 動きを止めたテレーズに低い声で訊かれ、顔を覆ったまま首を振る。
「なんでもない」
「……そうか?」
 優しく囁いてテレーズは両手を伸ばし、ハツキの手をゆっくりと顔から引き離させた。そのまま、大きく骨太な手でハツキの両手を包み込む。
 それ以上のことは何も言わず、ただこうやっていてくれる。
 そんな彼の度量の大きさに涙が溢れそうになる。けれどそれを飲み込んで、ハツキは小さく顎を仰け反らせ、テレーズの肩に頭を乗せた。
 ──好き。
 彼がどうしようもなく好きだ。
 彼と共にいるこの時間が、かけがえのないまでに愛おしい。
 窓から空が白んできているのが見えた。
 空気がしんしんと冷えていそうな、雲一つない冬の早朝の青空。
「今朝も寒そうだな」
 同じように南の窓に目を向けていたらしいテレーズが呟く。
「うん。空が澄んでいる。……そろそろ起きなきゃ。大御神(おおみかみ)様にご挨拶に伺わないと」
「そうだな」
 そう言いながらも、この温かさから脱するのは容易ではない。
 ハツキは自分の手を握るテレーズの両手を引き寄せ、胸元で交差させた。テレーズがくすりと笑う。
「今日のおまえの予定って、庭のお(やしろ)の掃除だけだったよな」
「うん。そうだよ」
 テレーズに確認をされ、ハツキは頷いて返した。
 カザハヤの屋敷の庭にある、天之大御神(あめのおおみかみ)を奉る小さな社の管理は、もともとはサネユキが行っていたのだが、今年の四月(芽月)に進学のためにハツキが故郷のベーヌから王都に出てきてからは、その役目はハツキのものとなっていた。
 大学の授業がない週末の今日は、年末の煤払いをする予定だった。
「朝食の後、すぐに始めるつもり」
「ああ、俺も手伝うよ。そしたら午前中だけで充分終わるだろう? 午後から出かけよう」
 テレーズの提案に、ハツキは肩越しに彼を振り返った。
 彼が一緒に手伝ってくれるのはもちろん嬉しい。そしてもう一つの提案には心が躍った。
 まだ、ただの友達同士だった頃から、彼はこの街の様々な所を案内してくれた。彼と一緒に行く所は、どこでもハツキにとって新鮮で楽しい場所だった。
「今日はどこに連れて行ってくれるの?」
 目を輝かせたハツキにテレーズも嬉しそうに微笑する。
「三区のサン=リニオン大聖堂。礼拝には何度も行っているけどさ、今週から来月のユーウィス大祭の飾り付けが始まるんだ。見に行こう」
 ルクウンジュ国の一月(雪月)は、新年を祝う一日と、十日のユーウィス神の大祭が盛大に祝われる。
 同じルクウンジュの国内でも、ハツキの出身地であるベーヌでは新年の祭に重きが置かれているが、ユーウィス教の総本山であるルクウンジュ北部、霊峰バランスの麓にある聖都サン=バランスや、王都大聖堂ではユーウィス大祭が大々的に執り行われる。
 その大祭のための、大聖堂を彩る壮麗な装飾が十二月(霜月)の第一週の週末からされるのだった。
「おまえ、ベーヌではユーウィス大祭に参加することなんか出来なかったんだろう?」
「うん。聖堂の飾りも見たことなくて、姉達に話してもらっていたばかり。サン=リニオン大聖堂の飾りについてはユキ兄から聞かせてもらっていたよ。立派な飾りなんだってね」
「ああ。毎年趣向も凝らされていてすごいぞ。大聖堂を詣った後は四区の中央市場に行こう。こちらも年末の売り出しで大賑わいだ」
 テレーズの計画に楽しくなって、ハツキはくすくすと笑った。
 人混みは苦手で、中央市場も一人では到底近づくことは出来ない。けれどテレーズと一緒ならば話は別だ。彼となら人混みでも平気で歩けるし、活気のある市場の空気を思う存分楽しむことが出来る。
「中央市場に行くのだったら、マルゴおばさんの揚げペリメニも食べに行かなきゃ」
 ペリメニは、小麦粉を水、卵、バターを混ぜて練り、それを小さくちぎって薄くのばした皮に、挽肉と玉葱、香辛料などで作った餡を包んだ料理である。ルクウンジュのあるセーリニア大陸東部の草原地帯に位置する国々で、茹でる、焼く、揚げるといった様々な調理法でよく食べられていた。
 マルゴおばさんの店は中央市場にある揚げペリメニ屋だった。揚げたてのさっくりした皮と、中身の旨味溢れる肉餡が人気の店である。ハツキもここの揚げペリメニが気に入り、テレーズと一緒に中央市場に行くたびに店に寄っていた。
 また、店主のマルゴおばさんも大変気っ風がよく、会話をしていて気持ちのいい人物だった。
 しかし、ハツキの言葉にテレーズは苦笑を洩らした。
「おまえ、あそこに行ったらペリメニ山盛りになるぞ。おばさん、おまえのことお気に入りだから、ものすごくおまけを付けてくれるじゃないか」
「え? それって君も一緒だからだろ。それにおばさん、ユキ兄のファンとも言ってたよ」
 ルクウンジュ政界の重鎮、カザハヤの次期当主でもあるサネユキは、祖父や伯父と共に新聞に写真が掲載されることがある。また社交界でもその美貌やセンスの良さは注目され、同じくファッションリーダーとして名高いテレーズの長兄であるメールソー・ラウールと共にファッション雑誌に取り上げられることがしばしばあると話には聞き、ハツキも王都に来てからは何度か掲載誌を見る機会があった。
 そのためサネユキは王都の女性からの人気が高い。マルゴおばさんもそんなファンの一人だった。
「あそこのペリメニは冷めても美味しいからお土産に出来るでしょ。そしたらユキ兄も食べるから、おばさんも喜ぶよ。ユキ兄も学生時代なんかはお店に行ってたらしいけどね」
「ああ、それおばさんも言ってたなあ。友達と一緒に来てたって。さすがにもうユキさんは気軽に行くこと出来ないだろうからなあ」
「うん。だからお土産に持って帰ってこられたらちょうどいいんだよ」
 軽く言ってハツキは身体を返し、テレーズと向き合った。彼の肩に両腕を回して、こつんとテレーズと額を合わせる。
 今は、楽しいことだけを。
 テレーズに笑いかける。
「僕たちが恋人同士になって一ヶ月の記念日のデートってことだね」
 テレーズも笑うと、ハツキの唇に啄むようにキスをした。
「ああ。ま、一日遅れだけど」
「昨日は学校があったのだから仕方がないよ。誤差の範囲だって」
「だよな」
 答えるとテレーズは上半身を起こし、ハツキの頭を撫でた。
「さ、起きよう。シャワーを浴びないと」
「うん」
 ハツキも起き上がり、間近から彼の顔を見上げ、それから軽く吹き出した。
 テレーズの顔に手を伸ばし、頬に触れる。
「髭、ぞりぞりしてる」
「おまえなあ……」吹き出したハツキにテレーズは呆れた声を出した。
「これが普通なんだって。おまえやユキさんが薄すぎるんだよ。そんなにしょっちゅう笑わなくてもいいだろう」
「だって……。解ってるんだけど、ついね。でも、君だって伸ばしたら似合うんじゃない? 君のお父様は立派な髭を蓄えてらっしゃるし、アルさんも無精髭が似合っているよ」
 アルベールはテレーズの三番目の兄である。彼の名を聞いて、テレーズは顔をしかめた。
「嫌だよ。今のところ、俺の好みじゃない」
「まあ、僕も今の君の方がいいけれどね」
「こいつ、適当なこと言いやがって」
 テレーズに羽交い締めにされて、ハツキはまた笑い声を上げた。
 こんな他愛もない会話も、彼とするのならば至宝となる。
 ひとしきりハツキを羽交い締めにすると、テレーズは腕を放してベッドから立ち上がった。ベッドの下のガウンを拾い上げて羽織り、ハツキのガウンも手に取ってこちらに渡してくる。ガウンを受け取って袖を通すと、ハツキもベッドから立ち上がった。
「さーて。今日も楽しみだな!」
 伸びをして次の間のシャワールームに向かうテレーズの背中を流れる長い金髪を眺め、ハツキは微笑んだ。
「うん。……楽しみだね」
 ──今だけ。この幸せは、今だけ許されているもの。
 正気に戻れば、その事実を噛み締めるしかない。
 罪は重々自覚している。だからこそ。
 ──前途溢れる君の未来を損なうようなことだけは絶対にしない。
 翠の瞳を閉じ、神に願う。
 ──天之大御神よ、ユーウィスよ。貴方達のしもべに慈悲を。……僅かでいい、猶予を。
 一人残った部屋の冷えた空気に、願いはこぼれ消えて行く。

 今は冬の初め。春はまだ遠い。




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