勇気の旗高く 池田先生と茨城
2020年02月24日


「大海原のごとき心で」――池田先生は“厳寒の茨城指導”で日立を訪問。太平洋と白亜の灯台をカメラに収めた(1982年2月10日)

“直通”の信心
〈茨城の同志の合言葉は「直通」。愚直なまでに師匠を求め抜き、広布にまい進する心意気を表している。1988年(昭和63年)2月27日の茨城県記念総会で、池田先生は、その意義について語った〉

茨城の旧国名は「常陸」と呼ばれた。この「常陸」の由来には諸説があるが、一説には「直通」からきているといわれる(『常陸国風土記』)。すなわち“道が直通に続いている”との意味である。
現代も茨城県は、交通網の整備も進み、東京中心部との連携を密にしながら“自立都市圏”として発展している。また、科学万博、筑波学園都市をはじめ、国際交流、学術振興の“道”も開いている。
次元は異なるが、信心の世界にあっても、「常陸」の由来のごとく、茨城の皆さまは、どこまでも御本尊にまっすぐ通じる純粋な信心を貫いていただきたい。

強き祈りと行動で、幸福勝利の実証を示す茨城の友(2019年9月15日、茨城文化会館で)

〈今年は水戸支部結成60周年。先生は2002年(平成14年)の随筆で、それまでの茨城訪問を振り返りつつ、初代会長・牧口常三郎先生と茨城との深き縁をつづっている〉

それは、晩秋の十一月二十六日のことであった。
第三代会長に就任して半年余り――一九六〇年(昭和三十五年)のその日、私は、茨城の水戸へ走った。県営の体育館に約八千人が集った、水戸支部の結成大会に出席したのである。
前日の雨はあがり、青空が見えていた。
新出発の同志に、私は「自分自身との闘争を!」と強く訴えた。全員が偉大な「人間革命」の歴史を綴り残してほしかったのである。
それから十年目となる一九六九年(昭和四十四年)の十一月二十九日、私は、発展する茨城総合本部の指導会をもった。
その日は快晴だった。沈黙の空を見上げる、青年たちのにぎやかさは壮観であった。会場の水戸会館には、壮年、婦人も共に、四百人の代表が集い合い、どの顔も、晴れ晴れとして輝いていた。

私は戦時中、あの霞ケ浦に臨む、土浦の少年航空隊の基地にいた友人を訪ねた。それ以来、幾度となく茨城の大地を踏みしめた。

茨城は、牧口先生も何度も来られている。
『万葉集』に歌われる関東の名山・筑波山にも、足を運ばれた。一九三六年(昭和十一年)の一月のことである。土浦から筑波鉄道(当時)で麓の町に行き、この端麗な山を仰がれたのであろう。

牧口先生は、翌日には下妻を訪れ、青年教育者を交えて座談会を開くとともに、茨城県支部を発足された。
手元の資料を見る限り、これは、牧口先生が自ら出席して結成された「最初の地方支部」であったようである。

反転攻勢の勝鬨
〈このほど、2月11日が「茨城青年部の日」に制定された。その淵源は、1982年(昭和57年)、邪宗門の謀略に苦しんだ友のもとへ池田先生が駆け付け、渾身の激励を重ねた“厳寒の茨城指導”にある。
99年(平成11年)の随筆に、その反転攻勢の広布史が記されている〉

茨城文化会館での記念撮影の際、池田先生が3500人の青年を励ます。「茨城青年部の日」の淵源となった(1982年2月11日)

水戸の偕楽園の梅が満開に咲き香る季節は近づいていたが、まだまだ寒かった。
一九八二年(昭和五十七年)の二月七日、私は、牧口先生と同じ決心で、寒風のなか、茨城の同志のもとへ走った。
少々、風邪気味の体は熱っぽかったが、一夜明けると、すっかり楽になり、同志の題目を感じてならなかった。
私は、完成間もない、水戸の茨城文化会館に本陣を置いて、北は日立、東は鹿島、南は土浦へと、広宣流布の大波を起こす決意で、正義の軍艦のごとく動きに動いた。
その日立も、鹿島も、また、土浦方面の竜ケ崎、谷田部などでも、邪僧が正義面して、仏意仏勅の学会に泥をかぶせ、唾を吐いていた。
可憐な花のごとく、清らかな魂の同志は、こんな悪逆非道はない、これが正しき仏法を守る坊主であるはずがないと、悔し涙をのんで、耐えに耐えてきたのだ。
仏法の世界にあるまじき、この悔しさは、当時の同志たちの心からは、永遠に消え去ることは絶対にない。
いかなる嫉妬と中傷の矢も、太陽を射ることはできない。威風堂々、太平洋に昇りゆく太陽のごとく、正義の旭日が昇れば、邪悪の闇は破れる。
私は、あの地でも、この地でも、雄々しき戦闘を勝ち取っていく、わが広布の同志の頭上に、勝者の月桂冠を載せながら、戦い抜いた。
その間、わが師である戸田先生のご生誕の日(二月十一日)も、茨城で迎えた。先生の年齢と同じ、八十二個の鉢植えの梅が、寿ぐように香っていた。
この日、二十一世紀を託しゆく男女青年部、三千五百名による、「茨城二〇〇〇年会」が結成された。
若き勝鬨の声は、今でもこだまして聞こえるようだ。

凱歌の人生を
〈90年(平成2年)6月、茨城文化会館で行われた本部幹部会。池田先生は、邪悪との闘争を勝ち越えた同志をたたえ、勝利の人生を生き抜く要諦を示した〉

大聖人は「仏法は勝負」と教えてくださっている。人生もまた“勝負”である。

絶対に強くならねばならない。悪世末法といわれる現代の社会にあって、力がなく、弱ければ負けてしまう。こちらが勇気を出し、力をつけていけば、おごった敵も必ず打ち破っていけるのである。

御本尊を持ち、広布にまい進する皆さまは、全てが尊い仏子である。仏の子を、三世十方の仏・菩薩、諸天善神が守らないはずがない。

妙法の大道を歩む私どもには、何も恐れるものはない。御本尊の無量無辺の功徳に包まれた皆さまほど、強く素晴らしい存在はない。どうか、そのことに深き確信を持って、堂々と勝利の人生を生き抜いていただきたい。

アヤメで彩られた茨城文化会館を視察する池田先生ご夫妻。「皆さまの“勝利”の姿を象徴するかのよう」と友をたたえた(1990年6月19日)

ところで、私たちは、何のために生まれてきたのか。この人生の大問題について、戸田先生は次のように明快に述べられている。

「なぜ人間に生まれてきたか。簡単なようで、しっくりとしない問題でありますが、あなた方はこの世に遊びにきたのです」と――。
“われわれは、この世に遊びに来た”――。もとより、「遊び」といっても単なる娯楽などとは根本的に異なる。人生を自在に楽しみ、幸福を満喫しきっていける“境涯”を示されているのである。

人生、生活の一切が楽しく、常に「喜び」と「希望」を見いだして悠々と生き抜いていく。ここに、私どもの信仰の目的がある。また人生の究極の目的、理想がある。

たとえば、職場で上司に叱られることがあっても、その指摘を誠実に受け止めればよいのである。変にしょげかえってしまう必要はない。「ああ、自分を励ましてくれて、ありがたいな」とか、「うちの課長も本当に元気だな」(笑い)と、いい意味でたくましく捉えて、奮起していけばよいのである。
要するに、“グチ”や“不平”に流されず、常に現状を“いい方へ、いい方へ”、“希望へ、喜びへ”と、捉えていける「強い心」を持つことである。ここに、人生の勝利をもたらす「知恵」がある。また、それを実現していけるのが信心である。

〈池田先生は“茨城は日本の縮図、広布の縮図”と、深い使命を強調し、さらなる発展に期待を寄せる。師の心に応え、茨城の友は、一人一人が堂々と凱歌の人生を飾りゆく〉