幸福は心の深さで決まる

色鮮やかに咲くパンジーの花。1985年2月、池田先生が愛媛文化会館(現在の松山文化会館)の屋上から松山市の街並みを望みつつ、シャッターを切った
日本一麗しい家族
いにしえより伊予国として栄え、歴史的建造物が数多く現存する愛媛県。1973年(昭和48年)11月11日、池田先生は松山市内での県幹部総会の席上、「日本一麗しい仲の良い愛媛家族」との指針を贈るとともに、愛媛の風土や県民性を語り、友の活躍に期待を寄せた。
愛媛の郷土は「古事記」の「国生み」のくだりに「伊予国は愛比売と謂ひ」と記されているごとく、まことに、麗しい平和なところであります。特に、この松山市の辺りは、額田王が「万葉集」において「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」と詠んだ、昔から詩情豊かなところであります。
近くは正岡子規、夏目漱石が起こした新派俳句の都であり、また、学問の盛んなところでもあります。

よい意味の従順で勤勉で、勇敢で、そのうえ情がこまやかであるとされているようであります。どうかそれらの特性をより以上信心で磨いて、また崩さないようにして、立派な所願満足の人生を完成していってほしい。
“愛媛の同志をごらんなさい”といわれるようになっていただきたいのであります。
そして、ますますこの麗しいよい郷土を、皆さん方の力で守り築いてください。
「真剣」が壁を破る
「聖教の四国」と呼ばれるほど、機関紙の購読推進において全国をけん引してきた四国。この伝統は、愛媛の同志を先頭に築かれた。73年(同48年)5月、聖教拡大で師恩に応えようと懸命に対話に走り、同年10月には8000部を超える拡大を達成。翌月、師匠を愛媛に迎えた。先生は、愛媛の友の奮闘を随筆につづった。

「聖教新聞」は、戸田先生が、「日本中、世界中の人に読ませたい!」と念願されていた新聞である。
“よし、私たちは、愛媛中の人々が「聖教新聞」を読む時代をつくってみせる!”
「創価学会の新聞か!」と取りつく島もなく、断られることもあった。「だめだ、だめだ」と厳戒な警備さながら追い返されたことも多かった。しかし、「勇気」の愛媛のわが同志は、絶対に挫けなかった。
わが友は、あの堅固な松山の城を見つめながら走った。そしてミカン畑が広がる地域にも、さらには瀬戸内の島々や山間の村々も駆け巡った。
愛媛の津々浦々で、学会の正義を訴える声が、勇気凜々と響き渡っていった。
真剣な心が、友をつくる。
真剣な行動が、厚い壁を打ち破る。
そこから、人々の心が動いた。時代が動いた。いな、動かしたのだ!
題目一筋の人に
第1次宗門事件の渦中の79年(同54年)4月、先生は第3代会長を辞任。“先生が来られないのなら、私たちが行こう”と、愛媛をはじめ四国の友は翌年1月、大型客船「さんふらわあ7」号で神奈川文化会館にいる師のもとへ。愛媛の同志は同年5月にも海を渡った。その折、先生は神奈川での交歓の集いに出席し、次のように語った。

御本尊に題目をあげる力に勝るものはない。この題目を唱え、広めていく地涌の菩薩の皆さんは、一切の根本法に則っているがゆえに、誰人より尊く、幸せであり、人間王者といってよい。この題目一筋に生き抜く人にかなうものはない。誰よりも偉大な法則に則った人生を生きることができるのである。これこそ最高の人生なのである。
虚像の人生の人は弱い。信仰の大地に根を張った庶民の力は強い。我が創価学会の強みは、無名の庶民が題目を唱え、連帯し、広宣流布の大願に進んでいるところにある。
一声の題目が、全宇宙に響き渡り、先祖代々に妙法の功徳が回向されるような決意で、また、自身の根本的な宿命転換の原動力となり、親族、全支部員にもその波動を与えていくとの確信をもって題目を唱えていただきたい。
一軒また一軒と
85年(同60年)、先生は2月と4月の2度、愛媛を訪問。2月4日には、悪侶の迫害と戦った大洲市へ。南予圏の合同地区部長会に出席し、不退転の同志の勝利をたたえた。
“仏法は勝負”である。仏と魔との戦いであるが、皆さんは信心で勝った。まぎれもなく勝利したのである。
「ただ心こそ大切なれ」(御書1192ページ)と日蓮大聖人は仰せである。「心」とは「信心の心」である。御本尊を根本として、信じ、行じゆく「信心の心」が、どうであるかが大事なのである。
信心は、一生成仏つまり幸せになるための信心である。御書にも、理解はできても信心なき「有解無信」の人は「成仏すべからず」と説かれている。逆に理解はできなくても信強き「有信無解」の人は「成仏すべし」と仰せである。
つまり、学歴、才能の違いも、貧富の差も、信心における幸・不幸とは無関係なのである。御本尊を信じ、南無しゆく心の深さこそが、幸・不幸の岐路を決める要諦となることを知っていただきたい。
地区部長会の後、先生は市内の功労者宅へ。くしくも会長辞任後、500軒目となる家庭訪問だった。その時の思いが、随筆にしたためられている。
五百軒目は、坊主の迫害に耐え抜いた愛媛の勇者の家であった。一九八五年(昭和六十年)の寒い二月のことである。その後も、全国各地、また世界を回るなかで、寸暇を惜しんで、広宣流布の尊き同志のお宅を訪問させていただいている。
一軒また一軒と数が増えるにつれ、自分の家族も増えるような思いであった。
苦労して個人指導、家庭指導に歩けば、その分だけ、人間としての厚みがまし、豊かな境涯になれるものだ。
やはり、一軒また一軒と家庭まで足を運び、語り合わなければ、その人の苦しみも、その人の本当の悩みもわからない。すなわち、その人の人生と使命と未来への希望を与えることができない。
会長辞任の直後、地道な家庭訪問から闘争を開始し、今や学会の民衆のスクラムは、世界をも結ぶまでになった。
一人を味方にできない人は、世界を味方にできない。
一つの家庭の幸福に尽くせない人は、人類の幸福に貢献できない。
明年の5月3日は、池田先生の会長就任60周年。愛媛初の支部となる松山支部の結成60周年でもある。愛媛の友は、さらなる弘教・人材の拡大で“師弟共戦の60周年”を荘厳する。
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