勇気の旗高く 池田先生と和歌山
2019年08月19日

連続勝利の歴史を飾れ

和歌山・白浜の関西研修道場から大海原を望む。池田先生は「和歌山の海は美しい。とりわけ白浜の海は明るく、壮大である。暖かい光に満ちている」とたたえた(1988年3月、先生撮影)

詩情薫る天地
紀伊山地の山々が県の面積の大半を占め、太平洋にも面する和歌山県。
白浜町にある関西研修道場は、風光明媚な景観が広がる。1988年(昭和63年)3月、同道場で行われた和歌山県総会で、池田先生は和歌山への思いを述べつつ、友の広布への献身をたたえた。

和歌山は、海も山も、自然そのものが“和歌”であり、美しき詩歌の天地である。
私にとっても、この地は、青春時代からの憧れの地であった。若き日の日記に、私は「あこがれの和歌山」との一言を記した。

この詩情薫る天地で、私は草創の同志と数々の金の思い出を刻んだ。記念のカメラにも納まり、また未来に思いをはせ、ともに語り合った。
二十八歳、二十九歳と、和歌山市と白浜を訪れて以来、私の訪問も、すでに約二十回。この間、苦も楽もともにしながら、黄金の日記をつづることができた。その黄金の歴史を共有した和歌山同志のことを、私は生涯、忘れないであろう。

皆さま方は日夜、広布のリーダーとして、懸命に民衆の嘆きに耳をかたむけ、その幸福を祈り、行動されている。
仏法の眼、生命の因果の眼から見るとき、いかなる栄誉の指導者よりも尊き存在であられる。
その無償にして、信念の行動に対して、御本仏の御称嘆はもとより、全宇宙の諸天善神が皆さま方を守りに守っていくことはまちがいない。
私も戦う。
指導者として、休みたくとも休むわけにはいかない。
止まりたくとも、走るのを止めるわけにはいかない。
その、広布への渾身の実践にこそ、大聖人の仏法の生きた脈動が、また魂があると信ずるからだ。

県総会の前日に開催された和歌山広布35周年の開幕を記念する研修会では、リーダーが“陰の人”に光を当てる大切さを訴えた。

広布の庭には、光の当たらぬ舞台でも、誇り高く黙々と活躍している人がいる。
たとえ、だれにほめられなくとも、ひたすら自らの使命の道に徹し、行動している人もいる。
そうした友を徹底して守り、支え、励ましていくことを、広布のリーダーは決して忘れてはならない。
高熱を押して
「和歌山の 友に 魂とどめむと 熱き生命の 舞の歴史は」――この和歌を池田先生が詠んだのは、69年(同44年)12月21日。和歌山県幹部会が行われた日である。
先生は高熱を押して、24分間に及ぶ烈々たる指導を。2003年(平成15年)の随筆で当時の模様をつづった。

和歌山訪問を前に、私は大阪で、四十度を超す熱を出してしまった。疲れに疲れきってしまった。
私の容体の連絡を受け、妻も急きょ駆けつけた。
体を診てくれた医者は、「熱が下がれば……」と口にしたものの、本心は、絶対に和歌山行きは中止すべきだと訴えていた。側近の幹部からも、断じて行かぬよう止められた。
私は、妻と二人きりになった時に言った。
「どうしても和歌山に行ってあげたい。途中で倒れれば本望だ」
暗々のうちに二人で納得し合った。行くことが決まったのだ。

遂に和歌山の同志と共に迎えることのできた、あの県立体育館での幹部会では、会場を揺るがせゆく、歓喜と勇気の漲る師子たちのシュプレヒコールが天まで轟き響いた。
「和歌山は、戦うぞ!」
「和歌山は、勝つぞ!」
誰も私の本当の病状など知らないはずだ。
私は嬉しかった。高熱を忘れて、同志の勇敢なる雄叫びに喜びもし、安心もした。
その会合の最後に、同志の求めに応じて学会歌の指揮を執った後、もうその体は自分のものではなかった。
宿舎に移り、汗ビッショリとなった下着を替え、ただちに医師に注射を打ってもらうと、ほんの少しだが、体が楽になった。
起き上がって、窓のカーテンを開けると、眼下に別世界の和歌浦湾があった。
海の彼方に煌めいていたのは、海南市の灯りであった。あの地でも、わが同志が、生き生きと不屈の活躍を続けているにちがいない。私は合掌し、人知れず友の幸福を祈った。

御書には「一は万が母といへり」(498ページ)と仰せである。
一人の勇気ある行動が次の一人の行動を呼び、遂には万人の勇気の行動となり、勝利を呼ぶのだ。
恐れなき和歌山の友よ、一人ももれなく幸福と栄光を勝ち取り、和歌山の連続勝利の歴史を、全世界の友のために築き飾っていっていただきたい。
日本一の人材城を
愛する和歌山の天地に永遠に崩れぬ人材の城を築くため、池田先生は励ましを重ねてきた。1996年(平成8年)3月、和歌山文化会館を初訪問した際には、次のように呼び掛けた。

私は、ずっと思ってきた。
「和歌山に住んでみたい。もし、東京から引っ越すとすれば和歌山を選ぶにちがいない」と。
和歌山で広布の指揮を執り、また詩をつくり、書きものをしたいと願ってきた。
『老人と海』などで有名なアメリカの文豪・ヘミングウェイも、紀州に憧れを抱いていたという。

二十一世紀へ、「理想の和歌山」をつくっていただきたい。日本一の偉大なる「人材の城」を残していただきたい。
広宣流布を進めた分だけ、自分が功徳を受け、永遠の財産を生命に積む。
立派な「人材の城」をつくった分だけ、自分の生命が堅牢な城のごとく強くなり、健康になる。
「責任」を自覚した分だけ、「喜び」もある。これが仏法の方程式である。

師の激励に応えようと、和歌山の友は勇んで前進してきた。先生は2000年(同12年)の随筆で、その姿に喝采を送る。

嵐と怒濤を切り抜け、暗雲を破り、学会創立五十五周年にあたる一九八五年(昭和六十年)の四月には、晴れ晴れと、あの日、あの時と同じ県立体育館で、勝ち誇った顔も明るく賑やかに、和歌山の青年平和文化祭が開かれた。
私が舞ったその場所で、今度は、凜々しき後継の若武者たちが雄渾なる乱舞を、そして、学会歌の大合唱をしてくれたのであった。
若々しく空に伸びゆく青年の姿が、私は何よりも嬉しい。君の心の中に、あなたの心の中に、不滅の勝利の舞が輝いているからだ。

晴れ渡る朝、友と歩んだ南紀・白浜海岸――。幾度、私は、金波、銀波がきらめく水平線の彼方に、広宣流布の栄光を見つめたことだろう。
和歌山は、私の胸に光り続ける、憧れの世界だ。
美しき紀の国・和歌山!
「木の国」の名のごとく、わが同志の心には、不動の信念の大樹がそびえる。
黒潮躍る光の国・和歌山!
恐れなき同志は、青き太平洋のごとく、悠然と、勇気と希望の大波を広げる。
私は、そんな和歌山の輝ける天地を愛する!

師が渾身の指揮を執ってから、今年は50周年の佳節。意義深き“創価勝利の年”の上半期、和歌山の友は「日本一」の対話拡大を成し遂げた。
「連戦連勝」の歴史に、新たな一ページが刻まれた。