日本海の雄、ここにあり!

雲の切れ間から、まばゆい陽光が雄物川に降り注ぐ(池田先生撮影、1982年1月、秋田県内)
「一人」を大切に
「戦う秋田」「創価の大道を歩む秋田」――そのルーツは池田先生が若き日、支部幹事として指揮した蒲田支部にある。先生は「学会精神の息吹を、満々と呼吸して伸びてきたことが、秋田の誇りだ」とたたえている。
1954年(昭和29年)7月、戸田先生が秋田の地を初訪問。その2年後の56年(同31年)には、“日本海広布”の先陣を切る秋田支部が誕生した。

そして翌57年(同32年)4月、勢いを増す秋田支部は全国3位の弘教を達成。ある地区の折伏は1300世帯を超え、“弘教日本一”を成し遂げたのである。
「日本海の雄・秋田、ここにあり!」――全国の同志を驚嘆させた拡大であった。
翌5月、池田先生は秋田を初訪問し、歓喜に沸く支部総会に出席。当時、「上野―秋田」間は急行でも、片道12時間ほどかかった時代である。
先生は2003年(平成15年)3月の随筆で、秋田広布の誉れ高き伝統をつづった。
草創期の秋田の同志には、小さく納まってしまう発想はなかった。
自身の限界を破って、打って出た。雪が降ろうが、風が吹こうが、断固として、前へ、前へ、前へ!
まさに、破竹の勢いがあった。勇気の行動があった。ゆえに喜びの爆発があった。
「広宣流布こそわが人生」と思い定めた、崇高な使命感が燃えていた。
仏法を求める人が、不幸に呻吟する人がいれば、近隣はもちろん、秋田中、東北中、いな、日本中に飛び出していくかのような勢いであった。
日蓮大聖人は、「道のとを(遠)きに心ざしのあらわるるにや」(御書1223ページ)と仰せであられる。
「友を思う真心」「仏法を求める志」の前では、道の遠さも、また、不便さも決して障害ではない。
「よし、行こう」と勇気を奮って決意した時、心は物理的な距離を超え、もう相手に向かって走っている。
遠くて、滅多に会えない場合もある。だが、その分、一期一会の思いで、心血を注げば、思い出は無限となる。
今は電話やメールも活用できる。
大事なのは「会おう」「語ろう」という深き一念だ。
それは、自分が縁を結んだ「一人」を、絶対に大切にしようという真剣さといってもよいだろう。
この「真剣」の二字に、慈愛も、信頼も、連帯も、勝利も、すべて収まっている。
人生もまた同じだ。「これだけは石にかじりついてもやる!」という執念で、一日、一日を勝ち取る以外に、偉大な歴史は残せない。
自分自身のため
1977年(昭和52年)ごろ、秋田では第1次宗門事件の嵐が吹き荒れた。“東の秋田”“西の大分”といわれるほど邪悪な僧らの謀略に苦しめられた地で、秋田の同志は懸命に耐えた。
そして迫害の嵐を乗り越え、師弟勝利の雄叫びが轟いたのが82年(同57年)1月の「雪の秋田指導」である。

「それは忘れえぬ 決して忘れることのできぬ 私の胸中の歴史の一コマであった」と池田先生は述懐する。
秋田指導3日目の1月12日に行われた県幹部会(当時の秋田文化会館)の席上、先生は“人生の最も深い思い出とは何か”に言及した。
人生それぞれ、さまざまな思い出があるものだ。
しかし、生命の奥深く、因果の理法で刻まれた、広宣流布への活動ほど素晴らしきものはない。それは皆さまの実感している通りである。
普通の思い出は年とともに薄らぐが、信心修行の思い出は、意識するにせよ、無意識のなかにせよ、永遠に無上道の思い出として残っていくものである。
ゆえに、広宣流布へのすべての活動は、所詮は自分自身のためであることを自覚されたい。
仏縁の拡大こそ
池田先生は、折々に「雪の秋田指導」に触れながら、同志を鼓舞してきた。
99年(平成11年)8月の随筆では、後継の秋田青年部に“強くなれ! 強くあれ!”と呼び掛けた。

仏法は勝負である。勝つか負けるか、中途半端はない。
断じて戦ってきたから、学会はすべてに勝ってきたのである。
「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」(御書1282ページ)である。
臆病では、人生は勝てない。法戦も勝てない。
正義が負けたら、永遠に人類史は暗闇となる。
「正義によって立て! 汝の力二倍せん」と、ある詩人は叫んだ。
秋田の同志も戦ってきた。ありとあらゆる中傷非難の歴戦を乗り越え、勝ち越え、栄光の自分史を築き上げた。
強くなれ! 強くあれ!
それが、勝利者の実像であるからだ。
さあ、偉大なる秋田の青年たちよ! 団結せよ! 立ち上がれ! 断固として、勝利を勝ち取れ!
君たちのあとに、日本国中の青年が立ち上がるだろう!
2002年(同14年)1月の随筆では、“仏縁の拡大こそが広宣流布の拡大”であると強調した。
人生は、弱気では決して勝てない。勇気ある信心が勝利なのだ。執念が勇気ある信心を涌出する。
ゆえに、強盛な信心こそ、尽きることなき智慧と福徳の源泉となるのだ。
学会がここまで発展したのは、なぜか。
それは、学会員が、いかなる人生の苦悩や苦境にも、絶対にあきらめず、乗り越えてきたからである。
そして、逆境のなかで苦闘している人びとのもとへ、真っ先に駆けつけ、勇敢に励まし続けてきたからである。
この精神がある限り、学会は永遠に昇りゆく太陽のごとく、無数の人間の威光勢力を輝かせていけるのだ。
「仏縁」の拡大が、広宣流布の拡大である。
雪の秋田指導の折、私は、広布の土台たる、強い支部の建設を訴えた。
「支部に、勇気ある同志が何百人と賑やかに集うようになれば、一千万の連帯が必ず築ける。そうなれば、広布の基盤は、盤石のなかの盤石である」と。
さあ! 新しき前進のこの年も、変わらずにわが大道を歩みながら、多くの人と会い、多くの友と会おう。
また多くの人と語り、多くの友と語ろう。この快活な人間と人間との「対話」の大波が、「人間主義の世紀」であり、「創価の世紀」である、と謳い上げよう!
1994年(同6年)4月、池田先生は5・18「秋田の日」を記念し、一首の和歌を贈った。
「立ちあがれ 秋田の名誉 忘るるな 断固悔いなく 歴史築けや」
秋田の名誉――それは、草創期の“日本一”の拡大であり、迫害の嵐を師弟して勝ち越えた歴史そのものである。
今再び、秋田の友は“日本海の雄”の誇りに燃えて、新たな広布の大道を勝ち開く。
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