勇気の旗高く 池田先生と埼玉
2019年03月14日

鉄桶の団結で常勝の大城を

池田先生ご夫妻が2016年1月20日、さいたま市の埼玉文化会館を訪問。先生は、同志の福徳と勝利を祈りつつ、創価の三色旗がはためく同会館をカメラに収めた
池田先生ご夫妻が2016年1月20日、さいたま市の埼玉文化会館を訪問。先生は、同志の福徳と勝利を祈りつつ、創価の三色旗がはためく同会館をカメラに収めた

師弟共戦の天地
 埼玉は、池田先生が師弟共戦の魂を刻んだ天地である。1951年(昭和26年)9月、23歳の池田先生は戸田先生の名代として、川越地区での御書講義に臨む。それは足かけ3年にわたった。先生は、当時の思いを2001年(平成13年)7月の随筆に記した。

  
 私は、夕暮れの池袋駅から東武東上線に乗った。電車は板橋を抜け、今の地名で、和光、朝霞、新座、志木、富士見、上福岡と、家々に明かりが灯る埼玉の天地を走り、やがて川越に着いた。埼玉の志木支部川越地区の「地区講義」を担当するためであった。
  
さらに先生は、埼玉の輝く未来を展望した。
  
埼玉が東京を動かし、全国の広布の原動力となる日が、きっとやって来る。新しき世紀の広宣流布の大電源地は、必ず、ここ埼玉になると!
私は一人、決意した。戸田先生の膝下で戦う弟子として、ここ埼玉の大地に、常勝不滅なる民衆の強固な城を築いてみせると、心に誓った。
  
以来、広宣流布への消えることなき、この光道は、大宮、上尾、熊谷へ、川口、浦和へ、さらに所沢、越谷、三郷、春日部、久喜へと、煌々と光り渡っていったことは、皆様、ご存じの通りである。

大目的を胸に
 1958年(昭和33年)4月2日、戸田先生が逝去。悲しみに包まれた学会の中にあって、“池田先生を第3代会長に”と推戴の声を真っ先に上げたのが埼玉だった。先生は2001年(平成13年)3月の本部幹部会で、当時を振り返りつつ語った。

 戸田先生が亡くなられた後、「われらの第三代会長を、早く推戴せよ!」と声を上げ、当時の学会首脳を突き動かしていったのは、埼玉の青年部であった。
 「新しい歴史」は、「新しい地盤」「新しい天地」から始まる。「新しい人材」の息吹から始まる。一人の人間の気力、迫力から始まる。自分自身から始まるのである。
  
 どうせ生きるなら、大目的に向かって、大確信をもって、自分自身の「栄光の山」を、悠然と、楽しみながら登りきることだ。
 人生、弱くては、つまらない。「私は創価学会だ。だれが何と言おうが、偉大な創価学会の代表だ」。そのくらいの決心で、胸を張っていくべきだ。自分は自分である。自分の人生である。だれがどうとか、どう見られるとか、そんな臆病な、畜生根性は捨てて、堂々と生きて生きて生き抜いていくことだ。
  
 埼玉の永遠の指針は「鉄桶の団結」である。1973年(昭和48年)9月12日、埼玉県幹部総会が行われた上尾市の運動公園体育館には、この指針が大きく掲げられた。これが「埼玉の日」の淵源となる。池田先生は指導集「広布の旗 師弟常勝の埼玉」の発刊に寄せ、団結の重要性をつづった。
  
 私が、「鉄桶の団結」との指針を贈ったのは、世界でただ一つ、埼玉だけである。
 「異体同心なれば万事を成じ」(御書1463ページ)
 この絶対勝利の法則を、どこか一カ所が確立すれば、それが末法万年尽未来際への指標となる。そのモデルを、私は、清き埼玉に定めたのだ。
 青年時代から苦楽を共にしてきた、この埼玉を、世界の友も見つめ讃える文化の香りの理想郷に――これが、私の願いであり、祈りであった。
  
 大埼玉が、大関西と並び立って、師子王の心を出し、「師弟常勝」の城を築き上げていく限り、わが創価学会は永久に盤石なのである。

ここからが勝負

 池田先生と埼玉の同志との師弟の絆は、いかなる烈風にも動じない。広布と学会の破壊をもくろむ邪宗門が91年(平成3年)11月28日付で学会本部に「破門通告書」なるものを送り付けてきた。その直後の12月8日、最初の本部幹部会が、埼玉文化会館で行われた。当時の真情を、先生は随筆につづっている。
  
 「魂の独立」を勝ち取って最初の記念すべき本部幹部会は、いずこで行うべきか。
 私の心は、一点の曇りもなく定まっていた。
 埼玉しかない!
 埼玉こそ、世界広宣流布へ飛翔しゆく新たな起点とするのだ。
  
 わが同志は、宗門の陰謀にも微動だにしなかった。
 学会は正しい! 
 埼玉は強い! 
 大埼玉が盤石であれば、何も恐れるものはない。
 私は本当に嬉しかった。
  
 さらに先生は、戸田先生と共に大宮へ足を運んだ思い出に触れ、事業の打開に挑んだ師弟の激闘を記した。
  
 (戸田)先生は、よく私に語られた。
 「人生、行き詰まった時が勝負だぞ! その時、もう駄目だと絶望し、投げやりになってしまうのか。まだまだ、これからだと、不撓不屈で立ち上がるのか。この一念の分かれ目が勝負だ!」
 そう言われながら、私の精神に深く厳として打ち込んでくださった。
 「いいか、大作、途中に何があろうが、最後に勝て! 断じて勝て! 最後に勝てば、全部、勝利なのだ」
 私には、一日一日が激戦の連続であった。瞬時も、感傷にひたる暇など、なかった。
 師のために、億劫の辛労を尽くしゆく苦闘の連続の胸中にこそ、永遠に常勝不敗の大城が築かれていることを、私は深く実感したのである。

破邪顕正の闘争
 2007年(同19年)5月8日、池田先生は日高市の埼玉池田研修道場を初訪問し、スピーチした。
  
 敵に対して本気になって戦わない。見て見ないふりをする。そんな情けない弟子、ずるい人間であっては絶対にならない。
 大きく心を開いて、本当の高次元な創価学会の精神に立って戦うことだ。「師弟不二」で戦いきることだ。「師弟」がなくなったら、学会は壊されてしまう。
 幹部が先頭を切って、師匠の正義を訴える。師の真実を、日本中に叫び抜いていく。そういう埼玉をつくってもらいたい。
  
 悪は放置すれば増長する。皆、だまされてしまう。悪人と戦わなければ、学会が破壊されてしまうのだ。
 「破邪顕正」といっても、あくまで「破邪」が先である。まず悪と戦い、悪を打ち破るのだ。それでこそ「顕正」がある。悪を倒してこそ、初めて正義を明らかにし、宣揚することができるのである。
  
 10年(同22年)10月、さいたま市中央区にある、さいたまスーパーアリーナで師弟常勝大会が意気高く開催された。席上、先生が埼玉県歌「広布の旗」に加筆したことが発表され、最後の歌詞「ああ埼玉の楽土見む」が「ああ埼玉の勝利見む」となった。
 明年は、歌詞の加筆から10周年。埼玉の同志は「広布の旗」を高らかに歌いながら、師弟常勝の人材の大城を築きゆく。