横浜 22年06月17日

太平洋に面する国際都市・横浜は、世界から多くの人々が訪れ、新しい文化が次々と花開いてきた。私たちも、対話の大海原へ朗らかに船出し、広々とした心で友好の絆を幾重にも結んでいきたい。

横浜の神奈川文化会館から氷川丸を望む(2006年1月、池田先生撮影)。氷川丸は2016年に国の重要文化財に指定された

海のごとく
心ひろびろと
空のごとく
心限りなく高く
風のごとく
心幸せのために自在たれ

心は不思議です。大きく開けば、どこまでも広く、どこまでも高く、そして、どこまでも自在に、躍動させていくことができます。
大海原と向き合い、新鮮な出会いと語らいが光る港には、皆の心を開いて、弾ませてくれる活力があります。
その世界に燦たる「共生」と「進取」の国際港が、私たちの大好きな横浜です。
東京・大田に生まれ育った私は、少年時代から、多摩川をはさんだ“ご近所”の神奈川で、たくさんの思い出を刻んできました。日本の各地を訪れた帰途、車窓から神奈川の天地を目にすると、それだけで故郷に帰ったような安堵と懐かしさが込み上げてきます。
折々に、雄大な世界へ広がる横浜の海を友と眺め、浩然の気を養いながら、新たな使命の航路を開拓してきたことは、宝の歴史です。
横浜は、わが人生のかけがえのない「心の港」と言っても、決して過言ではありません。
横浜出身の思想家・岡倉天心と交友を結び、横浜で深き創作の歴史を残したインドの大詩人タゴールは綴っております。
「ひたむきに急ぐそよ風のように、生命と若さをもって世界のなかに飛び出していきたい」と。
まさに、横浜には、活発な交流のなかで、常に新しいものを生み出し、新時代を創り開く若々しさがあふれていると言えましょう。

同志のためにピアノ演奏を披露する池田先生(1997年9月、横浜・神奈川文化会館で)

友よ負けるな
〈幾重にも広布の歴史が刻まれた横浜、そして神奈川。池田先生は、青春時代に友を励ましたことや、戸田先生が「原水爆禁止宣言」を発表したことを述懐する〉

戦後、横浜、神奈川の庶民の幸福を深く願われ、何度も足を運んで一人一人を励まされたのが、私の師匠・戸田城聖先生です。
私も師の心を体して、愛する故郷に尽くす思いで、川崎、そして、鶴見をはじめ横浜――神奈川の各地へ、友の輪のなかへ飛び込んでいきました。
それは、師の事業が厳しい苦境の時でもありました。訪ねる家々も皆、生活苦や病気との闘いに直面していました。そうしたなかで、私は、一人の青年として、困難にあった時にこそ「賢者はよろこび愚者は退く」という勇気の哲学を語っていったのです。
家計を支えるために、働きながら学ぶ道を選んだ少年には、自作の詩を贈りました。
「友よ負けるな希望を高く
僕が信ずる君が心を
努力 努力 また努力
あの日の誓い忘れるな
君の意気と若さとで
断じて進め あくまでも」――。
私自身、肺を患い、熱が続き、血痰を吐きながらの悪戦苦闘の連続でした。私の体を案じて、家の鶏の産みたての卵を分けてくださった、横浜の庶民の婦人の真心を、私は今も温かく思い起こします。

わが師は一九五七年、横浜市・三ツ沢の陸上競技場に集結した五万人の青年らを前に、遺訓の第一として「原水爆禁止宣言」を発表しました。
世界の民衆の「生存の権利」を叫び、それを脅かす魔性を弾劾した師子吼です。
生命を傷つけ脅かすものは悪であり、生命を守り育むものこそ善であります。これこそ人類に普遍の正義ではないでしょうか。
思えば、神奈川の鎌倉は、人道主義を掲げた「白樺派」の文学者らの拠点でもありました。志賀直哉は「不正虚偽を憎む気持」を培い、長与善郎は「正義に対する愛」を人々のなかに燃やすことを願いました。
新たな思潮が生まれ出ずる天地で、私の信頼する友人たちも、人間主義の「正義の旗」を誇り高く掲げ、世界市民の連帯を広げてきました。

神奈川文化会館に隣接する「戸田平和記念館」(2017年9月、池田先生撮影)。戸田先生の「原水爆禁止宣言」の精神を伝えるため、核の脅威展をはじめ平和のメッセージを発信してきた

いよいよ勇み立って
〈結びに池田先生は、横浜港のシンボル「氷川丸」に言及。大海原を進みゆく大船のごとく、いかなる荒波も越えゆこうと呼び掛ける〉

日本初の臨海公園である山下公園で、次代を担う青年や少年少女たちと、幾たびとなく語らいを重ねてきたことも、忘れることはできません。
山下公園に係留されている貨客船・氷川丸は一九三〇年、横浜で建造されました。主にアメリカ西海岸のシアトルと日本を結び、約三十年で二百五十四回の太平洋横断をしています。
“もてなしの心”が評判を呼び、あの喜劇王チャップリンも乗船しました。
戦争中には、ある時はナチスの迫害から逃れるユダヤの人々を乗せ、ある時は病院船として傷病兵を運び、機雷に接触する危機も乗り越えて、重要な使命を果たしました。
戦後は、“平和と文化の使者”として多くの留学生や芸術団なども乗せています。
人生もまた、嵐の海を越えて、価値ある行動を断固と成し遂げていく航海です。
横浜生まれの作家・吉川英治氏は記しました。
「人と生れたからには、享けた一命をその人がどう生涯につかいきるか、それでその人の値うちもきまる」
「人の一生にはたくさんなことができる。誓えばどんな希望でもかけられる」
ここから出発し、ここに帰り、また再び、ここから旅立つ――。開港百五十年を超えた横浜は、「母なる港」であり、「開かれた港」です。
わが愛する神奈川の二十一世紀の若き世界市民たちも、いよいよ勇み立って、希望の銅鑼を打ち鳴らしながら、新時代へ船出をしています。
いかなる荒波も、勇敢に朗らかに突き破って、必ずや栄光の凱旋を! と、灯台の光の如く、私もエールを送り続ける毎日です。

一隻の大船
断じて目的
達成を
共に万歳
勝利の万歳