人類史上、初めて原爆が投下された広島。池田先生は、苦難に屈せず平和の旗を掲げる人々の姿を紹介し、「限りなく勇気の光を贈りゆく『希望の天地』」とたたえる。平和な世界の建設へ!――「広島の心」に学び、今いる場所から、友好を大きく広げていきたい。

核兵器による惨禍を今に伝える広島の原爆ドーム(1985年10月、池田先生撮影)。1996年にユネスコの世界遺産に登録された
偉大なる
母あり 友あり
平和あり
わが愛する広島には、偉大なる慈愛の母がいます。不屈の信念の友がいます。ゆえに、決して尽きることのない平和への希望があります。
戦争の最も悲惨にして残酷な苦悩から立ち上がり、「平和の都」の建設の夢へ、全世界の先頭を進んできた天地こそ、私たちの広島なのです。
私の恩師である戸田城聖先生は、青年への第一の遺訓として「原水爆禁止宣言」を発表しました。
一九五七年九月八日、五万人の若人らを前に、核兵器を「絶対悪」として使用禁止と廃絶を叫び切ったのです。
「われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利をおびやかすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります」と。
この宣言の二カ月後、恩師が衰弱の著しい身を押して訪問しようとしたのが、広島です。必死で止める私に、「死んでも行かせてくれ」と言われた言葉は、わが胸奥から離れることはありません。
私にとって、広島は常に、この師匠の分身として訪ねる天地となりました。だからこそ、平和への燃え上がる情熱と具体的な行動なくして、広島へ行くことはできないと、自らに厳しく言い聞かせてきたのです。
強く生き抜く
〈池田先生はたびたび広島を訪れ、原爆の犠牲者らに追善の祈りを捧げてきたことを述懐。続いて、平和を築きゆく広島の友の生き方に光を当てた〉
原爆によって一瞬にして最愛の家族や友人を失った悲しみ、原爆症との壮絶な闘い、自分や子どもの後遺症への底知れぬ不安……。それぞれに痛切な苦悩に立ち向かいながら、広島の母の生命は何と清く美しく、広島の友の人生は何と強くたくましいのか。
あまりにも多くの命を奪った原爆にも負けず、新しい命を育て上げていくことが、平和への闘争であると、心を定めた母がいます。
被爆した自分が「生きて生きて生き抜いていくこと」それ自体が、死の兵器に打ち勝つ挑戦なりと、闘志を奮い立たせる青年がいました。
ひとたびは破壊され尽くした、この広島に根を張り、明るく仲良く幸福と歓喜の花を咲かせていくことが、亡くなった方々への追悼であると、活動してきた女性もおります。
一人一人の心には、人類のなかから選ばれて広島で戦いゆく使命の誇りが光っています。
私がお会いした尾道市出身の平山郁夫画伯も、若き日に被爆した八月六日を原点に、平和と文化の創造に立ち上がり、「生きることが美である」「生きよう、成長しようとしているときには、美しさを表す」と強調されていました。

第14回世界青年平和文化祭の会場に向かう池田先生ご夫妻(1995年10月、広島で)
私と妻が知る婦人は、爆心地から二キロほどの自宅で被爆し、最愛の妹や親友、多くの同僚を亡くしました。自身も甲状腺の異常に苦しめられます。終戦後に結婚して四人の子に恵まれましたが、交通事故で夫を失い、多額の借金を抱え、体調不良の身で悪戦苦闘が続きました。
婦人はある日、戸田先生の「原水爆禁止宣言」を知り、「私の苦しい心をわかってくれる人がいたんだ!」と感激し、そして誓いを立てます。
「人々の暮らしを破壊する核兵器を絶対に許してはならない!」と、勇気を出して各地で被爆体験を語るようになりました。
一九八二年六月、国連広報局、また広島・長崎市と共に、私たちは「核兵器――現代世界の脅威」展をニューヨークの国連本部で開催しました。国連本部で初めて広島と長崎の被爆の実態が展示されたのです。この婦人も、被爆者の代表として参加しました。
ところが、「ノーモア・ヒロシマ」と語れば、アメリカ人から「リメンバー・パールハーバー」と返ってくる。「原爆投下のおかげで戦争が終わったんだ」という元兵士もいました。
婦人は思わず「あなたは親や家族の頭の上に原爆を落とせますか」と言い返しました。さらに「アメリカが憎いのではありません。戦争が憎いのです。共に平和を!」と訴えると、元兵士をはじめ人々は皆、涙を流したといいます。
母の渾身の勇気ある叫びは、悲劇の歴史さえも、人を結び、平和を築く種子へと変えているのです。
開拓精神で!

広島県立総合体育館で開催された第14回世界青年平和文化祭。青年の連帯が光る(1995年10月、池田先生撮影)
〈広島青年部は、国内外の識者から平和を学ぶ「広島学講座」を、これまで180回以上開催。長崎、沖縄の青年部と共に「平和サミット」(2015年から「青年不戦サミット」に名称変更)を毎年のように開いてきた。池田先生はこうした取り組みを紹介しつつ、世代を超えて不戦の誓いを伝える広島は、「人類の永遠の『平和の都』」であるとたたえる〉
北広島町の中国平和記念墓地公園の「世界平和祈願の碑」には、六体の像が深い誓いを秘めて凜然と立っています。その一つの「後継の像」は、母が子を抱き上げる姿をしています。制作されたフランスの世界的彫刻家ルイ・デルブレ氏は語られていました。
「子どもを上にかざしているのは、子どもは自分の所有物ではなく、『未来の平和のために、世界へと送り出していく』そういう意義です。幼児のほうも、一人の人間として、きりっとした表情をしています。後継の困難な使命を自覚し、決意しているからです」
生命を慈しむ「母の祈り」を、青年たちが継承してこそ、平和は永続します。頼もしいことに、平和のために行動してきた広島の父母のスクラムに若き不撓の波が続いています。
かつて広島から海外へ移住した人の数は全国一であったといいます。その進取の気性に富んだ広島のパイオニア精神は、今日、平和と人道の開拓においても、輝きを放っています。
最も苦しんだところが、最も幸福になる――。
広島は人類の永遠の「平和の都」です。東日本大震災の被災地や、世界で苦難に立ち向かう人々とも連帯し、限りなく勇気の光を贈りゆく「希望の天地」なのです。
君立ちて
世界の平和の
幕ひらき
この道走れや
彼方の虹見て
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