
「笑顔で帰ってきました!」――病を克服した黄世明氏が、池田先生と喜びの再会を果たす(2000年4月14日、八王子市の東京牧口記念会館で)。毛沢東主席、周恩来総理をはじめ、要人の日本語通訳を務めてきた黄氏。「池田先生は、中日友好、世界平和に、絶対になくてはならない方です」と
神戸大空襲を経験して
通訳は、外交の要であり、時に歴史の目撃者となる。
池田先生は、よく若手の通訳たちに語った。
「通訳の声は、大きくなければいけない。大きい声でこそ、話は通じる。中国の名通訳の声は、マイクなしに人民大会堂の床から高い天井まではいのぼり、床まで降りてきて、部屋中に聞こえるような朗々とした声だよ」
その声の持ち主は黄世明氏。
毛沢東主席や周恩来総理の日本語通訳を務め、中日友好協会副会長等を歴任した日中交流の中核の一人である。
池田先生の訪中でも、鄧小平副総理や周総理夫人の鄧穎超氏、李先念副総理との会見で通訳を務めた。

第5次訪中の折、池田先生ご夫妻が、周総理夫人である鄧穎超氏の自宅を訪問。黄氏(左から2人目)が通訳を務めた(1980年4月22日、北京の中南海で)
髪を七三に分け、明るく礼儀正しい人柄。時折、言葉に関西弁が交じる。氏の出身は中国ではなく、華僑が多く暮らす日本の神戸だった。
1945年の神戸大空襲では、焼夷弾の嵐の中を逃げ惑った。当時、11歳だった黄少年は、焼けただれた死体の山を踏み分け、親戚らを捜し回った。
「酷かった……。口にしたくないほどです。戦争は民衆をこれほど苦しめるのかと思いました」
その後、中国に渡り、今度は日本軍による大虐殺の跡を目にした。街にも村にも無数の遺骨が散らばっていた。
戦争に、敵も味方も、正義もない。黄氏は「中国の惨状が、神戸の空襲とだぶって見えた」と述懐する。
ある時、知人から“今後の中日交流のために通訳にならないか”と声を掛けられ、氏は誓いを込めて決断する。「両国民は絶対に戦争をしてはいけない。あくまで友好を進めるべきだ。互いに理解を深め、平和であるべきだ」。そのために生涯をささげよう、と。
日中国交正常化の舞台裏
東西冷戦下、日中国交正常化に至る激動の10年――黄氏は、その水面下の“真実”を知る一人でもある。
「創価学会とは、どういう団体か」。60年代初頭、中国政府の上層部から中国人民外交学会に突然の問い合わせが入った。
池田先生の会長就任を機に、学会は大きく飛躍し、61年には公明政治連盟(後の公明党)が結成。周総理は、中日友好の鍵を日本の民衆に見いだし、早くから学会に関心を抱いていた。
中国人民外交学会に所属していた黄氏らは、学会についての調査を始め、『創価学会』という冊子をまとめる。
資料を目にした周総理は、「引き続き(学会の)研究を続けていかなくてはならない」と指示したという。
60年代後半、日本はアメリカに追従し、中国を敵視する政策を継続していた。一方、中国では文化大革命の混乱が広がり、中日貿易の流れも風前の灯火に。当時、日本で日中友好を叫ぶことは、世論に逆行するのみならず、命の危険をも意味した。
そうした中、池田先生は68年9月8日、「日中国交正常化提言」を発表。「アジアの繁栄と世界の平和のため」との国際的視野に立ち、「中国との国交正常化」「中国の国連参加」「貿易促進」などを訴えた。提言は大ニュースとして中国に伝わり、周総理もまた、この提言を重視した。

池田先生の提言を報じた中国の「参考消息」(68年9月11日付、新華社発行)
71年6月には、周総理の招請で、結党間もない公明党が初訪中。当初、交渉は決裂寸前となったが、異例なことに総理が自ら交渉の席につき、共同声明の調印へとつながった。
通訳等を務めた黄氏は、公明党訪中団を迎える前、先生の提言が重要資料として印刷されていたと証言する。
「公明党は池田先生が創立した政党です。彼らが正式に訪中できたのは、先生の68年の講演があったからです」
この共同声明が土台となり、翌年、両国の国交正常化が実現する。
困難の時こそ交流を
74年12月5日、池田先生は第2次訪中で鄧小平副総理と会見。この時、通訳を担当したのが黄氏である。
この3カ月前、先生はソ連のコスイギン首相と会い、「中国を攻めない」との発言を引き出すなど、中ソ対立の打開へと奔走を重ねていた。
周総理と先生の劇的な出会いが実現したのは、鄧副総理との会見の日の夜。末期のがんを患う総理が、医師の反対を制して要請した会見である。
「今後、われわれは、世々代々にわたる友好を築かねばなりません。20世紀の最後の25年間は、世界にとって最も大事な時期です」――周総理の言葉を、先生は遺言と受け止めた。
二人の会見の重みを、黄氏は深くかみ締める。その後も先生の訪中の舞台には、いつも黄氏の姿があった。
中国が国際的に孤立していた90年5月、池田先生は、約300人もの大訪中団を率いて海を渡った。国家指導者と会見し、周総理が育てた「東方歌舞団」の招へいを提案するなど、さらなる日中交流の促進に取り組んだ。
翌年、同団の顧問として、初の日本公演を成功に導いたのも黄氏である。

中国歌舞芸術の至宝「東方歌舞団」(1993年1月、都内で)。黄世明氏が来日公演の実現に尽力した
日本滞在中、黄氏は先生と会談し、こう述べている。「池田先生の世界平和への大きな足跡に思いをはせる時、痛感するのは『真の友情ほど尊いものはない』『順調な時にも、困難の時にも、中日を結ぶ私たちの友情は永遠に変わらない』ということです」
語らいのたび、氏は友誼に深謝し、「艱難に真の交わりを知る(苦難の時こそ真実の友が分かる)」「真金は火煉を恐れず(真金は炎に焼かれても変わることはない)」と、中国の箴言を引いて真情を述べるのが常だった。
病床に届けられた和歌
「池田先生! 私は笑顔で帰ってきました!」
「お元気で何よりです。お会いできて光栄です!」
2000年4月、春爛漫の都内で、黄氏が池田先生と握手を交わした。
「あれは、1992年でした。重い病気だった私に、池田先生はお歌を詠んでくださいました」「その歌を、私は今も大事に大事にしています。その歌を見るたびに、力が湧いてきます。勇気づけられます」
黄氏は長年患っていた病が悪化し、人知れぬ闘病の中で、友好事業に命を懸けていた。92年の訪中のさなか、黄氏の闘病を知った池田先生は、即座に和歌をしたため、病床に届けている。
「祈るらむ また祈るらむ 大兄の 偉大な笑顔が 帰るその日を」
かつて黄氏が体調を崩した折、ホテルの廊下で周総理とばったり会ったことがある。総理は「君、しっかりやっているか。大丈夫か」と、氏を包み込むように励ましてくれたという。
池田先生もまた、立場や肩書などを超え、氏の回復を願い続けた。
その激励に応えるかのように、黄氏は健康を取り戻し、94年に来日を果たす。再会の折、先生は「あまりにも うれしき笑顔の 君来たる 夫婦の幸は 三世に薫れと」と詠み贈った。
黄氏には、こんな思い出もある。
かつて日本で学会員宅を訪れた際、その家の仏壇に「黄世明さんの全快を祈る」と書かれた紙があった。
その時の驚きと喜びは、終生、忘れることはできないと語っていた氏。
先生との会見で、力を込めた。
「皆さんの思いを強く強く感じています。創価学会との友情は、もはや私の『生命の一部』になっているのです。私は、これからも、池田先生のためにも、創価学会の皆さんのためにも、中日友好を進めていきます」

黄世明氏が恩納村の沖縄研修道場へ(2002年2月)
亡くなる前年の2002年には沖縄研修道場を訪問。学生たちと懇談し、両国友好への思いを語り残した。
「理解し合い、祝福し合い、互いの幸福を願うという心が、中日友好を育んでいきます。私はこの思いで50年間、友好事業に携わってきました」「“人民のために奉仕しよう”“人民のために尽くそう”という思いが、困難な状況に至っても、初志を貫く基礎になりました」
日中友好を象徴する「金の橋」。この言葉を先生が初めて用いたのは、黄氏と出会った第1次訪中(1974年)の折だった。後年、その真情を明かしている。
「『金』という言葉はぜいたくという意味ではない。仏法では生老病死を金銀銅鉄という意味にあてはめている。金は『生』であり、生き抜いていく、光り輝いた生命のことであり、平和という意味であります」
心と心、命と命に架けられた「金の橋」は、日中両国の人々を、確かな未来へと導いている。
【プロフィル】
こう・せいめい 1934年、神戸生まれ。中国に帰国後、中国人民外交学会に勤務。毛沢東主席、周恩来総理ら、国家要人の通訳として活躍した。全国政治協商委員、中国人民対外友好協会副会長、中日友好協会副会長等を歴任。また、ベトナム、ラオス、インド、パキスタン、マレーシアなど、アジア諸国と中国との友好協会の要職を務めた。池田先生と中国要人との会見の通訳も担当。2003年8月、死去。
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