同じ人間として心を結ぶ
その先に崩れざる友情が

第4次訪ソで、人類初の女性宇宙飛行士であるテレシコワ氏と再会(1987年5月26日、モスクワで)
長い冬を越え、新緑萌えるポプラや白樺がモスクワに春を告げていた。
1975年5月26日。
第2次訪ソの折、池田先生は、婦人部、女子部の訪問団と共に、プーシキンスカヤ通りに面するソ連婦人委員会の建物に足を運んだ。
一行を立って迎えたのは、委員会議長のワレンチナ・テレシコワ氏。
「ボストーク6号」に搭乗した、人類初の女性宇宙飛行士である。
「カモメさんに、お会いできました!」――池田先生のあいさつに、テレシコワ氏の笑顔が輝く。
「カモメ」は、テレシコワ氏が地上との交信で用いたコールサイン。氏の宇宙からの第一声は、「ヤー・チャイカ(私はカモメ)」であった。
楕円形のテーブルを挟み、学会訪問団と婦人委員会が向かい合う。ソ連の女性指導者がずらりと並んだ。

社会主義と異なる自由主義の国、その上、宗教者との会見でもあり、ぎこちない空気が漂う。婦人委員会の副議長らが委員会の構成や活動を説明するが、いずれも演説のような口調だった。
池田先生は、議長のテレシコワ氏にこう切り出した。「なぜ、宇宙飛行士を目指されたのでしょうか」
テーブルの上で手を組み、氏は、にこやかに答えた。
「1961年に、わがソ連のガガーリン少佐の乗ったボストーク1号が、世界初の有人宇宙飛行に成功しました。ソ連の青年たちは皆、感動し、ガガーリン少佐のようになりたいと思わない若者はいなかったと思います」
61年4月12日――。後に「世界宇宙飛行の日」として人類史に刻まれる日でもある。
◇
当時、24歳だったテレシコワ氏は繊維工場で働いていた。戦争で父を失い、母のきょうだいも内戦や飢餓で5人が犠牲に。家計を支えるために学校を辞め、母や姉と工場に通った。
ガガーリンの歴史的壮挙に世界が沸いた夜、テレシコワ家も、遅くまでこの話題で持ちきりだった。
「次は女性の番ね!」――この母の何げない一言が、テレシコワ氏の人生を変えることになる。
農村に生きる一女性にとって、「宇宙飛行」はあまりにも遠い世界の話。工場の同僚からは、「女性が宇宙に飛ぶなんて」と一笑に付された。
だが、母の言葉は、日を重ねるごとに氏の心の中で大きくなっていく。
“宇宙へ飛ぶとしたら、どんな女性が選ばれるのだろう”。想像を巡らせ、宇宙飛行士になる条件を考えて行動を起こした。家族に内緒で宇宙飛行士の願書を出し、地元の航空クラブでパラシュートの降下練習に明け暮れた。
「いたずらに好いお天気を待って、岸辺に坐ってはいられません。未来のためにたたかい、勇敢に困難を克服すべきです」(『テレシコワ自伝』)
立ちはだかる壁があれば、自ら飛び込んでいく。それが氏の姿勢だった。
念願かない、テレシコワ氏は宇宙飛行士の候補生に選ばれる。しかし、その訓練は想像を絶する厳しさだった。
遠心力装置で体を回転させられ、体が鉛のように重くなる。身体訓練に加え、ロケット工学などの専門知識の習得は深夜に及んだ。
“女性は宇宙飛行には耐えられない”との主張も多かった。心身への負担は大きく、テレシコワ氏以後、女性宇宙飛行士は20年近く現れていない。その後、世界で60人を超える女性宇宙飛行士が誕生したが、女性の単独飛行は、今も氏ただ一人である。
63年6月16日、氏は3日間にわたって地球を48周。それは女性の時代の幕開けを告げる飛行でもあった。
◇
「一つ重大な質問をさせていただきます……」
池田先生が言うと、テレシコワ氏の表情が緊張する。
「飛行中、恋人のことは考えましたか」
氏の顔に、思わず笑みが浮かぶ。
「恋人を搭載せずに、地上に残したまま飛行してしまったにもかかわらず、私の心臓はいたって順調に鼓動していました」
会見の場がどっと沸く。ユーモアに満ちたやり取りに、張り詰めた空気がみるみる和らいでいった。
「地球が見えるうれしさは、たとえようもありません。地球は青く、他の天体と比べて格別にきれいでした。どの大陸も、どの大洋も、それぞれの美しさを見せていました」
地球の輝きを映すかのように、テレシコワ氏の青い瞳が光る。
「宇宙から一度でも地球を見た人は、自分たちの揺籃(揺りかご)の地である地球を、尊く、懐かしく思うに違いありません」
テレシコワ氏との会見の翌日、先生はモスクワ大学で記念講演を行い、その次の日にはクレムリンでコスイギン首相と再会。その後も訪ソのたびに歴代首脳と対話を重ねてきた。
テレシコワ氏は語る。
「池田会長と出会った私たちの誰もが、世界が武力による競争をやめ、核兵器が廃止されるようにとの、会長の熱い願いに共感を覚えました」
第4次訪ソ(87年5月)では、テレシコワ氏が対外友好文化交流団体連合会議長として先生を迎えている。空港での歓迎から首相会見までの諸行事を支え、モスクワでの「核兵器――現代世界の脅威」展の開催にも尽くした。
その後も池田先生は、訪ソのたびごとに文化・教育交流を一段と広げ、行動と結果で信頼を築いてきた。
◇
テレシコワ氏は、自伝の中で、ある宇宙科学者の言葉を記している。

「はじめは思想、夢、おとぎばなしが先に立つ。そのあとを科学的計算が追ってゆく。そして遂には実践によって思想が結実する」
かつて夢物語だった宇宙開発は、無数の人々の挑戦によって実現し、発展を続けている。
今や世界に広がる創価の人間主義もまた、池田先生が対話という「実践」で切り開いてきたものだ。
テレシコワ氏は振り返る。
「私は、会長とお会いした時のことをよく覚えています。その時、会長は、ソ連訪問に反対する人々から、“なぜ行くのか?”と質問されたと、話してくださいました。そして、その問いに対して、会長は答えられました。
『私は行く。なぜなら、そこには、何世紀にもわたって、世界に不滅の全人類的財産を贈り続けている、素晴らしい文化をもった人々が住んでいるからだ』と。この言葉は、永遠に忘れられません」
民族や国家、思想や宗教といった「違い」にとらわれず、心の扉を開き、あくまで同じ「人間」として尊敬し、誠実に対話を重ねる。
そこから、崩れざる友情と信頼の世界が広がっていく。
ワレンチナ・テレシコワ 1937年3月6日、ロシアのヤロスラブリ州生まれ。63年6月、女性初の宇宙飛行に成功し、70時間50分で地球を48周した。単独で宇宙飛行を成し遂げた、ただ一人の女性である。地球との交信に使われたコールサイン(呼び名)から、「カモメ(チャイカ)さん」の名で人々に親しまれる。ソ連婦人委員会議長、ロシア国際科学文化協力センター議長、ロシア国際協力協会理事長などを歴任。2011年から、ロシア連邦議会・国家院(下院)議員を務める。
〈引用・参考文献〉 池田大作著『世界の指導者と語る』潮出版社(『池田大作全集』第123巻所収)、ワレンチナ・テレシコワ著『テレシコワ自伝 宇宙は拓かれた大洋』宮崎一夫訳(合同出版)、同著『ニコラエワ=テレシコワ はてしない宇宙へ』岡田よし子訳(プログレス出版所)、冨田信之著『ロシア宇宙開発史 気球からヴォストークまで』東京大学出版会。
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