対談集「対話の文明」に学ぶ③ 23年03月16日 |
テーマ 宗教と対話 【池田先生】 宗教性の豊かな開花を通し 個人や社会を平和の方向へ 【ドゥ博士】 「文明間の対話」を推進して 共生的な地球社会の建設を ![]() 池田先生はドゥ博士を創価大学で歓迎し、語り合った(2005年4月) 池田大作先生の著作から、現代に求められる視点を学ぶ「人間主義の哲学の視座」。前回に続き、「宗教と対話」をテーマに掲げ、ハーバード大学のドゥ・ウェイミン博士との対談集『対話の文明』の「第2章 文明の差異を超えて」をひもとく(前回②は2月6日付に掲載)。 人類の「心の冷え」 池田先生は宗教の現代的役割について話すにあたり、以前、あるルーマニアの詩人と語り合った際に問われたことを紹介した。 「現代は社会の人々の心が冷えている時代である。とくに青年の心の冷却は深刻である。人類の『心の冷え』が『心の死』へと至る前に、何をすることができるか」 〈池田〉 この「心の冷え」が、現代文明のさまざまな歪みを生み出しているように思えてなりません。 人間がただ無為に生きていくだけなら、宗教は必要ないかもしれない。しかし、確かな哲学をもたず、感情や欲望に流される根無し草的な生き方では、心の冷えや乾きを癒やすことはできないし、生きる力も弱まってしまう。この冷え切った人間の心を、いかに温め、燃やし、蘇生させていくのか――今、宗教に問われているのは、まさにそうした役割ではないかと、私は思うのです。 〈ドゥ〉 「心の冷え」という言葉は、時代の危機の様相を表したものとして、じつに的確であるといえましょう。 ドゥ博士との対談が行われてから20年弱――。この間、紛争やテロ、災害や気候変動などの地球的問題群に、人類は直面してきた。そのなかで、貧困や格差、政治体制の違いなどで、地球上にはさまざまな分断線が引かれた。そして、2020年初頭から始まった新型コロナのパンデミック(世界的大流行)は、人と人の間に身体面でも心の面でも距離を生み、分断線をくっきりと可視化させた。 この「危機の時代」が持つ危険性を、霊長類研究の第一人者、京都大学の元総長で現在は総合地球環境学研究所の所長を務める山極寿一さんは、こう指摘する(2022年2月23日付、本紙)。 「人間は、あらゆるコミュニケーションにおいて、五感で感じることで絆をつくってきた」「身体の同調から共感と一体感を育んできた。それを抑制するということは、社会を壊してしまう危険すらあるんです」 共感が社会の中で弱まってしまい、ともすれば人々の心は冷えて、乾いているのではないか――。 そうした人々に、宗教はいかなる精神的な源泉を提供しうるかという点で、ドゥ博士の見解は、次の5点に集約される。 ①社会貢献を通して自己を高め続けていけるという精神的支柱を、人々に与える。 ②人間を、孤立した個人としてではなく、他人との関係性の存在としてとらえる。 ③健全な家庭の建設が、健全な社会の建設につながるとの視点をもつ。 ④教育は人格を磨くためにあり、知識の集積にあるのではないとの教育観に立つ。 ⑤政府はつねに人々に道徳的な模範を示すべきであり、そうでなければ国家の未来は危ういとの国家観をもつ。 ドゥ博士の見解に深く賛同した池田先生は、ハーバード大学での2度目の講演(※注1)の際に語った、現代社会において宗教に求められる要件に言及した。 〈池田〉 私はそこで、哲学者デューイ(※注2)が提示した「宗教的なもの」という概念を手がかりに、“宗教をもつことが、人間を強くするのか弱くするのか、善くするのか悪くするのか、賢くするのか愚かにするのか”という判断基準を提起しました。そのうえで、二十一世紀に求められる世界宗教の要件として、「平和創出の源泉」「人間復権の機軸」「万物共生の大地」の三点を挙げました。 〈ドゥ〉 宗教の精神性を判断する基準の必要性は明白です。現代の宗教がもつべき社会的要件を特定した、池田会長のハーバード大学での講演は、まさに称賛に値します。“人間を強く、善く、賢くするかどうか”という率直な倫理的基準は、まことに鋭いものです。 ◇ さらに、池田会長が強調されているように、世界宗教が担うべき第一の責務は「平和の創出」です。そのためにも、文明間の対話を推進し、共生的な地球社会の建設に役立っていかねばならないと思います。 21世紀の世界宗教の役割と責務についての見解で一致する両者。その上で、池田先生は、社会に向かって「閉じた宗教」が持つ負の側面と歴史の教訓から目をそらしてはならないと警鐘を鳴らす。 〈池田〉 残念ながら、人類の歴史をひもとけば、宗教がしばしば対立や紛争の要因にからんできたことも事実です。その悲劇は現代も続いています。二十一世紀の世界宗教は、このあまりにも重い「負の歴史」を断じて乗り越えていかねばなりません。 公的知識人の役割 ![]() ハーバード大学で2度目の講演を行う池田先生(1993年9月) さらに先生は「これからの時代は、現実の社会の変革よりも死後の世界の幸福などに重きを置くような宗教であっては、もはや存在意義がない」「それは、ある意味で危険ですらあるといってよいでしょう。そうした宗教は、現実の諸問題に対して積極的に挑む力を人々から奪い、諦めや無気力を社会に蔓延させてしまう恐れがあるからです」と語る。 そこでドゥ博士は、「平和の創出」をはじめ、宗教の価値を社会に発揮していくために、この連載①(1月19日付)で触れた宗教者の役割に再度、言及した。 〈ドゥ〉 宗教が二十一世紀にきわめて重要な役割を担うということは、宗教指導者が地球共同体の幸福に対する責任をも担うことと、表裏一体の関係にあります。 宗教指導者にはまず、その信者たちの幸福に対する責任があります。しかし、その役割に加えて、今日のグローバル化の時代的要請として、「公的知識人」としての役割を担うことも求められます。ここでいう「公的知識人」とは、少なくとも、政治への関心と社会への関与、そして文化的な見識を備えた人物のことです。 「公的知識人」として、宗教指導者はみずからの団体の直接的な関心事を超えた課題にも応える義務があります。集団内での有能性のみならず、「世界市民」としての行動をもとに、その資質が評価される時代に入っているのです。その意味で、宗教指導者は、みずからの集団と同様に、地球共同体に対しても責任があるのです。 〈池田〉 重大な指摘です。私どもSGIが平和・文化・教育の運動を世界規模で積極的に進めてきたのも、社会への貢献こそが宗教の柱であると強く自覚してきたからです。 〈注1〉1993年9月24日に「21世紀文明と大乗仏教」と題して行われたハーバード大学での講演(『池田大作全集』第2巻所収)。池田先生は「差異へのこだわり」を超えた「開かれた心」による「開かれた対話」こそ、調和と平和の社会を築きゆく原動力であると訴えた。 〈注2〉ジョン・デューイ、1859年生まれ。アメリカを代表する教育学者、哲学者。知性は人間がより良い生活をするための道具であるとし、子どもの経験を重視する教育理論を確立。各国の教育・哲学に影響を与える。著書に『民主主義と教育』『誰でもの信仰』など。 人間の諸活動の源泉 ![]() 池田先生とドゥ博士との対談集『対話の文明』 20世紀において、さまざまな国で宗教が公共の場から、ともすれば退けられてきた。しかし21世紀に入り、宗教の持つ「社会貢献への動機づけ」や「連帯の絆」といった価値が再認識され始めている。ドゥ博士も同様に、西洋啓蒙主義によって宗教が西欧諸国の政治文化の周辺の地位に追いやられたことに触れつつ、現代は宗教の存在感が拡大していると指摘する。 〈ドゥ〉 近年、宗教が現代社会の重要な要素であり、経済、政治、文化に甚大な影響力をもっていることが、広く認識されるようになりました。その象徴的な事例の一つが、グローバル社会における市場の役割の重要性を唱道してきた、ダボスでの世界経済フォーラムの変化です。同会議は、二十一世紀に入ってから、人類の未来を理解するうえでの重要な観点として、宗教を真剣にとらえるようになりました。宗教が公共的な分野の重大な課題として復帰するに及んで、「宗教は心の問題であり、個人の領域へと追いやられるべきである」といった主張は、時代遅れのものとなりました。 〈池田〉 今のお話を伺って、ガンジーの言葉を思い起こしました。 「人間の仕事を社会的なもの、経済的なもの、政治的なもの、純粋に宗教的なものというように完全に区分することはできない。私は、人間の活動から遊離した宗教というものを知らない。宗教は他のすべての活動に道義的な基礎を提供するものである。その基礎を欠くならば、人生は『意味のない騒音と怒気』の迷宮に変わってしまうだろう」(K・クリパラーニー編『抵抗するな・屈服するな』古賀勝郎訳、朝日新聞社) このガンジーの宗教観は、宗教を人間の諸活動の源泉ととらえる大乗仏教の思想とも共鳴するものです。 宗教性の豊かな開花を通して、個人や社会を、より幸福の方向へ、より平和の方向へと向けていくことこそ、現代に求められる世界宗教の責務ではないでしょうか。 |