「21世紀への選択」に学ぶ㊤ 21年09月06日 |
今回からは、マジッド・テヘラニアン博士との対談集『21世紀への選択』をひもとく。![]() 1996年2月、池田先生が、戸田記念国際平和研究所の所長に就任したテヘラニアン博士と会見(東京・信濃町で)。先生は語った。“私は、うれしいのです。これで恩師の構想を具体化できたからです” 【テヘラニアン博士】 対話は平和を保障する唯一の手段。 21世紀において人類が進むべき方向 【池田先生】 「人間性」という共通の大地に立ち、 語り合うことが問題解決の糸口に。 恩師の遺訓 創価学会の平和運動の原点である戸田先生の「原水爆禁止宣言」(1957年9月8日)から、間もなく64年を迎える。 冷戦下の当時、「核抑止論」のもとで軍拡競争が繰り広げられていた。 「私は、その奥に隠されているところの爪をもぎ取りたい」――戸田先生は、核兵器を正当化する思想に潜む生命軽視の“魔性”を糾弾し、青年への「遺訓の第一」として訴えた。 恩師の遺志を継ぎ、世界中で対話と友好を広げ、生命の尊厳を時代精神へと高めていったのが池田先生である。 宣言から38年がたった、96年2月11日。恩師の生誕日に、先生は、「戸田記念国際平和研究所」を創設した。その初代所長に就任したのが、マジッド・テヘラニアン博士であった。 先生と博士は、92年7月以来、10度を超える語らいを重ね、2000年10月に対談集『21世紀への選択』を刊行。これまでに英語、フランス語、アラビア語、ヘブライ語などに翻訳されている。 研究所の使命 テヘラニアン博士は、イラン生まれの平和学者。イスラム世界に造詣が深い。先生との対話は、仏教とイスラムという文明間に橋を架ける作業となった。 対談集の冒頭、二人はそれぞれの生い立ちや、「平和への道」を歩み始めたきっかけを語る。 互いを「よく知る」ことが、友好を深めるための第一歩となり、社会の連帯の力となる。宗教的・文化的背景の異なる二人によるこの対談を、その一助に――これが先生と博士の真情であった。 池田 テヘラニアン博士は、私たちの対談を始めるにあたって、これを「対話への選択」と意義づけたいと提案されましたね。 テヘラニアン 今や私たちの時代は、この「生命」や「平和」と同程度に「対話」が必要とされる歴史の段階に入ったのです。じつのところ「対話」こそが、「生命」と「平和」を保障しうる唯一の手段かもしれないのです。 池田 そうした思いを共有して、私は、この対談の日本語版のタイトルを「21世紀への選択」と発案させていただきました(注=英語版のタイトルは「対話への選択」)。 思うに、人間の人間たる証は、つまるところ対話の精神に表れるのではないでしょうか。博士の故国イランの大詩人サアディーは、こう訴えています。「人は語るの術において獣にまさる、善きことを語らぬなら獣が汝に勝ろう!」(『薔薇園』蒲生礼一訳、平凡社)と。 戸田平和研究所の所長就任を、博士は「平和探求に生きてきた私にとっての、いうなれば『責任への挑戦』」であったと振り返る。 グローバリゼーションの進展は、国家間、文化間の交流や協力を促進した反面、経済や政治はより競争的になり、認識や利害が対立する状況が生まれてきた。 対話が欠ければ、「憎しみの種子」がまかれ続けてしまう――そう強い危機感を抱く博士が、スタッフと討議する中で掲げた研究所のモットーは、「地球市民のための文明間の対話」であった。 テヘラニアン 対話がない世界は、暗黒です。「対話」がなければ、人間は独善という暗闇の中を歩み続けねばならないのです。 池田 人間と人間が語りあうこと――ここからすべては始まります。(中略)友か敵かといった、二者択一的な関係を打ち破り、「人間性」という共通の大地に立って心を開いて話しあうことが、問題解決の糸口を見いだすことにつながると固く信じてきました。 テヘラニアン ご指摘のように、「相違点」と同時に「共通点」を見いだし、認めあうことから新しい価値は生まれてくるのです。 ![]() 対談集『21世紀への選択』 対立から共生へ 対談集発刊の翌年・2001年は、国連の「文明間の対話年」に定められた。文明と文明が出あい、交流を重ねる中から、新たな価値が生まれる――希望と期待に照らされた21世紀の幕開けであった。 だが、同年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が勃発。「文明の衝突」を象徴するかのような、国際社会を揺るがす事件だった。 対談で二人は、頻発する紛争やテロを取り上げ、時代を対立から共生へと転換する方途について論じ合っていた。各国語版に翻訳された対談集は、人々が求めてやまない「安心と安全」の社会への視座を育む糧となっていく。 テヘラニアン 今日の国際社会が取り組むべき最大の課題は、おたがいにスローガンの投げあいをやめて、世界平和を脅かしている貧困、無知、強欲という人間にとっての真の問題を解決する道筋を考えることだと思います。 池田 戦争や暴力が生みだす悲劇というものは、なにもそのときだけのものではない。憎しみが憎しみを呼び、暴力がまた新たな暴力をまねいてしまう――このことは、これまでの歴史が示している重い教訓と言えましょう。(中略) たがいのことを、初めから“対立する存在”としてとらえるのではなく、何が障害になっているのか、何が対立を生みだしているのか――それを見きわめる作業こそが、まず求められるのではないでしょうか。 テヘラニアン そこで要請されるのが、「開かれた対話」の精神ですね。それはまさに、池田会長がこれまで率先して取り組んでこられたものですが、これこそ、21世紀において人類が進むべき方向なのです。 畏敬の念 「『相違』は『多様』に通じます。共通性を基盤として、ともに協力していく。また相違性に着目し、それぞれの役割を尊重し、おたがいの長所を学びながら危機にある現代世界に対し、いかなる貢献ができるか模索せねばなりません」 先生の言葉に、博士は深い賛同の意を表した。二人の対話には、そうした実践の具体例が、随所に散りばめられている。 例えば両者は、日蓮仏法とイスラム、また釈尊とムハンマドについて、互いに論じ、学び合う。 先生は、仏教やイスラムをはじめ、宗教の創始者は皆が「人間の解放」を目指したと述べ、その原点に戻れば、対立や争いは解消するであろうと訴える。 一方、博士は歴史上、諸宗教の共存共栄が可能であった都市の例を挙げ、民衆の次元では「区別をもちながらも共存」し、「共存しつつも差異は厳然として存在」するのが実像であったと語る。 信仰心が薄れ、対立や分断が社会を覆いつつある現代。科学技術や経済、政治など、全ての分野に、生きた人間の「生の重み」の復権を――二人は、その方途としての宗教の重要性を巡り論じ合った。 テヘラニアン 近代的世俗性と宗教的信仰は、たがいに排斥しあうものではありません。それとは反対に、宗教的信仰のない近代性の未来というものは、寒々として見通しは暗い。 ◇ 主要な諸宗教に道徳的、精神的に導かれない現代の世界は、自滅してしまうでしょう。 池田 他者や未知のものに対する畏敬の念が、今、失われているのではないでしょうか。すべてを予測可能なもの、既知のものと矮小化してとらえ、それを支配したり加工しようとする。また、できると思っている。 ◇ 自分以外のものを、軽視したり敵視するのではなく、まず「驚きの感覚」「畏敬の念」をもって見る。「存在の重み」「生の重み」の実感です。その感覚をたもっておくために、「永遠なるもの」「自分を超えたもの」を感じようとする宗教的な感性は、絶対に必要ですね。 【プロフィル】マジッド・テヘラニアン 1937年、イラン・マシュハド生まれ。政治学、政治経済学、中東研究などを専攻し、ハーバード大学で修士号、博士号を取得。ハワイ大学教授、同大学スパーク・マツナガ平和研究所所長、タフツ大学外交大学院客員教授などを歴任。戸田記念国際平和研究所の初代所長として発展に尽力した。2012年12月、死去。 |