対談集「21世紀への対話」に学ぶ㊦ 2020年10月10日 |
テーマ 利他![]() 語らいは、トインビー博士の自宅を出た街頭でも続いた(1973年5月、イギリス・ロンドンで) 【池田先生】利他の実践に無上の喜びを感じる。そこに大乗仏教の本質がある。 【トインビー博士】自己超克こそ宗教の真髄であり人類の危機への唯一の応戦となる。 科学をリードする 「(新型コロナウイルスの世界的大流行の原因は)自然と環境に対する人間の危うい接し方、森林破壊、僕らの軽率な消費行動にこそある」 本年、世界的ベストセラーとなった『コロナの時代の僕ら』(早川書房)。物理学博士号を持つイタリア人作家パオロ・ジョルダーノ氏は、人類を75億個のビリヤードの球に見立て、感染症がどう広がるかを伝えた。グローバル化や情報の錯綜、生態系の破壊といった、人類の歩みを考察しつつ、それらを改めない限り、今後も未知のウイルスは頻発するだろうと警鐘を鳴らす。 人類は科学の力で自然の猛威に向き合ってきたが、その一方で、思わぬ脅威を招いてもきた。1970年代、世界が重大な環境汚染に直面する中で、池田先生とトインビー博士は、科学の光と影にこう迫っている。 池田 現代では、人類の生存をおびやかすものは、もはや天災ではなく、人災であることが明らかになってきました。いや、むしろ人災としての要素を含まない天災などありえないほど、科学が駆使しうる力は巨大になってしまっています。 トインビー 環境に及ぼされる人間の力が、すでに人類の自滅を導くところまで達したことは、もはや疑問の余地がないように思われます。もし人間がその力を貪欲を満たすために使い続けるなら、自滅は必至でしょう。 池田 現代文明はたしかに科学を駆使することによって、一面では自然災害を防いできたという実績があります。しかし、もう一面をみるならば、その業績自体が人災の原因となり、新しい災害の起因となった場合が少なくないわけです。 トインビー 科学が発達し続ける結果どうなるかは、倫理上用いられる善悪という意味合いで、科学が善用されるか悪用されるかにかかっているわけです。科学が生み出す諸悪は、科学それ自体で根治することはできません。 池田 これにはまた、科学者をはじめ現代のあらゆる人々が、自己の生命の内奥から自然に対する姿勢を改めていくことが、どうしても要請されます。私は、ここに科学技術文明をリードすべき宗教の役割があると信じます。 トインビー われわれは、人間の生命とその環境に対する宗教的な姿勢を通してのみ、かつて祖先たちがもっていたと同じ認識を、もう一度取り戻すことができるのです。すなわち、人間はずばぬけて巨大な力をもちながらも、やはり自然の一部にすぎない存在であること、また人間は、自然をこのまま存続させ、自らも必要な自然環境のなかで生き続けようとするなら、あくまで自然と共存していかなければならないことを認識できるわけです。 明かすべき真理 トインビー博士は、文明興亡の法則を独自の史観で体系化し、「地球人類史観」ともいうべき歴史観を打ち立てたことで知られる。 全ての文明は、発生、成長、挫折、解体、消滅を繰り返す。その盛衰は、環境変化や戦争といった「挑戦」に、どう「応戦」するかで決まる――と。 人類史の転換点に立つ私たちが、試練に応戦するための鍵とは何か。未来の宗教の条件が語り合われる。 トインビー 宗教の説く最重要の教戒とは「自己超克こそ、人間の第一の課題である」ということです。われわれは、貪欲と慢心を克服しなければなりません。しかも、テクノロジーの進歩の結果、人間が自然環境と自分との関係を逆転させてしまっている現代ほど、この二つの決定的な人間の欠点が蔓延した時代は、おそらくかつてなかったでしょう。 ◇ 自己超克こそ、自己挫折を回避する唯一の方途です。この真理は、これまでも伝統的諸宗教が明らかにしてきたことですが、将来も、真実性ある宗教は、必ずこの真理を明らかにするものと信じます。 思うに、自己超克こそ宗教の真髄です。この伝統的な宗教的教戒である自己超克を説く宗教こそ、未来において人類の帰属心をかちとる宗教であろうと思います。なぜなら、自己超克という教戒こそ、人間としてこの世に生を享けていることの挑戦に対する、唯一の効果的な応戦になるもの、と信ずるからです。 ![]() トインビー博士と池田先生の対談集『21世紀への対話』 人間生命の尊厳とは 対談集の発刊から45年。 語らいが、今もなお人々を啓発し続けているのは、人類の歴史や未来を展望するのみならず、生命の根源に迫っていたことも一つの理由であろう。 40時間に及んだ対談は、多くの意見が一致し、先生が後に「ほとんどが、仏法の法理を証明するかのような言葉であった」と述懐するほどであった。 自己超克を説く宗教の理想を求め、大乗仏教への共感を示すトインビー博士に対し、先生は語っている。 池田 基本的な方向は、いま博士がいわれたように、大乗仏教的な生き方であるべきだと信じています。 利他の実践のなかに無上の喜びを感じていくような自己を、どのようにして確立していくかということのなかに、大乗仏教の本質があるのです。 対談は「生命の尊厳」に及び、目に見えるものだけでなく、生命の本質を見つめるものに。両者は慎重に言葉を選び、その至高の尊厳性を共有した。 トインビー 生命の尊厳こそ普遍的、かつ絶対的な基準です。 大地にも、空気にも、水にも、岩石にも、泉にも、河川にも、そして海にも、すべて尊厳性があり、もしわれわれ人間がそれらの尊厳性を冒すならば、われわれはすでに自身の尊厳性をも冒していることになります。 池田 自然には、目に見えない“生命の糸”が、クモの巣のように張りめぐらされていて、本来は、全体として見事な調和が保たれています。人間といっても、その自然の一部であることには変わりなく、人間がその技術をもって無生の自然を傷つければ、それは人間自身を傷つけることになります。仏法では、このすべてを含んだ自然を――いな、大宇宙それ自体を――“生命”としてとらえているのです。 トインビー われわれ人間は、自らの尊厳を自覚するならば、謙虚になるべきです。たしかに人間性は尊厳ですが、それはまだ不確かなものであり、決して完全ではありません。人間が尊厳であるのは、私心がなく、利他的で、憐れみ深く、愛情があり、他の生物や宇宙そのものに献身的である場合に限られます。貪欲で侵略的であるかぎり、人間は尊厳ではありえません。 池田 生命を真実に、そして事実上、尊厳なものとするためには、人間一人一人の努力が必要です。自らの尊厳に対しては、自身が責任を負っているというべきでありましょう。 詮ずるところ、自己の生命の働きを、人々を傷つけるような醜いものではなく、すべての他の生命を慈しむ、美しいものにすることによって、事実のうえで人間生命を尊厳ならしめる以外にないと考えます。 トインビー 技術的業績の水準は急カーブで上昇し、現代におけるその速度は、記録に残っているどの時代よりも急速です。そして、その結果、われわれの技術と倫理の格差は、かつてなかったほど大きく開いています。これは屈辱的であるだけでなく、致命的ともいえるほど危険なことです。 こうした現状に対して、われわれは恥ずべきであり、かつ、この恥辱感を忘れずに、尊厳性――それがなければわれわれの生命は無価値であり、人生もまた幸福にはなりえないその尊厳性――を確立するよう、一層努力しなければなりません。 編集後記 1973年の対談の最後。池田先生はトインビー博士に「私個人に忠告がありましたら……」と助言を求めた。その折、「戸田先生がいらっしゃらないので」とも。恩師から託された世界広布の旅に出発して12年余り。対談の同席者は、後にこう述懐した。「先生は、戸田先生と共に生きておられるのだと実感しました。博士に恩師の面影を見ておられたのかもしれません」。同対談から大きく広がった世界の指導者・識者との語らいは1600回を超える。博士の逝去から45年。師弟の誓いに貫かれた対談集『21世紀への対話』は、29言語で出版され、世代を超えて読み継がれている。 |