創価学会は校舎なき総合大学
「一輪の花」への深き感謝編 ①
23年10月29日
ジャーナリストの驚き
戦後を代表するジャーナリストの草柳大蔵氏は、1960年代の後半、池田大作先生の取材を重ねた。
ある時、氏は先生から、20冊ほどの書籍を借りた。『世界史』(矢田俊隆著、有精堂)など、「戸田大学」で使用されたテキストである。
「どの本も最終頁まできちんと赤線がひかれ、書きこみのしてあるのにはおどろいた」
池田先生は若き日に、恩師・戸田城聖先生から万般の学問を学んだ個人教授を「戸田大学」と呼んでいる。
48年春、先生は大世学院(現・東京富士大学)の政経科夜間部に入学。同学院の創立者・高田勇道氏は、政治学などの講義を担当していた。熱情あふれる講義に先生は魅了された。
翌49年1月、池田先生は戸田先生が経営する会社で働き始め、少年雑誌の編集に携わるように。だが、折からの不況の影響で、同年秋、経営は行き詰まる。残務整理に追われる日が続き、夜学は休学せざるを得なくなった。
年が明けた50年1月、恩師は池田先生に断腸の思いを口にした。
「君には、本当にすまないが、夜学は断念してもらえないか」
池田先生は「はい。(戸田)先生のおっしゃる通りにいたします」と即答する。恩師を支えるため、自身の一切をなげうった。

現在の東京・市ケ谷駅周辺。1951年5月、戸田先生が第2代会長に就任して間もなく、自らが顧問を務める会社の事務所が、市ケ谷駅近くのビルに移転する。52年5月8日から、その事務所で始業前の約1時間、「戸田大学」の講義が開始。真剣勝負の研さんが続けられた

「これ以上の栄誉はない」
戸田先生は、新たに信用組合を設立し、再起を図った。だが、50年8月、信用組合は業務停止となる。絶体絶命の中、恩師は広布の未来を見据え、同年秋から、日曜日に自宅で、池田先生を中心とした何人かの代表に、御書講義を行うようになった。
苦境を脱するため、池田先生は深夜まで奮闘を重ねた。事業が好転すれば、夜学の復学を希望していた。
愛弟子の向学の思いをくみ取るかのように、翌51年1月、恩師は語った。
「ぼくが大学の勉強を、みんな教えるからな。待っていてくれたまえ。学校は、ぼくに任しておけ」
同年2月、戸田先生は古今東西の名著を題材として、講義を開始。それまでの日曜日の講義は、池田先生への個人教授になった。
ある講義が修了した時、戸田先生は机の上の「一輪の花」を取り、池田先生の胸に挿して語った。
「この講義を修了した優等生への勲章だ」「金時計でも授けたいが、何もない。すまんな……」
池田先生は帰宅すると、「一輪の花」を御宝前にそなえ、感謝の祈りをささげた。先生はつづっている。
「私は、これは、『広宣流布の師匠』がくださった『広宣流布の勲章』だ、これ以上の栄誉はないと思った」
「仏法では(中略)『弟子が咲かせた勝利の花は、必ず大地に還り、師匠の福徳となる。そして、その師弟の大地から、また新たな勝利の花が咲き香る』という『報恩の道』を教えられている。その通りの人生を歩んできたことが、私と妻の誉れである」

戸田先生がある講義の修了後、山本伸一の胸に一輪の花を挿す(小説『新・人間革命』第21巻「共鳴音」の章から、内田健一郎画)

師匠の万感の思いを胸に
恩師が池田先生に、日々の激闘に感謝して贈った「一輪の花」。「広宣貢献賞」「SGI平和友好賞」など、広布功労の同志への表彰には、その精神が込められている。
1974年、世界の各地で広布に活躍してきた友に贈られる「国際功労賞」が創設された。ペルーSGIの初代理事長を務めたビクトル・ケンセイ・キシモトさんと共に受賞したのが、ハワイのハリー・ヒラマさんである。
60年10月2日、池田先生は、初の海外の第一歩をハワイの地に踏んだ。この日の座談会で、海外初の地区がハワイに結成され、ハリーさんが地区部長に任命された。
ハリーさんは日系2世。父は41年の真珠湾攻撃の後、アメリカ国籍でありながら、日本人という理由だけで、アメリカ本土の抑留所に収容された。母とハリーさんも同じ抑留所に入った。
2年後の43年、日本との捕虜交換で、シンガポールへ。だが、しばらくして日本軍に召集される。
ハワイで育ったハリーさんは、ほとんど英語しか話せない。英語を口にすると、「敵国語を使うな」と言われては殴られた。アメリカを憎むことを強いられ、心が引き裂かれそうになった。筆舌に尽くしがたい辛苦の日々を耐え抜き、終戦を迎える。
戦後、ハリーさんは父の故郷である宮城で暮らし始めた。結婚した妻は病弱だった。その妻が信心を始め、ハリーさんも続いた。
愚直に信心に励んだ。少しでも日本語を覚えようと、聖教新聞の配達も手伝った。
60年4月、ハリーさんは18年ぶりにハワイに戻る。その半年後、先生との出会いを結んだ。
ハリーさんがプロレスラーの力道山に似ていたことから、先生は親しみを込めて「リキさん」と呼んだ。地区部長の任命が行われた日の夜、先生は渾身の励ましを送った。
「あなたを地区部長に任命したのは私です。あなたが敗れれば、私が敗れたことです。責任は、すべて私が取ります。力の限り、存分に戦ってください」
師の万感の思いを胸に、ハリーさんは使命の天地を駆けた。
3年後の63年、先生が再び訪問した折、ハワイに支部が結成される。さらに3年後の66年には、1総支部4支部の体制に発展。ハリーさんは総支部長に就任し、ハワイ広布は、さらに勢いを増していった。

池田先生が1960年当時に使用していたパスポート

まばゆい陽光に照らされ、ハワイの青い海が銀色に輝く。ヤシの向こうには名勝「ダイヤモンドヘッド」の姿が(1995年1月、池田先生撮影)。先生はかつて、異民族同士の共存を可能にした「アロハ」の精神が光るハワイは、「『調和』と『融合』の新しき世界のモデルとなりうる」と述べた

広布に駆けた父の生きざまが財産
74年3月7日、先生は北・中南米の平和旅へ。その出発の直前、「ハリーさんが倒れた」との報告が入った。アメリカで予定されていた「サンディエゴ・コンベンション」の準備中に心臓発作に襲われた。
先生はアメリカ、パナマ、ペルーを訪問。そして、再びアメリカを訪れ、最後の行程を変更して、ハワイに向かった。ハリーさんを見舞うためである。
同年4月10日、先生を乗せた飛行機がホノルル空港に到着した。1カ月ほどの入院で退院したハリーさんは、空港で先生を出迎えた。
先生はハリーさんに駆け寄ると、手を強く握り締めた。
「リキさん、まだ、倒れちゃだめだよ。心配したよ。ずっと、ご祈念していたんだよ。……でも、元気になってよかった。本当によかった」
ハリーさんは感動で胸がいっぱいになり、言葉が出なかった。目には大粒の涙が浮かんだ。
「リキさん、題目しかないよ。今こそ信心で宿命を乗り越える時だ。広宣流布に生き抜く決意を定めることだよ。それが宿命転換の原動力だ」
その後、ハリーさんは病魔に打ち勝ち、再びハワイの地を東奔西走していった。
初の海外平和旅に出発してから20周年となる80年10月2日、先生はハワイ会館で行われた「世界平和の日」記念勤行会に出席。席上、ハリーさんの功労をたたえ、句を贈った。
「夫婦(君)ありて あゝ20年 凱歌あり」
2年後の82年、ハリーさんは霊山へ旅立つ。次男のケイジ・ヒラマさんは、広布に駆けた父について、こう語り残している。
「父から私が学んだ一番のことは、どのような状況におかれても希望を忘れず、結果が出るまでやり抜く根性だ」
「ハワイの友の幸福に情熱を注いだ父の生きざまそのものが、かけがえのない私の財産である」
ハリーさんが遺した世界広布への熱き思い――その心は今、ハワイの友に受け継がれている。

74年、「国際功労賞」と共に、広布と学会の興隆に貢献した代表に贈られる「創価功労賞」も設けられた。
第1回の受賞者の一人が、「常勝の母」と慕われた、関西の矢追久子さんである。(以下、次号に続く)

ハワイで開催された第13回「世界青年平和文化祭」で、出演者が池田先生ご夫妻のもとへ(1995年1月28日)。文化祭の11日前、阪神・淡路大震災が発生。文化祭では、関西吹奏楽団の「常勝の空」の演奏が行われた。先生はメロディーに合わせ、「関西、頑張れ!」とエールを送るかのように、帽子を大きく左右に振った