創価学会は校舎なき総合大学
御書編⑥
23年07月30日
「御義口伝」の魂とは、師弟不二の極致によってのみ、相伝されることを、絶対に忘れてはならない
法華経を聞く資格
1953年4月18日、東京・市ケ谷にあった学会本部の分室に、東京大学に学ぶ5人の学生が集った。戸田城聖先生の法華経の講義を受講するためである。
第2代会長に就任して、2年になろうとしていた。学生部の結成には、まだ時間を要したが、恩師は学生世代の青年に、本格的な薫陶を開始した。
「法華経を読む」ということについて、戸田先生が学生たちに強調したのは、「日蓮大聖人の立場に還って読む」ということ。恩師は訴えた。
「大聖人様の立場から法華経を読めば、非常にはっきりしてくる。また、法華経から逆の順序で諸経を読んでいくと、わかりやすいものだよ」
ゆえに、戸田先生は講義に際して、「御義口伝」をもとにした。第1回の題材は「序品第一」。恩師は学生に、「御義口伝」にある「序品七箇の大事」の「第一 『如是我聞』の事」の拝読を求めた。
一人の学生が「不信の人は『如是我聞』の『聞』にはあらず」(新986・全709)から「詮ずるところ、日蓮等の類いをもって『如是我聞』の者と云うべきなり云々」(同)までを読み上げると、戸田先生は力を込めた。
「この経文の本質は、昔話を聞くとか、世間のうわさなどを聞くのと同じではないぞ、とおっしゃっている。不信の者は、まず駄目、法華経を行ずる者が如是の本体を聞くことができる」
「諸君も不信を起こさず、すなわち、鋭くして絶え間ない求道の実践をもって、素直に勇気をもって、大聖人の仏法という軌道を、大聖人のおっしゃる通りに行動することです。それができて、初めて大聖人の弟子として、法華経を聞く資格が備わるんです」
月に一度か二度開かれた講義は、学生たちに大きな触発を与えた。彼らは折伏にも挑戦し、同世代の広布の連帯を広げていった。
だが、時には惰性に流されたり、批判的な姿勢で講義に臨んだりすることもあった。戸田先生は厳しく語った。
「よそから来て、聞いているような態度は、実によくない!」
「もし、一緒に仏法の真の探究者になるというのならば、私の本当の弟子になれ!」
青年の可能性は無限大である。だからこそ、戸田先生は寸分の妥協もなく、真剣勝負で学生たちを育んだ。
恩師の法華経の講義は、2年半にわたって続けられ、55年9月27日の第26回をもって終了する。その間、他大学の学生も参加している。最後の講義には、池田先生も同席した。終了後、戸田先生は学生たちに語った。
「もし、これから先、わからないことがあったら、この大作に聞きなさい」
それは、師匠から弟子に、学生部の育成が託された瞬間でもあった。
池田先生が、学生部に「御義口伝」講義を開始したのは、62年8月31日。第3代会長に就任して2年後のこと。四十数人から始まった講義は、翌63年7月29日から、新たな受講者も加わって行われた。その一人が、島國郎さんである。

「御義口伝」講義の一こま(1963年12月1日、東京・信濃町で、写真上)。62年8月31日から始まった1期生の講義は、64年7月まで続けられた。翌65年の5月3日、本部総会の終了後、池田先生から1期生に修了証書(同下)が手渡された。証書には、メンバーが全世界に行き、「御義口伝」の講義をする資格を有するとの意義が込められた

求道の心を燃やして
石川県出身の島國郎さんは高校卒業後、金沢大学に進学。在学中、腎臓疾患の「ネフローゼ症候群」を患った。
息子を救いたいとの思いから、両親が入会。しかし、宗教に不信の念を抱いていた島さんは、御本尊の前に座ることができなかった。
症状は悪化の一途をたどった。命に危険が迫り、島さんはわらにもすがる思いで唱題を開始。一命を取り留めたが、「2、3年の命」と宣告された。
自宅で療養しながら、唱題を重ね、両親と共に折伏に歩いた。念仏王国といわれる土地柄。「島の家は頭がおかしくなった」と非難された。
だが、そんな中傷も、島さんは気にならなかった。病状が回復し始めたからだ。38キロまで減少した体重も、元に戻り始めた。
大学に復学した島さんは、1963年7月、学生部の中部第2部(当時)の部長の任命を受ける。二十数人の部員は、石川、富山、新潟、長野、山梨に点在していた。交通費を工面しては、メンバーのもとへ足を運んだ。
池田先生の「御義口伝」講義も、求道の心を燃やして、石川から東京まで通った。講義の中で、心に刻んだのが「声、仏事をなす」(新985・全708)との一節である。
74年1月、島さんは聖教新聞の特派員として、南米のペルーへ。先生は、「いつの日か 君を讃えん 時ありと 今日のペルーに 命ささげば」と詠み贈った。
渡航後、言葉が通じないもどかしさを何度も味わった。大学のスペイン語クラスに通うなどして、語学の習得に懸命に取り組んだ。
言葉以外にも多くの困難があった。ペルーに渡った当時、軍事政権によって、集会が制限され、夜間の外出も禁止された時もあった。
80年代にはテロが頻発。自分の近くで爆発が起こったこともあった。アンデス地帯を訪れた時には、高山病や酸欠で苦しんだ。それでも、師の激励を思い返しては、自他共の幸福とペルー社会の発展を願い、広布の活動と取材に全力を注いだ。
81年、島さんは、ペルーの理事長に就任。忘れられないのは、84年の先生の同国訪問だ。
「ペルーはペルーらしくやればいいのだ。他のところをまねる必要はない」
「日々、月々に怠惰な自分を乗り越え、自身の向上と社会への実証とを得ながら、信心の精進即人生の勝利を目指していただきたい」
この指針を胸に、2009年までの28年間、理事長としてペルー広布の原野を切り開いてきた。16年、副腎の病である「クッシング症候群」を発症したが、日本で受けた治療が功を奏し、健康を回復した。
ペルーでは現在、新会館の建設が進む。宝城が完成する日を目指し、島さんは「信心の精進即人生の勝利」の歩みを続けている。

海外歴訪50カ国・地域目となる南米のチリに向かう機中、池田先生が眼下に広がるアンデス山脈をカメラに収めた(1993年2月)。このチリ訪問の心情を、先生は和歌に詠んだ。「荘厳な 金色(ゆうひ)に包まれ 白雪の アンデス越えたり 我は勝ちたり」

受講生の誇りを胸に
膝の上に、御書と妙法蓮華経並開結を乗せて、小熊則子さんは「御義口伝」講義が始まる時を待った。
1964年1月22日、小熊さんは講義に初めて参加。会場はしわぶき一つない。高まる緊張の中、胸中で題目を唱えた。
やがて、「やあ、こんにちは」と、会場の後方から池田先生の声が聞こえた。講義が開始されると、希望者が挙手し、指名されたメンバーが、御文の拝読、通解、研究発表を行った。
この日、小熊さんは手を挙げることができなかった。またとない機会に、勇気を出せなかった自分が悔しくて仕方なかった。
“もっと勇気を出せる自分に”と、祈りにも力が入った。“次回こそは、先生の前で必ず御文を拝読する”と、予習にも励んだ。
2カ月後の3月20日、小熊さんにとって2回目となる「御義口伝」講義が行われた。大学の同級生に弘教を実らせて、講義に臨んだ。
「さあ、始めよう」と先生が言い終えた瞬間、受講者の手が一斉に挙がった。この時、司会と目が合った小熊さんが指名された。
全身が硬直するような緊張の中で、「宝塔品二十箇の大事」の「第五 『見大宝塔住在空中』の事」を拝読。通解、研究発表も行った。その間、御書を持つ小熊さんの手は震えていた。
先生は「よく勉強してきたね」とたたえた。その一言に、小熊さんは“先生は全て分かってくださっている”と感じ、師に随順する誓いを深くした。
その決意のまま、女子部(当時)時代、広布拡大に奔走。結婚後も、「『御義口伝』講義の受講生」の誇りを胸に、埼玉の地を駆けた。
埼玉の婦人部長(当時)を務めていた時、先生と懇談する機会があった。
「人と比べる必要はない。あなたはあなただ。自分の使命の道を堂々と進めばいい」
この言葉を心の支えとして、一人また一人と、師と共に進む人生の喜びを語り合った。
3年前の2020年、小熊さんは心筋梗塞を発症する。心筋が壊死しており、緊急手術が行われた。
術後、1分歩くだけでも、息が切れるような状態だった。だが、諦めず、投薬治療を続けながら、少しずつ歩ける距離を増やしていった。現在は日常生活に支障がないまでに回復した。
小熊さんが「御義口伝」講義を受けたのは、全部で7回。講義の内容は、すでに記憶から消えてしまっている部分もある。ただ、7回の講義を通して、生命に刻まれた「師弟の道を進む」との誓いは、59年が過ぎた今も変わることはない。

「御義口伝」講義開始から50周年の2012年、受講生の記念の集いが行われた。先生はメッセージで、こう強調した。
「『御義口伝』の魂とは、師弟不二の極致によってのみ、相伝されることを、絶対に忘れてはならない」

君よ、貴女(あなた)よ、広宣流布の大道を共に進もう――青年の奮闘を心からたたえる池田先生ご夫妻(2007年12月、八王子市の東京牧口記念会館で)。「御義口伝」講義の折、先生は学生部への万感の思いを語った。「どうすれば、世界に正法を弘め、全人類を救うことができるのかということを、真剣に考えてもらいたい。私は、諸君に期待しています」