創価学会は校舎なき総合大学 御書編④ 23年05月28日 |
御書の翻訳をわが使命に 「イタリアのお母さん、ありがとう!」――1992年6月25日、イタリア文化会館に到着した池田大作先生は、アマリア・ミリオニコさんの姿を見つけると歩み寄った。 ミリオニコさんは15歳の時、ポリオ(小児まひ)を患った。足が不自由になったが、苦学の末、ローマ大学の医学部を卒業する。 医師として奮闘したが、体力が追いつかず、やむなく医療の現場を離れた。もともと言葉を学ぶのが好きだったミリオニコさんは、その後、ローマの日本語学校に通い始めた。 そこで、人生の転機が訪れる。学校に創価学会員の日本人女性がいた。宗教に興味はなかったが、彼女が連れてきた学会員の人柄と熱意に感動し、1966年、入会。4年後の70年12月、イタリア支部が発足した時には、初代の支部婦人部長に就いた。 日本語の力を磨き、英語、フランス語にも通じた。御書をイタリア語に翻訳することを自らの使命と定めた。 “イタリアの同志のため”との熱い思いから、ミリオニコさんは印刷機を購入し、仏法を研さんするための小冊子を自宅で作成した。 自身も仏法を学ぶため、不自由な足で何度も日本を訪れた。池田先生の著作やスピーチの翻訳にも取り組んだ。65歳でパソコンを覚え、70歳を過ぎても、黙々と翻訳に打ち込んだ。 本紙の「きょうの発心」に登場した折、「湿れる木より火を出だし、乾ける土より水を儲けんがごとく、強盛に申すなり」(新1539・全1132)との御文を通して、こう述べた。 「私は、苦境に陥って、たとえ脱出の道が分からないとしても、大聖人がこの御文によって示してくださった法理をいつも実践していこうと心に誓っています」 その決意のままに祈り、後継の青年を“お母さん”のように励まし続けた75年の生涯。先生は、ミリオニコさんを法華経の漢訳者・鳩摩羅什になぞらえ、「ローマの羅什」とたたえた。 ![]() イタリア文化会館を初めて訪れた池田先生が、歓迎メンバーの真心に両手を大きく上げて応える(1992年6月25日)。手前右に写っているのが、イタリア創価学会の草創期を支えたアマリア・ミリオニコさん。先生は広布献身への感謝を述べ、励ましを送った 真の平和確立に貢献したい フランスの友から、「パリのお母さん」と慕われる女性がいた。 フローランス・ウストン=ブラウンさん。20世紀が開幕した1901年に生まれた。パリ第4大学で学び、レイモン・バンクさんと結婚。一人娘のジュヌヴィエーヴさんは、幼い頃から脊椎を病み、ぜんそくの発作に苦しんだ。 第2次世界大戦の時、バンクさん、ブラウンさん夫妻は、ナチスへの抵抗運動に身を投じる。その渦中、バンクさんはナチスの秘密警察に捕まり、命を奪われた。平和が戻った後、その名は、殉難の地・グルノーブル市の街路に冠され、「レイモン・バンク通り」として顕彰されている。 戦後、ブラウンさんは画廊を営む。そこに、学会員の画家が作品を出展した。ブラウンさんは、娘の病が快方に向かわない苦悩を打ち明けた。 画家から座談会の誘いを受けた。その場で聞いた「この信仰は人間に力と知恵と光を与えてくれる」との言葉を信じて入会。1964年4月、ブラウンさんは信心を始めた。 同年10月、池田先生がフランスを訪問し、パリ市内で開かれた会合に出席。その集いで、ジュヌヴィエーヴさんは自身の体験を語った。 ――私は脊椎が痛むから、長年、横になってまともに寝ることができなかった。母から創価学会の話を聞いても、何も期待していなかった。でも題目を唱え始めると、熟睡できる日が増えた。病院に通う以外でも外を歩けるようになった―― 娘の隣で、ブラウンさんは肩を震わせて泣いた。先生は母娘を称賛し、包み込むように励ました。 信心への確信を深めるブラウンさんは、仏法の平和思想にも共鳴した。特に、「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」との小説『人間革命』の冒頭は、戦争で夫を奪われたブラウンさんにとって、深く共感する一節だった。 ある時の先生との懇談の折、こう語った。「私は夫が最後まで叫び続けた真の平和を確立するため、少しでも役立つ生涯を送っていきたい」。彼女は『人間革命』のフランス語訳にも取り組んだ。 81歳の誕生日を数日後に控えた82年8月26日、メンバーの激励のために向かった南フランスで、眠るようにして霊山へ旅立った。最後まで、フランス広布に尽くし抜いた生涯だった。 5年後の87年1月26日、先生はブラウンさんに一編の長編詩をささげた。その中で、こう詠んだ。 「あなたの偉大さに われは名付けむ/『フランス広布先駆の母』――と」 ![]() 池田先生がトレッツ市営墓地でフローランス・ウストン=ブラウンさんの娘・ジュヌヴィエーヴさんの墓碑に献花(1981年6月)。先生と対談集『闇は暁を求めて』を編んだ美術史家のルネ・ユイグ氏は、親交のあったブラウンさんを、「ファム・ド・カリテ(品格の高い女性)」と心から尊敬した 正しいからこそ、勝たねばならない 宗門が学会破壊を企てた第2次宗門事件が勃発したのは、1990年の暮れのこと。スペインでは、学会を怨嫉して退転した当時の中心者と悪侶が結託。師弟の絆を分断しようとする謀略の嵐が吹き荒れた。 その中で、必死に正義の旗を掲げる友を、先生は励まし続けた。91年の夏には、来日した代表のメンバーに、学会の魂を打ち込むかのように訴えた。 「正しいから勝つとは限らない。正しいからこそ、勝たねばならない。悪に勝ってこそ、初めて、善であることが証明される」 スペインの友は、歯を食いしばり、退転・反逆の徒と戦い抜いた。アライン・ゴンサレスさんも、その一人だ。 73年5月、先生がフランスを訪問した折、ゴンサレスさんは先生に、「どうすれば、自分にとって最も重要な目標を達成できるか」という質問の手紙を送った。 先生は長文の返信をしたためた。その中で、仏道修行の途上に生じる「三障四魔」について触れ、「信仰を続けること」「忍耐力」「規則正しく」ということを強調し、こう述べた。 ――御書には、仏の生命を湧き起こすために、魔と戦わねばならないと説かれています。それは生命に共存する生と死との壮絶な戦いです。あなた自身の中の魔を見つけ、一生を通して、その魔と戦う決意をすることです―― ゴンサレスさんは、師匠の手紙を何度も読み返しては、自身の人間革命に挑み、カタルーニャ地方に仏法を語り広げた。 第2次宗門事件の時には、メンバー一人一人と誠実に語り合った。攪乱の首謀者の言動に惑わされず、真っすぐに師匠を求め、信心を貫いた。 組織破壊の謀略を乗り越えたスペイン創価学会は、2008年、「スペイン仏教連盟」に加盟。16年には、加盟18団体の全会一致により、スペイン創価学会のエンリケ・カプート理事長が連盟の会長に選出されている。 スペイン国内で大きく広がる創価学会への信頼。先生は友の激闘をたたえ、こう記している。「嵐に打たれて、軟らかな土は流されたのだ。不屈の石だけが残ったのだ。難を乗り越えたから本物になったのだ」 ![]() 第1回「SGIスペイン総会」に出席した池田先生が、メンバーに温かく声をかける(1983年6月14日、マドリード市内で)。総会の席上、先生は強調した。「いかなる“行き詰まり”をも打開しゆく人間の道、平和の道、文化創造への道を開き、さらに家庭にあっては幸福にして安穏の人生を開いていくことが妙法の信心なのである」 批判に屈せず、誇り高く生き抜け 「御書を持ってきて」――池田先生が側にいたスタッフに頼んだ。隣にはブルガリアの芸術史家アクシニア・ジュロヴァ博士が座っている。 1990年4月16日、両者は7年ぶり3度目となる対談に臨んだ。海外の識者との語らいで、先生が御書を手にすることは珍しかった。 ジュロヴァ博士の表情は暗かった。祖国が動乱の渦中にあり、博士は父のドブリ・ジュロフ氏と共に猛烈な批判にさらされていたからである。 89年に東西冷戦が終結。同年11月、共産体制だったブルガリアは、民衆の流血を伴うことなく、平和裏に民主化へと移行した。 ブルガリア軍の最高責任者だったジュロフ氏は、その立役者の一人。いわば、“民主化の英雄”である。 しかし、国家の体制変化は混乱を招き、急激な物価高騰を引き起こした。批判の矛先は“旧体制派の人間”として、ジュロフ氏や家族であるジュロヴァ博士にまで向けられたのである。 先生は御書を手にすると、「御義口伝」の一節を読み上げた。 「善悪一如なれば、『一心福(一心の福)』とは云うなり。いわゆる、南無妙法蓮華経は『一心福』なり」(新1100・全790)。先生は語った。 ――善と悪は一体であり、ある面から善に見えても、別の面からは悪に見えることもある。 ――社会の評価もまた、絶え間なく揺れ動くものです。ゆえに、そうした批判に屈することなく、誇り高く生き抜いてください。 対談を終え、博士が車に乗る瞬間まで、先生は励ましを送り続けた。 「お父さんを励ますのは、あなたしかいません。最大の薬は娘の声です。声が愛情です」 博士の表情は、対談が始まる前とは一変していた。 9年後の99年、両者の語らいは対談集『美しき獅子の魂』として結実。博士は後に、SGIのスタッフに率直な思いを語った。 「池田先生との対談集の執筆作業は、あの長い困難な時代にあって、私の精神の支えとなりました。先生に心から感謝したい」 ![]() ブルガリアの芸術史家アクシニア・ジュロヴァ博士と4回目の語らい(2006年3月、創価大学で)。1999年に発刊された対談集『美しき獅子の魂』(日本語版)は、翌2000年にブルガリア語版でも刊行された。その後、再版が重ねられ、16年には三巻本(トインビー、ペッチェイ、ジュロヴァ対談)として出版されている |