平和の旗を高く掲げて②
核兵器の廃絶〈下〉
22年10月30日
虹かかる「共生の世紀」へ
 我らは起つ 我らは進む
職員室に漂った解放感

戦時史研究家の高崎隆治氏は、横浜の高校で教師をしていた経験がある。1957年の秋、職員室である出来事が話題になった。
――横浜・三ツ沢の陸上競技場で創価学会の体育大会があり、戸田城聖会長が原水爆の使用を禁止する宣言を発表した。
前年の56年秋、氏の勤務校の学園祭で、あるクラブが「原爆とは何か」とのテーマで展示を行った。ところが、突然、校長から中止の指示があった。展示物の説明文に、原爆投下を非難することが書かれていたからである。
勤務校では、原爆の話はタブーとされていた。当時の一部の教育現場では、そのような風潮があったという。
氏は記している。
「だれかがどこかで『原水爆は魔の産物だ』と言ってくれるのを待つ以外にないほど、私たちは非力だった」
だからこそ、戸田先生が「原水爆禁止宣言」を発表した後、そのことが教員の間で話題になった。氏は、こうも述べている。
「職員室はなんとなく解放感が漂った感じだった」
恩師の宣言は、教育現場の心ある人々にも希望の曙光を送ったのである。

被爆地の訪問が平和運動の出発点に
79年8月、原水爆禁止宣言が発表された横浜に、「戸田平和記念館」が誕生した。創価学会として初めての平和展示資料館である。
池田大作先生は、記念館の名に、恩師の名を冠するよう提案した。“戸田先生のお名前と平和の魂を、横浜の地に永遠に残したい”との思いからだ。
建物は大正時代の遺構であり、文化的価値が非常に高いことから、横浜市の「歴史的建造物」に認定されている。
記念館ではこれまで、50回を超える展示を開催してきた。学校の校外学習にも活用され、多くの識者が来館。核時代平和財団の会長を務めたデイビッド・クリーガー博士も、その一人だ。
博士は21歳の時、広島・長崎を訪れた。この時、被爆した市街、黒焦げの遺体などの写真を見て、とてつもない衝撃を受けた。
アメリカの学校で、「原子爆弾の投下は戦争に勝ち、戦争を終わらせるために必要だった」と学んだ。広島・長崎の地で、原爆投下によって民間人が犠牲になったという事実を初めて知った。学校で教えられた内容が、いかに「単純化」されたものだったかを思い知った。
おぞましい兵器を世界から廃絶することに、少しでも役立ちたい――広島・長崎の訪問は、博士が平和運動に立ち上がる出発点となった。
98年2月、来日した博士は、広島平和記念資料館、長崎の原爆資料館を訪れた。その折、「すべての国の指導者に、ここを訪れることを義務づけるべきである」と強調した。
池田先生は博士との対談で、その主張に深く共感した。先生もまた、長年にわたり、繰り返し訴えてきた。
――世界の指導者は被爆地に足を運び、核兵器なき世界への誓いを新たにすべきである。

池田先生が核時代平和財団のクリーガー博士と語らう(1998年2月、沖縄研修道場で)。両者は対談集『希望の選択』を発刊。その中で先生は述べている。「核廃絶の運動も、その人間の内発の力を信じ、高めてゆくことから始めなければなりません。これが仏法者としての私の決意です」

横浜・山下公園に隣接する戸田平和記念館。建物は1922年の建造。神奈川文化会館の建設の折、文化団体等からの要望もあり、建物正面の外観などを保存しつつ、展示資料館としてオープンした。現在は補修工事のため休館中

シカゴ大学でのフォーラム
1975年1月16日、池田先生は世界的な名門校のアメリカ・シカゴ大学を訪問。大学首脳との懇談や図書館の視察に臨んだ。
キャンパスの一角に、核兵器の開発に関する記念碑が立っていた。42年12月、シカゴ大学内に建設された原子炉で、世界初となる核分裂の連鎖反応実験が成功した。それは、後の原子爆弾を開発する「マンハッタン計画」の道筋を開くことにもなった。
先生は記念碑の前で立ち止まった。シカゴ大学訪問の6日前に、ニューヨークの国連本部で、国連事務総長に創価学会青年部の手による核兵器廃絶の1000万人の署名簿を提出したばかりだった。それだけに、核廃絶への思いを一層強く胸に刻み、当時の科学者たちの呻吟や苦悩に思いを馳せた。
このシカゴ大学で2013年9月、アメリカSGI主催の核兵器廃絶のフォーラムが行われた。
先生はメッセージを寄せ、大切なことは「どこの国の民衆であろうと核兵器の犠牲となる事態を起こしてはならないとの意識に目覚めること」と訴え、草の根の運動で核兵器なき世界の実現をと呼びかけた。
フォーラムで基調講演をしたのが、元新聞記者のクリフトン・トルーマン・ダニエル氏。第2次世界大戦の時、原爆投下を指示したハリー・トルーマン元大統領の令孫である。
「原爆によって戦争は早く終結した」――この考え方にダニエル氏が疑いを抱くきっかけとなったのは、息子が通う学校の教科書だった。
そこに、広島の平和記念公園内に設置されている「原爆の子の像」のモデルとなった、被爆少女・佐々木禎子さんの物語が載っていた。佐々木さんの人生を知り、氏は“原爆の真実”に目を向けるようになった。
佐々木さんの家族と会い、広島・長崎の被爆者から話を聞いた。そのことを通して、核兵器の脅威をアメリカに伝える使命に立ち上がった。
氏は講演で力説した。
「原爆投下を指示した人間の子孫として、核兵器の廃絶に尽力したい」

フォーラムの会場の入り口には、SGIと国際NGOのICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)が制作した「核兵器なき世界への連帯」展が設置された。
原水爆禁止宣言の発表55周年である2012年、同展はスタート。これまで21カ国90都市以上で行われてきた。アメリカで初めて開催されたのが、シカゴ大学での同展である。
ICANの発足は2007年。学会本部を訪問した当時のティルマン・ラフ議長から、国際パートナーとしての協力要請があった。以来、SGIとICANは協働を重ねてきた。
2017年、ICANがノーベル平和賞を受賞。受賞後、ベアトリス・フィン事務局長は学会の総本部を訪れ、核兵器の非人道性に対する認識の国際的な普及などにおいて、SGIが大きな力になってきたと述べ、こう語った。
「友情に根差したICANとSGIの緊密な連携が、核兵器禁止条約の実現、またノーベル平和賞の受賞につながったと思います」

アメリカSGI主催のフォーラムで、トルーマン元大統領の令孫であるダニエル氏が講演(2013年9月、シカゴ大学で)。広島・長崎の訪問など、日本での経験を通して、核兵器は「存在してはいけない兵器」との思いを強くしたと語った

450回を超す核実験
中央アジアに位置するカザフスタン共和国はかつて、ソ連(当時)の一構成国であり、核開発の最重要拠点の一つであった。
旧ソ連時代、カザフスタンには多くの核関連施設があった。なかでも、セミパラチンスクの施設は、最大の核実験場だった。1949年から89年までの40年間に、450回を超える核実験が繰り返された。
カザフスタンで行われた全ての核実験のエネルギーの総量は、1万7000キロトンを上回るといわれる。広島の原爆は16キロトン、長崎の原爆は22キロトンと推定されている。カザフスタンの核実験は、広島型原爆の1100発分、長崎型原爆の750発分である。自然環境は破壊され、農業や酪農への影響は現在も続いている。
そのカザフスタンで先月、「核兵器なき世界への連帯」展が開催された。
池田先生は開幕式のメッセージで、今年6月にオーストリアで行われた核兵器禁止条約の第1回の締約国会議に言及。同会議でのカザフスタンの貢献をたたえた。
また、同国やSGIなどが協力して開催した関連行事に触れ、核兵器禁止条約の第6条に示された被爆者支援や被爆地の環境修復、第7条で定められた、そのための国際協力の普遍的価値を宣揚するものになった、と述べた。
続いて、セミパラチンスク実験場から程近い、サルジャル村で暮らすボラトベク・バルタベク氏が登壇した。
氏は幼少期、核実験が危険なものとは知らずにいた。だが、成長するにつれ、親戚や友人が未知の病で亡くなるように。親に理由を尋ねると、“実験地病”と短くいわれた。その時の親の悲しい表情は深く心に残った。
セミパラチンスクでの核実験によって、健康被害を受けた人は、150万人にも及ぶという。
氏は、核実験が終わって33年が過ぎた今も、実験場周辺で暮らす多くの人々が、何かしらの健康上の問題を抱えていると語った。氏の孫娘も、血液の病気で障がい者登録をしている。
1989年、実験場の閉鎖を求める反核運動「ネバダ・セミパラチンスク」が市民から起こった。ソ連圏で初めて起こった反核運動である。
運動名に「ネバダ」が含まれているのは、アメリカの核実験中止も目指すとの意志であり、世界の被爆者と連帯し、共に戦うとの意味が込められている。氏は、運動のサルジャル村のリーダーとして、抗議活動に奔走した。
核兵器に反対する市民の声は、91年8月、セミパラチンスク実験場の閉鎖として結実する。現在、氏は被爆者支援のために戦い続けている。
あいさつの最後、氏は訴えた。
「罪のない犠牲者を守ることは、私たちにとって最も重要な課題です」

広島の中国平和記念墓地公園にある「世界平和祈願の碑」。そこに、池田先生の碑文が刻まれている。
「全人類が希求してやまぬ
虹かかる『共生の世紀』目指し
我等は起つ 我等は進む」
この碑文は、いかに時代が揺れ動こうとも、決して変わらぬ私たちの誓いそのものである。

先月、カザフスタンの首都アスタナで行われた「核兵器なき世界への連帯」展。同国にかつて存在した旧ソ連最大のセミパラチンスク核実験場は、日本の四国の面積とほぼ同じだった。91年にソ連から独立後、同国はソ連時代の核兵器を全て放棄した