「一瞬」に「永遠」を込めて
列車編 21年06月21日

ボローニャ中央駅

娘のサラさんをベビーカーに乗せ、母のエマヌエラ・ベルゴンゾーニさんは、ボローニャ中央駅へと急いだ。1992年7月1日のことである。
この日、イタリア訪問中の池田大作先生は、列車でフィレンツェからミラノへ向かった。その途中、列車はボローニャ中央駅に停車した。
ベルゴンゾーニさんが駅のホームに到着すると、車内に先生の姿が見えた。先生は集った友に「グラッチェ(ありがとう)!」と繰り返し感謝を伝え、カメラを向けた。
「その時に先生が撮影された写真は、私たちの宝物です」とベルゴンゾーニさん。
列車が動きだし、友の姿が見えなくなるまで、先生は手を振り続けた。ベルゴンゾーニさんも力いっぱい、手を振り返した。

この時、ベルゴンゾーニさんは、仕事を失っていた。宝石デザイナーとして働いていたが、契約先から解雇された。
だが、ベルゴンゾーニさんは試練を飛躍の転機に変えた。失職を機に、教員になるために大学進学を決意する。
それは、とてつもなく大きなチャレンジだった。ベルゴンゾーニさんには、「ディスレクシア」と呼ばれる、読み書きの障がいがあったからだ。
暗記には人一倍の時間を必要とした。大学進学など夢のまた夢。自分で自分を諦めていた。その心に、立ち向かい始めた。
2年後の94年、31歳でボローニャ国立美術学院の門をたたく。この年、先生は“世界最古の総合大学”と呼ばれるボローニャ大学を訪れ、記念講演を。ベルゴンゾーニさんは学生として聴講した。心の中で“先生、私は勝ちます!”と叫び続けた。
現実は育児、勉強、学会活動と、多忙な日々。何度もくじけそうになった。“もう大学をやめたい”と思う気持ちが込み上げるたび、先生のスピーチを読み、駅での師の励ましを思い返しては、心を奮い立たせた。
猛勉強の末、99年に彫刻学の学士を取得。現在、ボローニャ国立美術学院とラヴェンナ国立美術学院で講師を務める。
イタリア創価学会では、ボローニャ第1方面の方面副婦人部長として、夫のロマーノさんと共にイタリア広布に奔走。長女のサラさん、長男のアレッシオさんも後継の道を進む。

ベルゴンゾーニさんがボローニャ中央駅で、池田先生との絆を結んだ時、列車の停車時間はわずか4分。しかも、窓越しの出会いである。
だが、窓越しの4分は、一人の女性の胸中に、“何があっても負けない”との勇気の灯をともした。29年の時が流れた今も、その灯は、まばゆい輝きを放ち続けている。

ボローニャ中央駅に駆け付けた友を、池田先生が車中からカメラに収めた(1992年7月1日)。右端で、ベビーカーを手に笑顔で立っているのがベルゴンゾーニさん

信心の軌道を進め!
1973年6月5日、池田先生は滋賀・米原から急行「立山2号」に乗車し、福井の武生駅へ向かった。福井県幹部会に出席するためである。
この会合に鼓笛隊のメンバーも参加した。会場の武生市体育館(当時)に向かうため、敦賀にいた7人の鼓笛隊員は「立山2号」に乗車した。
急行が武生駅に到着し、7人は改札を出た。いつもとは違う駅の雰囲気。振り返ると、先生の姿が見えた。
先生は改札を出ると、その場にいた母子に声を掛けた。そして、7人を励まし、一人一人と握手を交わした。車に乗った後も窓を開け、手を振り続けた。
7人への激励は、まだ終わらなかった。福井県幹部会で、先生は「さっき駅で会った鼓笛隊の方、手を上げてください。ヨーロッパの絵はがきを差し上げたいと思います」と。
一回一回の出会いに精いっぱいの真心を込める――そこに創価の心があることを、先生は自らの行動で示した。

73年の福井県幹部会には、もう一つの“駅のドラマ”がある。
「昭和35年に、敦賀の駅で私を待っていてくださった方々は、いらっしゃいますか」――先生が呼び掛けると、会場のあちこちで手が上がった。
昭和35年2月8日、池田先生は敦賀を通って金沢に向かった。敦賀駅の到着は午前2時半ごろ。停車時間は6分である。
それでも、50人ほどの同志が敦賀駅に集まった。だが、先生がホームに降りることはなかった。深夜でもあり、周囲に迷惑がかかることを考慮してのことである。随行の幹部から、先生の伝言が伝えられた。どの顔にも寂しげな表情が浮かんだ。
当時、14歳だった婦人も肩を落として家路に就いた。“一目でも先生にお会いしたい”と両親と一緒に駆け付けていた。
“会えなかった思い出”は、幹部会での先生の呼び掛けによって、“歓喜の思い出”に変わった。13年が過ぎても、会えなかった人に心を砕き続ける師の慈愛が胸の奥深くまで染みた。
70年に義父が事業に失敗。婦人の一家は多額の負債を抱えた。夫は昼と夜、二つの仕事を掛け持ちし、働き続けた。
73年の幹部会の時も経済的な苦境の渦中にあったが、師の励ましを胸に、7年かかって借金を完済した。
幹部会の折、鼓笛隊のメンバーと同様、この婦人にも先生から一枚の絵はがきが贈られた。“自由に海外を行き来できるように”との思いが込められたものだ。経済苦の当時、海外旅行など想像もできなかった。しかし完済後、アメリカ、韓国の地を踏むことができた。
「海外へ行ける境涯を開くことができたのも、全て先生のおかげです」と婦人。
8年前、福井・敦賀から東京・八王子へ。広布一筋の76歳は今、調布、狛江、目黒、豊島、中野、荒川、大田など、東京各地を対話に走っている。

福井の武生駅で、池田先生が鼓笛隊メンバーを激励。「勉強も頑張るんだよ。それからお母さんに心配かけないようにね」と語った(1973年6月5日)

空に美しい虹が懸かっていた。第3代会長辞任から1年後の1980年4月29日。第5次訪中から帰国した池田先生は、長崎空港に降り立った。
先生は長崎文化会館(当時)へ向かい、長崎支部結成22周年記念の幹部会に臨んだ。その後、訪中報告の記者会見を行った。
翌30日付の聖教新聞1面。記者会見、幹部会の模様が掲載になった。さらに記事の最後に、「名誉会長は、長崎のあと福岡、関西、中部の会員の激励・指導に当たる予定になっている」と短く記されていた。
当時、宗門僧らが師弟分断の謀略の限りを尽くしていた。「第1次宗門事件」である。国内での先生の動向はほとんど報道されず、ましてや行動予定が掲載になることなどなかった。短い一文は、列島を歓喜で包んだ。

30日、先生は特急「かもめ」に乗り、長崎から福岡へ。長崎駅のホームには、長崎や佐賀からも友が集まった。
長崎の婦人は3歳の長女、母と駆け付けた。先生は母と長女の近くに歩み寄り、「大切に、大切に育てるんですよ」と語り、長女の頬を優しくなでた。
ところが、この出会いから4カ月後、長女に試練が襲う。日本脳炎にかかった。危篤状態が続き、医師は「命の保証はできません」と告げた。絶望のどん底に沈む婦人に、母は「先生の激励を忘れたらいかん」と、婦人の弱い心を叱り飛ばした。
家族で祈りに祈り、長女は奇跡的に回復。婦人は「先生の真心の一言によって、長女とわが家は救っていただきました。生涯、広布に戦い抜きます」と。
長女は今、白ゆり長として地域広布にまい進。次女は支部女性部長、三女は圏女子部主任部長として、自他共の幸福に尽くす生き方を受け継いでいる。
長崎駅を出発した特急は諫早駅に到着。ここにも、同志が駆け付けていた。
先生は窓越しから、一人一人に真剣なまなざしを向けた。その場にいた女性部の友は、「私たちのことを生命に刻まれていると感じました」と振り返る。
友は宗門の悪僧の暴言に紛動される同志に、師の正義を訴え抜いた。その攻防戦のさなかの先生との出会い。友は「頑張ります! 勝ちます!」と叫んだ。誓いの通り、諫早の女子部員を守り抜いた。
特急は肥前鹿島駅、肥前山口駅に停車した後、佐賀駅へ。各駅に求道の同志が待っていた。
先生は佐賀駅でも窓越しに手を振った。それは「負けるな!」「立ち上がれ!」との、佐賀の友への“無言の励まし”であった。
佐賀駅の後、特急は鳥栖駅に向かい、博多駅に到着した。
九州から始まった激励行は反転攻勢の助走だった。その後、学会は師弟分断の鉄鎖を断ち切り、大きな飛躍を遂げていく。第1次宗門事件の正邪の決着は厳然とついたのである。

列車は軌道を外れない。
山を越え、谷を越え、目的地を目指し、軌道を走り続ける。
広布の戦いは、師が示した信心の軌道を、誠実一路の軌道を、真っすぐに走ることだ。
その先に、立正安国の大理想の実現はある。

特急「かもめ」に乗り、長崎から福岡に向かう池田先生。見送りに駆け付けた同志を見つめ、発車直前まで励ましを送る(1980年4月30日、長崎駅で)