
ロンドンのヒースロー空港(1994年6月、池田先生撮影)。
60年前のイギリス初訪問の折、先生は、空港で出迎えたシズエさんに語った。「久遠の使命を自覚し、果たそうとしていくところから、大歓喜が生まれ、新たな人生の扉が開かれていきます」
イギリス・ロンドンは、“霧の街”と呼ばれる。
その日、街は霧に覆われた。60年前の1961年10月15日、池田大作先生は、ロンドンからスペイン・マドリードへ向かう予定だった。ところが、霧の影響で飛行機の出発が大幅に遅れることに。
この待ち時間に、先生は発心の種子を蒔いた。見送りに来ていたシズエ・グラハムさんに、「心の師とはなるとも心を師とせざれ」(御書1025ページ)の一節を通して語った。
「自分の弱い心に負け、弱い心を師として従ってはならない」
「御書こそが、心の師となる。ゆえに、教学が大切になります」
さらに、「この時間を使って、教学の試験をしよう」と。シズエさんは頭が真っ白になった。四条金吾について問われ、無我夢中で答えた。
“教学試験”を終えると、先生は絵はがきを取り出し、日本の友に便りを書き始めた。空港の待合室は、御書研さんの道場となり、執務室となった。
愛媛出身のシズエさんは幼少のころ、家族で広島・呉市へ。十二指腸潰瘍で入院した弟の回復を願い、母が入会。シズエさんも続いた。
呉は軍港の町だった。そこに、国連軍の一員として駐留していたのが、ケン・グラハムさん。二人は結婚後の61年、夫の祖国であるイギリスに移った。
シズエさんは英語での日常会話がままならず、人間関係を築くのに苦労した。夫は軍務で多忙な日々。メンバーは点在しており、交流できずにいた。心細さを募らせていた中で、先生のイギリス訪問の連絡があった。
同年10月13日、先生はイギリスに第一歩を刻んだ。ヒースロー空港で出迎えたグラハムさん夫婦を、宿泊先のホテルに招き、シズエさんに語った。
「たくさん友人をつくって、ともに幸せになるために、仏法を教えていくことです」
友人をつくる――それは、シズエさんのモットーとなった。
1999年10月13日、「イギリスSGIの日」を記念する勤行会が、同国の各地で開催された。この時、ケンさんは空港で先生を出迎えた時と同じスーツを着て、タプロー・コートでの集いに臨んだ。
61年に帰国後、ケンさんはオックスフォード大学、ケンブリッジ大学で学び、同国の外務省に入省。外交官として、マレーシアやオーストラリアなど、世界各地に赴任した。
ケンさんは未入会だったが、先生との出会いをいつまでも大切にし、妻の学会活動を応援した。シズエさんは、師から教わった御書の一節を胸に、どの国でも友情の花を咲かせた。
苦難の“冬”を勝利の“春”に
1963年1月27日。アメリカ、欧州、中東、アジアの海外歴訪の旅を終えた池田先生は、香港からの直行便で東京へ戻る予定だった。
ところが、飛行機にエンジントラブルが発生。変更した便は給油のため、台湾の松山空港に立ち寄った。
たまたま訪れた空港に、台湾の同志が駆け付けていた。その日に師が帰国することを聞いていた朱萬里さんが、“もしかしたら、台湾に寄られるかもしれない”と、空港に集まることを呼び掛けていたからである。
先生は朱さんに語った。「不思議だな。唱題に引かれて来てしまったんだね」
朱さんは、台湾では戒厳令が敷かれ、組織的な活動をすることが難しくなっていることを報告した。先生は語った。
「何があっても、どんなに辛くとも、台湾の人びとの幸福のために、絶対に仏法の火を消してはならない。本当の勝負は、30年、40年先です。最後は必ず勝ちます」
「冬は必ず春となります」

来日した台湾の友らに励ましを送る池田先生(1985年8月、旧・聖教新聞本社前で)。
後に先生は、台湾の友の活躍をたたえ、こう詠んだ。「仏法の/平和と文化の/台湾は/勝ちたり笑顔の/心嬉しや」
台湾広布の“冬”は、厳しさを増した。松山空港での励ましから3カ月後、政府から台湾の組織に解散命令が出された。
当局は学会員に監視の目を光らせ、取り締まりを強化した。信心をしているだけで、会社を解雇されたメンバーもいた。
台湾の友は“春”を待ち、試練を耐えた。その中で生まれた智慧が、65年10月のハーモニカ隊の結成。文化活動を通して、仏法の精神を伝えていった。
翌年、先生は、朱さんに2本のハーモニカと手紙を届けた。
「(『行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず』<御書1087ページ>との)御金言を身を以て実践した信心は、学会員の亀鏡であり、熱原の三烈士を偲ばせます」
「『月は西より出でて東を照し日は東より出でて西を照す仏法も又以て是くの如し正像には西より東に向い末法には東より西に往く』<同508ページ>の御金言は、大聖人の仏法が必ず広宣流布するということであり、日本に最も近く、而も縁の深い台湾の同志の使命は重大であることを痛感いたします」
師の言葉に、一人一人が奮い立った。「良き市民」として地域に信頼を大きく広げ、社会に貢献していった。
解散命令が出されてから24年が経過した87年、政府による戒厳令が解除された。そして、90年、台湾SGIはついに、法人として正式に認可された。
今、台湾SGIには各界から高い評価が寄せられている。台湾の全市・全県が、池田先生に名誉市民・県民の称号を授与。同SGIは、行政院の内政部から「社会団体公益貢献賞 金賞」を21回連続で、「宗教公益賞」を18回連続で受賞している。
烈風に揺るがない「団結」。
時代を変えるとの「執念」。
社会に信頼を広げる「智慧」。
台湾の友は、いかなる時も、空港での師の励ましを忘れず、苦難の“冬”を、勝利の“春”に変えた。

池田先生が、ベラクルス国際空港で歓迎するメキシコの友に、両手を大きく広げて感謝を。「メキシコに福運あれ! 長寿あれ! 健康あれ!」と励ました(1996年6月29日)
メキシコ東部のベラクルス国際空港に、池田先生を乗せた飛行機が着陸した。1996年6月29日のことである。
ロビーには、民族衣装をまとった友や、赤・黄・青の小旗を振る子どもたちなど、メキシコの同志200人が集っていた。
先生の姿が見えると、一人の少女が駆け寄り、花束を手渡した。9歳のマユミ・エルナンデスさんだ。
先生の到着前、マユミさんは歓迎の思いを伝えようと、「ヨウコソ」という言葉を繰り返し練習していた。ところが、言葉を間違えたのか、一瞬の間が空いた。戸惑うマユミさんに、先生は腰を深く曲げて、ほほ笑みかけた。
「うんうん、『ようこそ』だね。ありがとう! 賢いね!」
先生は花束を受け取り、記念撮影を終えると、マユミさんに「大きくなったら、日本にいらっしゃい」と声を掛けた。
大学院を修了後、マユミさんは大手石油会社で働き始めた。2011年9月、SGI研修会で来日。先生は「報告を聞いたよ。本当に来たんだね。うれしい」と、空港で交わした約束を果たしたマユミさんを最大にたたえた。
ベラクルスを訪問した日、先生は「尊きベラクルスの地涌の友へ贈る」と題する詩を捧げた。
ベラクルスの同志の
この気高き顔
この美しき瞳は
未来永劫 わが胸から
離れることは 決してあり得ない
心と心の妙なる無線に結ばれし
あなたと私よ!
さあ
共に 飛び立とう!
無窮の希望の青空へ
共に 舞い征こう!
永遠の勝利の新世紀へと

ベラクルス国際空港で、出発までの寸暇を惜しんで、メキシコの同志への励ましの言葉をつづる池田先生。香峯子夫人が見守る(同)
空港を出発した後、先生はさらに即興の詩を詠んだ。
師の真心を、ベラクルスの友は深く心に刻み、メキシコ広布に走った。98年には同市でSGI平和行動展、その後も「自然との対話」写真展などが開催された。ベラクルス市に広がるSGIへの理解と共感は、やがて数々の顕彰につながった。
2002年、同市は池田先生に名誉市民称号に相当する「特別賓客」を贈り、10年には市議会が感謝状を授与。06年には、学会創立記念日の11月18日が、市の「創価学会の日」に制定されている。
限られた長さの滑走路を、飛行機は全速力で駆け抜け、大空へ飛び立つ。
今この瞬間、自分ができることに全力を注いでこそ、広布の飛翔がある――師の空港での励ましは、いつの時代も変わらない方程式を示している。.
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