第5回 ブラジルに燃える求道の炎
栄光編21年02月21日

ムイト・マイス・ダイモク(もっと題目を)

ブラジルのリオデジャネイロ連邦大学から、池田先生への名誉博士号授与式。マクラン総長(左から2人目)から学位記が手渡された(1993年2月11日、同大学で)

恩師・戸田城聖先生の生誕93周年となる1993年2月11日、ブラジルのリオデジャネイロ連邦大学から、池田大作先生に「名誉博士号」が授与された。
これが、ブラジルの大学・学術機関からの第1号となる名誉学術称号である。
授与式の席上、池田先生は「本日の栄誉を、この大切なブラジルの友と分かち合わせていただきたい」と述べ、「わが恩師に捧げたい」と戸田先生への尽きせぬ感謝を語った。
この日、連載開始から28星霜を重ねて、恩師の生涯をつづった小説『人間革命』全12巻が完結。その最後に、先生は「わが恩師 戸田城聖先生に捧ぐ 弟子 池田大作」と記した。
リオ連邦大学からの栄誉とともに、『人間革命』の完結は、池田先生が戸田先生に捧げるもう一つの“栄冠”であった。

クリチバ市の「牧口常三郎公園」

イタペビ市の「戸田城聖先生橋」

ロンドリーナ市の「池田大作博士環境公園」

これまで、ブラジルの大学・学術機関から、池田先生に授与された「知性の宝冠」は29に上る。昨年の11月17日には、ピアウイ連邦大学から「名誉博士号」が贈られている。
また、クリチバ市の「牧口常三郎公園」、イタペビ市の「戸田城聖先生橋」、ロンドリーナ市の「池田大作博士環境公園」など、創価の三代会長の名を冠した公園・橋・通りなどはブラジル国内で40を超える。
ブラジルSGI(創価学会インタナショナル)の平和・文化・教育・環境への貢献に対して、各界から寄せられる信頼と共感。この栄光の時代が開かれたのは、師の励ましと、師の心をわが心とする幾多の友の激闘があったからである。
1974年3月、池田先生はブラジルを訪問する予定だった。しかし、ビザが発給されず、入国できなかった。当時、ブラジルは軍事政権下で、学会に対する誤解が渦巻いていた。
先生は当初の予定を変更し、パナマへ。諸行事を終えた後、ペルーを訪問。そこに、2人のブラジルの婦人部員が駆け付けた。シルビア・サイトウさん(故人)とエレーナ・タグチさんである。
先生は2人に「時代を変えていくんだよ。婦人部の祈りだよ」と励ましを。師の言葉にシルビアさん、エレーナさんは固く誓った。
「ブラジルの国土を変革するような題目をあげ抜こう!」
「“ムイト・マイス・ダイモク(もっと題目を)”が合言葉だ!」
宿命の嵐が強ければ強いほど、広布を阻む障魔が激しければ激しいほど、「ムイト・マイス・ダイモク」。一切を変毒為薬する強盛な祈りから、ブラジルの友は戦いを開始した。

「私は、永遠に皆さんのことを忘れない。ともに戦った同志を断じて忘れない」。来日したブラジル婦人部の代表をたたえ、万感の励ましを送る池田先生ご夫妻(2004年8月、長野研修道場で)

シルビア・サイトウさんは京都出身。小学4年生の頃から、ぜんそくの発作に苦しんだ。“娘の病が治るなら”と母が入会し、シルビアさんも続く。1955年のことである。
入会後、ぜんそくの症状が快方に向かう。その喜びを語り、入会6年で50世帯を超す弘教を実らせた。
56年(昭和31年)の「大阪の戦い」にも、シルビアさんは勇んで駆けた。旧関西本部での池田先生の早朝の御書講義に、京都から通い続けた。激闘の中で、シルビアさんは先生から、開目抄の一節を教わる。
「つたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」(御書234ページ)
先生は「この御文だけは、生涯、忘れてはいけないよ」と。
翌57年7月、池田先生が無実の罪で大阪拘置所に勾留された時には、同志と共に連日、差し入れを届けた。「常勝・不敗の原点」は、シルビアさんの信心の土台となった。
結婚後、東京・目黒で広布拡大に挑み、65年にブラジルへ。軍事政権下のブラジルでは、創価学会に対する意図的な中傷が繰り返された。その苦難を耐え抜く根幹に、シルビアさんは先の開目抄の一節を据え、青年・未来部のメンバーにも、御文の意味を語り続けた。
いかなる大難が競い起ころうとも、師との約束は絶対に果たす――常勝関西の地で、池田先生から学んだ「師弟」という仏法の魂を、シルビアさんはブラジルの大地に根付かせていった。

エレーナ・タグチさんが渡伯したのは71年末のこと。その年の2月、夫のエドワルドさんがブラジルに単身赴任していた。
東京・荒川で育ったエドワルドさん。ブラジル広布に燃え、開拓に挑んだが、言葉や生活習慣の違いに苦しめられた。さらに風土病を患い、9月に療養のため一時帰国する。
込み上げる悔しさとふがいなさ。その思いを御本尊にぶつけ、今度は家族でブラジルに渡り、同志に尽くす覚悟を定めた。
夫の決意に、エレーナさんも心を合わせた。ブラジルに出発する12月、池田先生はタグチさん一家に「何があっても10年頑張れ」とエールを送った。
84年2月、先生は18年ぶりにブラジルを訪問。その折、エレーナさんは、シルビアさんの後を受け、第2代のブラジル婦人部長の任命を受けた。
「清く、明るく、仲良く」との師の指針を胸に奮闘。全地区幹部に激励の手紙を書いた。2000キロ離れた友のもとを訪れ、師弟共戦を誓い合った。婦人部長を務めた10年で、10倍のブラジル婦人部の陣列を築いた。
エドワルドさんは93年10月、ブラジルSGIの理事長に。3年後の96年3月には、世界で初めて初代会長の名を冠した「牧口常三郎先生通り」が、イタペビ市に開通した。

ブラジル・イタペビ市から池田先生ご夫妻への「名誉市民」称号の授与式。市議会議長は「地球の反対側に、池田会長ご夫妻をはじめ、創価学会の皆さまのご健康とご活躍を祈っている市があることを、どうか忘れないでください!」と(2001年7月22日、東京牧口記念会館で)

2001年7月22日、イタペビ市から池田先生ご夫妻に「名誉市民」称号が授与された。
市長は「これは、わが市の立法府と行政府の総意であり、市民の総意です。誉れある『名誉市民』として、池田会長ご夫妻をお迎えいたします!」と高らかに宣言した。
この日、先生は一編の長編詩を詠んだ。タイトルは「世界の王者たれ! ブラジル」である。

今日は
昨日より進んだ日であれ!
明日もまた
今日より進む歩みであれ!

一番苦しんでいる人の
味方になって戦う
勇敢なる人間主義者であれ!

行動だ!
「今」という
現在に生ききることだ。
現在のこの瞬間にこそ
永遠が脈動しているからだ。

足跡を残すことだ!
自分自身の常勝の歴史を
刻みゆくことだ!
今の刻苦は
即 未来の栄光なり。
君が歩んだ分だけ
新世紀の道が拓かれるのだ。

さらに、先生は長編詩で、「さあ/二〇一〇年の/ブラジル広布五十周年へ/共々に/比類なき団結で/朗らかに勝ち進もう!」と呼び掛けた。
その2010年、師の期待に応えようと、ブラジルSGIは大きな目標を掲げた。「7割以上の世帯が座談会に参加する」など、4項目を達成するブロックを「王者ブロック」とし、それぞれのブロックが「王者ブロック」を目指して、戦いを開始したのである。
ある婦人が担当したブロックでは、訪問・激励を重ね、あと一人が座談会に参加すれば「王者ブロック」に。その一人の家は、アマゾン川の支流を船で7時間さかのぼり、そこから歩いて数時間かかる場所にあった。
婦人の家庭は、夫の仕事が行き詰まり、経済的な苦境にあった。その中で生活費を工面し、船賃を支出。船に自転車を乗せて、友のもとへ向かった。彼女の広布への熱い思いに触れ、メンバーは座談会に参加し、機関紙も購読。婦人の戦いに呼応するように、夫の仕事も好転した。
「王者ブロック」への挑戦は、こうした功徳の体験を次々と生んだ。学会活動の目標を達成する歓喜の連鎖を広げた。
池田先生は若き日、「二月闘争」で「組(現在のブロック)」に焦点を当て、「一人」を大切にした。ブラジルの友も、全てのリーダーがブロックに入り、友の励ましに徹した。
同年11月に行われた「世界の王者ブラジル総会」。全ブロックが目標を完遂し、「王者ブロック」となった。

広布拡大の目標を達成し、友の歓喜が爆発した「世界の王者ブラジル総会」(2010年11月、マナウス市内で)

「信心の王者」とは――
自らが立てた師匠との約束を忘れず、必ず果たす人。
試練の烈風が猛るほど、「もっと題目を」唱え、力強く前へ前へと進む人。
ブラジルSGIの歩みは、そのことを私たちに教えてくれている。
【引用・参考文献】池田大作著『新・人間革命』第11巻、『池田大作全集』第47巻、『民衆こそ王者――池田大作とその時代』第7巻(潮出版社)、渡辺雅子著『ブラジル日系新宗教の展開』(現代社会学叢書)
【アナザーストーリー】
1964年に始まったブラジルの軍事政権は、創価学会の動向に関して、警戒を強めた。
偏見や誤解の目が向けられる中で、ブラジルの友は良き市民として社会に貢献し、地域に信頼の輪を広げていった。
ブラジルで生まれたカルロス・ウノさん(故人)は、65年5月に創刊された、ブラジルの機関紙の編集に携わった。
同年8月、夏季講習会に参加するため来日。しかし、日本語が分からず、御書の拝読もできなかった。
悔しさに身を震わせていたカルロスさんに、池田先生は声を掛けた。率直な思いを伝えると、先生は力強く語った。
「負けてはいけない! 君はブラジル広布の開拓者じゃないか」。そして、「立派に成長してください。待っているよ」と。
わずか数分の出会いだった。だが、この魂の触発は、カルロスさんを飛躍させる原点となった。
帰国後、カルロスさんは日本語の勉強に全力を注いだ。御書を何度も拝読し、日本語の学会の出版物を読み込んだ。
短期間で日本語の力を磨き、66年3月の池田先生のブラジル訪問では通訳を務めた。
この時、先生の行動を監視する政治警察の姿がいたるところにあった。思わず感情的になるカルロスさんに、先生は語った。
「今は、耐えることが大事だよ。10年後、20年後に勝てばいいじゃないか」
74年3月、入国ビザが発給されず、先生はブラジル訪問を断念。多くの友と同様、カルロスさんも悔しさを広布前進の力に変え、ブラジルを奔走した。
耐えに耐えた10年後の84年2月、先生の訪伯が実現。ブラジルの友の激闘は今、創価の三代会長への数々の顕彰となって、栄光の輝きを放っている。