第3回 写真――友に希望の光を
2020年12月20日

月天子よ、広布に走る同志を守れ!


広島城にカメラを向ける池田先生(1991年3月10日)

5層の天守がそびえる広島城(1991年3月10日、池田先生撮影)

フランスは「写真発祥の地」といわれる。そのフランスの「ヴァル・ド・ビエーブル写真クラブ」から1998年、池田先生に「名誉写真芸術会員」の証書が届けられた。
同クラブの創立者は、ジャン・ファージュ氏と子息のアンドレ・ファージュ氏。2人はフランスで最初の写真博物館も創立したことで知られる。
90年5月、先生の作品を紹介する「自然との対話」写真展が同博物館で開かれた。アンドレ・ファージュ氏は、先生の写真について述べている。
「ただただ、非常に美しく、多くを語る必要はありません。それは、撮られた写真だけが美しいのではなく、SGI会長の生命、存在、人間性そのものが美しいのです」

九州・宮崎の薄暮(はくぼ)の空に、月天子が輝く(1999年3月、池田先生撮影)

「自然との対話」写真展の出発点となったのは、1971年6月9日。この日、先生は北海道の大沼研修所(現・函館研修道場)にいた。
翌10日は研修所の開所式。その準備に当たっていた先生は、午後8時過ぎ、周囲の視察のため車に乗った。漆黒の夜空だったが、山の向こうだけが明るい。
「あの光は何だろう」。先生の問い掛けに、同行の友は「函館の街の明かりでしょう」。
車は光の方へ進んだ。しばらくすると、雲の切れ間から、月天子が姿を現した。暗闇の中の輝きは、人工の光ではなく、満月であった。湖の水面には月光が金波、銀波となってきらめき、揺れていた。
先生は車に置いてあったカメラに手を伸ばした。湖畔を移動しながらシャッターを切り、フィルム数本分を撮影した。
それから10日後、先生は東京の男子部との記念撮影会に臨んだ。この折、代表のメンバーに、北海道で収めた月の写真を贈り語った。
――日夜、戦っている学会員の皆さま方が、この月の光に照らされて、英知輝く人になってほしい。月天子よ、わが友を見守ってくれ! こういう願いを込めて撮影したのです。

北海道の夜空に光る満月を、池田先生がカメラに収めた(1971年6月)

写真は一瞬の真剣勝負 人生も「今を勝つ戦い」
「自然との対話」写真展は、これまで世界41カ国・地域の151都市で行われてきた。初の海外での開催は1988年5月、フランスのジャックマール・アンドレ美術館である。
同美術館で写真展を開くことを提案したのは、館長のルネ・ユイグ氏。30歳でルーブル美術館の絵画部長に就任し、第2次世界大戦の時には、ナチスから「モナ・リザ」をはじめ、ルーブルの至宝を守り抜いた。アカデミー・フランセーズの会員であり、フランス学術界の頂点に立つ教育機関「コレージュ・ド・フランス」の教授も務めた。
欧州を代表する知の巨人が、池田先生の写真を「眼で詠まれた詩」と高く評価した。氏は写真の選定から額装に至るまで、自分で行った。
開会の前夜も、照明の角度や写真の配列など、細かく指示を出した。その姿には、先生の写真の芸術性を最大限に引き出そうとする情熱があふれていた。
開会式には、フランス写真博物館のファージュ館長の姿もあった。美術館での開催が、同博物館で先生の写真展が開かれるきっかけとなった。その事実は一つの文化交流が、心響き合う友情を育むことを示している。

池田先生とフランスの美術史家ルネ・ユイグ氏が手を取り合って、再会を喜ぶ(1987年5月、フランスのビエーブル市内で)。氏は訴えた。「人間革命の夜明けへ、一人の『ヨーロッパの義勇兵』として戦います!」

1997年6月、台湾・台北で「自然との対話」写真展が開かれた。会場の国父記念館は、台湾随一の美の殿堂でもある。
6日間で3万人を超す市民が鑑賞。大きな反響を広げたが、アンケートの中に、こんな声があった。「心洗われる写真ばかりでしたが、台湾を写した作品がなくて残念でした」
池田先生が台湾の地を踏んだのは、1963年1月の1回のみ。しかも、飛行機の給油というわずかな時間である。ところが、鑑賞者の声を知った先生から伝言が届いた。
「私は台湾の写真を撮ったよ。台湾の皆さんの幸せを願って、シャッターを切ったよ」
写真展のスタッフは、思いもよらない伝言に驚いた。急いで、先生が過去に撮影した写真を調べ直した。すると、機中から撮影した、場所が判明しない数枚の写真が出てきた。電送され、台湾のメンバーが確認した。
写真は、瑠璃色に輝く台湾の山河を映し出していた。95年11月17日、香港から日本への帰路に撮影したものである。
台北での開催から2カ月後、台湾を代表する港湾都市・高雄で写真展が行われた。
入り口の一番近くに、機中の写真が飾られた。「台湾上空」とのタイトルが付けられた、その作品には、多くの人だかりができた。大粒の涙を流す台湾広布の草創の友もいた。
2009年、台湾SGIの本部・至善文化会館が開館。先生は「台湾上空」の写真とともに、「偉大なる われらの台湾 光あれ 広布と功徳に 一生包まれ」との和歌を贈った。
「皆さんの幸せを願って」先生が撮影した写真は今、同会館で、来館する友に希望の光を送り続けている。

「美麗島(びれいとう)」とたたえられる台湾の繁栄と友の幸福を祈りつつ、池田先生が上空から撮影(1995年11月、香港から日本へ向かう機中から)

71年の北海道訪問から、池田先生が本格的に写真を撮り始めたことを喜んだ写真家がいる。日本写真家協会の会長を務めた三木淳氏である。
学会員との交流の中で、氏は創価学会に関心を持つようになる。しばらくして、聖教新聞社から写真技術の指導を依頼され、先生との交流が始まった。
氏は先生の姿を追った。「民衆の指導者は“かくあれ”という姿を、映像で後世に残したい」との思いからである。海外で信心に励むメンバーの日常もカメラに収めた。68年、『写真 創価学会』を出版する。
氏は写真集に「私の見た創価学会」と題する一文を寄せた。その中で、67年8月20日、北海道・旭川市で行われた記念撮影会に言及している。
「場内二か所に記念撮影のためのスタンドが設けられ、一つのスタンドに三五〇人ほどの人々が登る。池田さんは、その一つのグループの前で対話をする」
「こうした記念撮影を一日に二〇組やり、その一つ一つに親切な指導を行っていく。たいへんな重労働である」
撮影会終了後、札幌への帰途、先生は砂川市にある「滝川公園」へ。園内を散策し、公園を後にしようとした時、一人の婦人が駆け寄ってきた。
夫は信心していたが、婦人は未入会だった。先生は婦人が抱いていた幼い次女の名前を尋ね、親子に温かな励ましを。感激した婦人は、4カ月後に入会。今、長女は婦人部本部長、次女は支部婦人部長として、北海道広布の最前線で幸福の連帯を広げている。
先生の行動を見ていた三木氏は、気に掛かることがあった。“なぜ、わざわざ滝川公園に行ったのか”。後日、その疑問をぶつけると、先生は答えた。
――以前、北海道で大変な広布の戦いがあった。旭川から札幌へ向かう途中、ある友が大変に疲れていた。その時、休息したのが、あの公園だった。
この言葉を聞き、氏はこう述べている。
「多忙の真っ只中にあっても、池田さんはそうした想い出をたいせつにする人である。このような思い遣りの一つ一つの集積が、(1960年の第3代会長就任から)わずか八年のうちに学会員一四◯万世帯を六五〇万世帯に伸ばした一つの理由ともいえよう」

カメラを構える三木淳氏

73年3月21日、北九州市での第1回「九州青年部総会」。参加した九州鼓笛隊のメンバー全員のもとに、先生が撮影した美しい月の写真が届いた。
先生は折に触れ、自らが撮影した写真を、広布に献身する友に贈る。一枚の写真が、闇夜を照らす月光のように、座談会へ、友のもとへと向かう同志の心に希望をともし、人生勝利のドラマを生む原動力になった。
先生は記している。
「写真が一瞬の真剣勝負であるように、人生も『今を勝つ戦い』である。『今日を勝つ戦い』である」

【編集余話】
1975年5月3日、池田先生の第3代会長就任15周年を祝す式典前のこと。先生は創価大学のロータリーで車から降りると、三木淳氏の姿を見つけた。
「三木先生、よく頑張られましたね。いつも健康を祈っています。お互い、もう少し長生きしましょう!」
氏は目頭を熱くしながら、声を振り絞った。
「おかげさまで、ここまで元気になりました。ありがとうございます……」

73年、氏は脳腫瘍の手術を受けた。カメラマンとして第一線に立つため、懸命にリハビリに励んだ。再起を支えたのが、「幸せになるために、人の3倍働こう」との先生の言葉である。
その言葉を耳にしたのは、67年8月20日、北海道・旭川での記念撮影会。北海道の友への先生の渾身の励ましは、6年後、闘病中の氏を奮い立たせたのである。

先生が撮影した写真について、氏はこう述べている。
「われわれ写真家は技術的に高度のものをもっているかも知れないが、表現の精神が果して充分であるかどうか名誉会長の作品から大いに反省させられる」
「数多くの作品を拝見して私が痛感したのはこれは指導者の写真作品であるということだ」