30年後には、ベルリンの壁は取り払われているだろう
雨のベルリンを、池田先生を乗せた車が走っていた。1961年(昭和36年)10月8日、欧州初訪問の折のことである。
その2カ月前から、街を分断する「壁」が作られ始めていた。「冷戦」の渦中である。ベルリンは東西両陣営の思惑がぶつかり合う象徴だった。
先生が訪問する3日前には、亡命を決行した4人が銃撃され、命を落とした。いつ、どこから銃弾が飛んでくるか分からない――そんな危険な状況の中でのベルリン訪問だった。
ブランデンブルク門の近くに到着すると、先生は車から降りた。周囲にはイギリス軍の装甲車が走り、西ドイツの警察官が目を光らせていた。
先生は再び乗車し、「ベルリンの壁」に沿って移動した。弾痕が残る街角の柱、東ベルリンの方に向かって手を振る人の姿……。運転手も、東ベルリンに住む叔母と突然、会えなくなっていた。
「俺たちが望んだことじゃない」。そうこぼすと、運転手は肩を落とした。目に浮かんだ涙が、自由を奪われ、家族や同胞が引き裂かれる悲惨を物語っていた。

ベルリンを視察する池田先生(1961年10月8日)。
ドイツの草創の友は、先生の「先駆者はつらい。だが功徳は大きい」「世界広布のために、ベルリンの壁も30年後にはなくしていこう」という言葉を励みに仏法を広めていった
先生はもう一度、ブランデンブルク門の近くに立った。いつしか雨はやみ、空は美しい夕焼けに染まっていた。
先生一行が空を眺めていると、運転手は笑顔で語った。
――私たちは、こんな時には「空から天使が降りてきた」って言うんですよ。
夕焼けには、「西」も「東」もなかった。門を仰ぎながら、先生は同行の友に強い口調で訴えた。
「30年後には、きっと、このベルリンの壁は取り払われているだろう」
その言葉は、単なる未来予測などではなかった。必ずそうしてみせる、との決意の表明である。
先生は門の方に向かって、深い祈りをささげた。ベルリンの夕焼けに、先生の唱題の声が響いた。
私の心には「西」も「東」もない
池田先生のベルリン訪問から1年余が経過した1963年1月、ドイツに初の支部が結成された。結成大会の1月12日、先生はアメリカから伝言を贈った。
「支部名はドイツ支部にしたい。私の心には西ドイツも、東ドイツもありません。あのベルリンの壁をなくして、平和を建設していくことが皆さんの使命です」
ベルリンで仏法の実践が広がり始めたのは、70年代に入ってから。当時の座談会会場の一つが、ミルトン・アイロンスさんが経営するダンススタジオである。
アメリカ出身のミルトンさんは、先輩から「ベルリンの折伏の王になろう」と励ましを受け、対話に駆けるようになる。
ミルトンさんの紹介で入会した一人が、アンドレアス・ドイマーさん。祖父は、ブランデンブルク門から車で10分ほどの場所にある菓子工場を経営していた。
第2次世界大戦でドイツが降伏した後、ベルリンが東西に分割されると、工場の土地は東ベルリン側に入った。直後、祖父がチェコの収容所へ連行された。
祖父は解放された1週間後に急死。祖母は子どもたちを連れて、「壁」が建設される前の西ベルリンへ移り住んだ。
「壁」に囲まれた生活は、アンドレアスさんの心に暗い影を落とした。大学進学後も、気持ちは晴れなかった。そんな時、ミルトンさんに誘われ、座談会に参加。仏法の「桜梅桃李」「煩悩即菩提」などの法理に心から感銘し、信心を始めた。
家族も自分も、東西の分断で地獄を味わわされた。だからこそ、悲劇の街を、平和の楽土にしたい――人一倍強い思いで、アンドレアスさんは、ドイツ広布に走った。

朝日を浴びるブランデンブルク門
カントやヘーゲル、ショーペンハウアーなど、ドイツは世界に名だたる哲学者を多く輩出している「哲学の国」である。
マティアス・グレーニンガーさんは、ベルリンの座談会で聞いた話が忘れられない。
――目の前に二つのドアがあるとしよう。一つ目のドアには「幸福」、二つ目のドアには「どうしたら幸福になれるのか」と書いてある。ドイツ人の多くは、二つ目を選ぶ。でも、幸福になる理論を知っていても、幸福になれるわけではない。
マティアスさんにとって、ベルリンは「大きな刑務所」のようだった。そこから逃れるように、フランスの大学へ留学。その時、仏法に巡り合った。
御本尊を受持してから3年後、マティアスさんに宿業の嵐が襲い掛かってきた。原因不明の神経衰弱で入院したのである。
医師から「一生、入退院を繰り返すだろう」と宣告された。だが、懸命に祈り続け、2カ月ほどで病を克服。信心の力を実感した。
84年、ベルリン支部の支部長の任命を受ける。翌年には弁護士資格を取得。ベルリンを東西融合の“平和の象徴”にする使命に燃え、友の激励に奔走した。
冷戦時代、先生は東ドイツの要人との会見に臨み、ソ連(当時)を訪問するなど、「東側」とも語らいを重ねた。それは、ドイツのメンバーの大きな希望となった。
――師は「壁」の向こう側で、「壁」を破る戦いをしている。
――私たちは、ドイツの中から「壁」を破る戦いをしよう。
先生の平和行動に呼応して、友は目の前の一人と心の絆を結び、人間主義の連帯を築いていった。
ドイツ広布の流れが水かさを増す中、想像しなかったことが起こる。89年11月9日、東ドイツが即日、自由出国を認めると発表した。翌日から出国ビザの申請を認めるという内容を、広報担当者が間違えたのである。
市民が西ベルリンになだれ込んだ。さらに、「ベルリンの壁」が打ち壊されていった。28年もの間、人間と人間を切り裂いていた「壁」は、瞬く間になくなった。

「ベルリンの壁」に集まる東西のベルリン市民。後ろに見えるのがブランデンブルク門(1989年11月)
©Pool CHUTE DU MUR BERLIN/Getty Images
82年、先生のもとに、西ベルリンのヴァイツゼッカー市長から、招へいの手紙が届いた。
市長は、「壁」を「人間性を拒否する政治が石となった」ものと見ていた。「壁」の崩壊は、「人間性の勝利」にほかならなかった。先生もまた、その要因を「権力の魔性に対する人間性の勝利」と洞察した。
二人の会見が実現したのは、91年6月12日。東西のドイツが統一されて、8カ月後のことである。市長は、統一ドイツの初代大統領に就任していた。
先生は会見の焦点を決めていた。「次は『心の壁』を、どう壊すか」である。戦後45年の間、東西に分断されてきた人々が、果たして融和できるのか。ドイツの歩みは、「冷戦後の世界」を占う試金石でもあった。
当時、資本主義の西は優れ、社会主義の東は劣っているといわれた。先生は「むしろ、私がお聞きしたいのは、東のほうが西よりも優れている点は何かということです」と尋ねた。
大統領は即答した。
「大切なのは、互いに尊敬し合って、見つめ合うことです。相手を見下すことは許されません」
さらに、旧東ドイツの人々は、専制的な政治体制であったために、民衆の連帯の力が強いことを指摘し、「そうした連帯は西が必要としているものです」と語った。大統領の言葉に、先生は大きくうなずいた。

ドイツのヴァイツゼッカー大統領と会見(1991年6月12日、ボン市内で)

池田先生ご夫妻が見守る中、ヴァイツゼッカー大統領との会見を報じる聖教紙面に喜ぶドイツの友(同年6月13日)
「ベルリンの壁」の崩壊から3年が過ぎた92年、旧東ドイツの地域で、初めての広布の集いが開催された。
社会主義の現実を目の当たりにしてきた旧東ドイツの人々は、“組織”に対する強烈な不信感があった。既存の社会に失望し、言葉ではなく事実をもって、幸福になる道を求めていた。メンバーは、自身の振る舞いを通して、仏法の哲理を広げていった。
2001年5月3日、旧東ドイツで初の支部となる「チュザンザ支部」が結成された。そして18年、同支部は「チュザンザ本部」へと発展。日本の九州と四国を合わせた面積と、ほぼ同じという広大な地域で、友は喜々として信心に励んでいる。
「次は『心の壁』を、どう壊すか」――ドイツと欧州のメンバーの挑戦は、人類史に燦然と輝く、崇高な歴史となるに違いない。

ドイツ・ライプチヒ旧証券取引所の前でチュザンザ本部の友が記念撮影(2018年11月)
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