第29回 渉外戦と人間外交〈上〉
23年10月04日
〈出席者〉 谷川主任副会長、梁島男子部長、林池田華陽会委員長、森薗学生部長、先﨑女子学生部長

全国青年部幹部会の意義を込めて開催された本部幹部会で、勇気を送る池田先生(2010年2月、東京・創価国際友好会館〈当時〉で)。席上、先生は埼玉での若き日の外交戦に言及。「私は、わが師に対する侮辱を、絶対に許さなかった」と。さらに、「伸びゆく後継の友の姿こそ、私の誇りであり、喜びである。本当の勝負は、これからだ。これからが、一番大事である」と強調した

“逆風”を飛躍の“追い風”に!
◆森薗 このたび学生部長の大任を拝しました。先駆の使命を果たすべく、全力で戦ってまいります。
今回は「渉外戦と人間外交」をテーマに、谷川主任副会長にお話を伺います。池田先生は1954年(昭和29年)12月、初代の渉外部長に就任されました。同年3月には、青年部の室長にも任命されています。

◇谷川 54年といえば、戸田先生の生涯の願業である75万世帯の達成に向け、学会が破竹の勢いで前進していた年です。それに伴って、新たな民衆勢力の台頭を阻もうとする動きが顕在化してきたのも、この頃です。
同年12月20日の日記に、先生は渉外部長に就任された率直な思いを記しています。
「嬉しくもなし、楽しくもなし。実際は毎日実践していることなれば」
振り返れば、50年(同25年)8月、戸田先生が経営する信用組合は戦後の経済不況によって、破綻が決定的となります。その噂を聞きつけた記者がスクープにしようと近づいてきます。この時、恩師に代わって、対応したのが池田先生でした。渉外部長に就任される前から、先生は難局に対応してこられました。
また、先生が渉外部長に任命される前月の54年11月、NHKが戸田先生に、宗教学者との鼎談を申し込んできました。その要請に応じた恩師は、2人の宗教学者と鼎談します。
その内容は、NHKのラジオ番組で放送されました。戸田先生は、社会に広く創価学会の実像を伝える必要性を感じ、渉外部を設置されたのです。
池田先生が渉外部長に就任されて間もない55年(同30年)2月、全国紙が埼玉版に学会の批判記事を掲載しました。先生はその新聞の本社を訪れ、厳重に抗議します。
記事の内容は「いつ」「どこで」「だれが」といった具体的な記載がなく、会員数や戸田先生の氏名など、基本的な情報すら間違っているという、極めてずさんなものでした。
池田先生は、新聞本社に続いて浦和支局にも足を運びます。支局長と面会した先生は、理路整然と真実を訴え、支局長は非を認めます。その後、再び浦和支局を訪ね、訂正記事とともに、学会側の反論が掲載されることになります。
「外交のできない人間は、本物の指導者になれない」との戸田先生の言葉を通して、池田先生は私たちに繰り返し、外交の大切さを強調されました。
学会に無理解な人、批判的な人をいかに味方にしていくか。仏法用語を分かりやすく、かみ砕いて、説明できるか。言論の力で学会理解を広げることこそ、広宣流布の戦いではないでしょうか。

◆先﨑 池田先生が第3代会長に就任後、学会を襲った初めての大試練が、69年(同44年)11月末ごろから起こった「言論・出版問題」でした。

◇谷川 事の発端は、学会批判書を書いた著者に、学会の幹部が事実に基づく執筆を要望したことでした。批判書の著者は、そのことを言論弾圧として騒ぎ立て、政党や宗教勢力も、こぞって学会攻撃に加わりました。
この時も、先生が一切の矢面に立ち、学会を守ってくださいました。
「言論・出版問題」の直後から、先生が力を注がれたことの一つが、執筆活動です。
70年(同45年)に『私の人生観』、翌71年(同46年)には『私の人生随想』を刊行。その後、『私の釈尊観』などの教学著作を次々と著され、学問的研究の成果を踏まえ、創価学会に脈打つ仏法の英知を社会に発信していきます。
御書には「人の地によって倒れたる者の、返って地をおさえて起つがごとし」(新697・全552)と仰せです。
先生は、「言論・出版問題」を新たな言論闘争を開始する起点とされ、かつてない“逆風”を、広布を飛躍させる“追い風”に転じていかれたのです。

NHKのラジオ番組に臨む戸田先生(1954年11月、東京・信濃町の学会本部で)。若き池田先生も同席した

「一言われたら十言い返す」

◆林 谷川主任副会長の青年部時代、週刊誌による学会のデマ報道が過熱しました。

◇谷川 私が青年部長に就いた1993年(平成5年)は、細川連立政権が誕生し、自民党が政権の座から下野した年です。
危機感を抱いた自民党を支援する宗教団体、さらには学会に批判的な文化人らによって、翌94年(同6年)5月、「四月会」が結成されます。設立総会には、当時の自民党、社会党、新党さきがけの3党首も顔をそろえ、学会を激しく批判します。
同年6月、その3党による連立政権が誕生します。しかし、自民党と社会党は安全保障や福祉など、重要政策に関して正反対の姿勢。支持率は低迷します。その打開のため、与党の一部議員が利用したのが、週刊誌の学会に対する悪質なデマ報道でした。
交通事故の被害者を“殺人犯”扱いした「北海道の冤罪報道事件」(94年8月)、女性市議の転落死を「他殺」と騒いだ「東村山デマ事件」(95年9月)、金銭問題を起こし、学会の役職を解任されて脱会した夫婦が起こした「狂言訴訟事件」(96年2月)などです。
当時、こうした一部マスコミのデマ報道が出るたび、青年部は抗議に向かいました。週刊誌側とのやりとりは、丁々発止と渡り合うこともありました。
これらのデマ事件は全て、裁判によって事実無根であることが明らかとなり、学会の勝利で決着しています。
また、時の首相が謝罪の意を伝えてくるなど、学会の正義が満天下に示されました。
先生は、「黙っていては、悪が助長するだけです。一言われたら、十言い返す」「その断固たる言論戦の中にしか、正義の勝利はない」と断言されています。
渉外で「誠実」が大切なことは言うまでもありません。その上で、真実が歪められようとしている時は、一歩も退いてはならない。毅然と対応することです。燃え立つ正義の心こそ、青年部の魂です。

◆梁島 過去に裁判で断罪されたデマが、今年6月に蒸し返されました。“学会が会員に指示をして組織的に住民票を不正に移動させ、投票をさせている”という事実無根の内容です。学会本部はただちに、記事を掲載した週刊誌を名誉毀損で訴えました。

◇谷川 「住民票移動」云々の話は、これまで何度も出てきていますが、全くのでたらめです。デマを流した人物やマスコミは、「いつ」「誰が」「どこからどこへ」移動したのかという証拠を示すことができず、謝罪、撤回、訂正をしています。
古くは55年前の68年(昭和43年)、当時の大臣がこのデマを吹聴し、後に「根拠は何もない。恐縮している。今後、根拠のない発言は慎む」と謝罪しました。
93年には、全国紙の地方版が同様のデマを掲載。ところが、学会が抗議すると、翌日付で「うわさのような事実はありませんでした。十分な裏付け取材をせず、掲載したことで、関係者並びに読者にご迷惑をおかけしました。おわびします」と訂正記事を載せています。
2005年(平成17年)には、旧民主党所属の代議士が同様のデマ発言を重ね、後に名誉毀損罪で罰金刑を科せられました。
これらの事実は、学会に対する意図的な誹謗・中傷が繰り返されることを示しています。
創価学会は広宣流布を進める団体です。その途上には、御書に「必ず三障四魔と申す障りいできたれば、賢者はよろこび愚者は退く」(新1488・全1091)と仰せの通り、必ず障魔の嵐が競い起こります。
噓やデマに対して、黙ってはいけない。“事実は明らかになっているから”という油断は禁物です。そこから、噓・デマは拡散していきます。戦う心を燃え上がらせ、正義を語って、語り抜くことです。

1970年5月3日、「言論・出版問題」の渦中に開催された本部総会(小説『新・人間革命』第14巻「大河」の章から、内田健一郎画)