第25回 法難と大阪事件〈下〉 23年07月07日 |
〈出席者〉池田主任副会長、梁島男子部長、林池田華陽会委員長、田島学生部長、先﨑女子学生部長 君よ、勇敢な師子であれ! ![]() 1993年2月9日、池田先生はブラジル・リオデジャネイロの空港に到着。ブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁が歓迎した。「きょうは、わが恩師に、再び、お会いするような気持ちでまいりました」と先生が挨拶すれば、総裁は「会いたい人に、やっと会えました!」と応えた。2人の語らいは、対談集『21世紀の人権を語る』として結実する ◆先﨑 1957年(昭和32年)10月18日から、「大阪事件」の裁判が始まります。裁判は4年半に及びました。公判は84回を数え、池田先生は23回、法廷に立たれています。 ◇池田 先生の、法廷闘争を勝ち抜く力となったのは、戸田先生の激励です。 裁判が始まる3カ月前の7月17日、「大阪大会」が行われます。この日、出獄した池田先生は、来阪する戸田先生を迎えるため、伊丹空港に向かいます。 戸田先生は空港で、池田先生にこう語ります。 「戦いは、これからだよ。御本尊様は、すべてわかっていらっしゃる。勝負は裁判だ。裁判長は、必ずわかるはずだ。裁判長に真実をわかってもらえれば、それでいいじゃないか」 池田先生は裁判の最終陳述の時、恩師のこの言葉を引用し、公正な審判を求めました。 また、58年(同33年)3月5日、裁判のため、静岡から大阪へ向かう池田先生を、戸田先生は励まします。 「裁判は、容易ならざる戦いになるだろう。いつまでも君を悩ませることになるかもしれぬ。しかし、最後は勝つ。金は金だ。いくら泥にまみれさせようとも、その輝きは失せるものか。真実は必ず明らかになる。悠々と、堂々と、男らしく戦うんだ」 第3代会長に就任した60年(同35年)の年末、弁護団の強化を訴える友に、池田先生は「弁護士陣はそのままでよいと思う」と述べ、自身の思いを語ります。 「戸田先生は私に、『最後は勝つ。金は金だ。いくら泥にまみれさせようとも、その輝きは失せるものか』と言われた。先生のその言葉が、私に無限の勇気と確信を与えてくれるんだよ。先生の言葉には噓はないもの」 これらの事実が示すように、「大阪事件」の歴史を貫くものは、「師弟」です。 ![]() 1962年1月25日に開かれた大阪事件の判決公判。ついに正義が証明された 人権闘争の誓いがSGI運動の源泉 ◆田島 小説『人間革命』第11巻「裁判」の章で、62年(同37年)1月25日、山本伸一は無罪判決を勝ち取った後、戸田先生を思い、「先生!……」と心で叫びます。 ◇池田 伸一は裁判所から関西本部への移動の車中、57年6月初旬の夜に戸田先生が、「広宣流布の道程は、権力の魔性との熾烈な攻防戦とならざるを得ない」と語っていたことを思い返します。 その時の師弟の語らいは、「大阪」の章に記されています。 戸田先生は、「生涯にわたる権力との闘争への決起を促すかのような、入魂の指導」をされます。指導の中で、「三沢抄」の「第六天の魔王・此の事を見て驚きて云く」(全1487・新2011)から「国主の身心に入りかわりて・をどして見むに・いかでか・とどめざるべきとせんぎし候なり」(全1488・新2011)を拝し、広宣流布の途上には難が必定であること、そして法華経の行者への迫害の構図を語ります。 伸一は恩師の指導を胸に刻みながら、自分の身にも法難は避けがたいことを予感し、固く誓います。「(戸田)先生の弟子として、広宣流布に生き抜く限り、いつか、一身に迫害を受ける日が来るにちがいない。その時こそ、悠然として難に赴く勇敢な師子でありたい」 「大阪事件」の時、伸一は獄中にあっても、4年半の法廷闘争にあっても、この時の誓いのまま、「勇敢な師子」として戦い抜いたのです。 「無罪判決」を勝ち取った後、伸一の胸中には、「生涯にわたる人権闘争への金剛の決意」が芽吹いていました。「裁判」の章に、こうあります。 「伸一の一念に深く刻まれたこの誓いこそ、やがて、広く世界をつつみゆく、SGI(創価学会インタナショナル)の新しきヒューマニズム運動の、大潮流をもたらす源泉にほかならなかった」 「裁判」の章の連載は、91年(平成3年)8月からです。第2次宗門事件の渦中であり、学会が世界宗教へと飛躍する、非常に重要な時でした。 その時に、先生は「大阪事件」での人権闘争の誓いが、SGIの運動の源泉であると執筆されたのです。 深い意義をかみ締めつつ、わが地域に人間共和の連帯を築いていきたい。 ![]() 伊丹空港(大阪国際空港)を飛び立つ航空機。同空港は大阪の空の玄関口として利用されている 迫害を勝ち越え新たな時代開く ◆梁島 『人間革命』第11巻は、約11年間の長期休載を挟んでの連載でした。どのような背景があったのでしょうか? ◇池田 第11巻「転機」の章の連載が始まったのは、80年(昭和55年)8月です。 当時、第1次宗門事件の嵐が吹き荒れ、池田先生は、前年4月に第3代会長を辞任していました。 悪侶や退転・反逆者らによる師弟分断の謀略が渦巻く中で、先生は“同志に希望を送ろう”と筆を執られたのです。 その後、「波瀾」「夕張」の章の連載が、同年11月まで続きます。しかし、次の「大阪」の章がスタートしたのは、11年後の91年5月です。この間のことを、先生は述懐しています。 「私にとって、この十一年間は、まさに激動の歳月であった。学会へのさまざまな策謀がめぐらされ、真実を証明するために、法廷にも立った。また、ある時は病魔に襲われ、病床に伏しもした。しかし、新しき希望の世紀を開くために、世界広宣流布の旅路を広げ、世界の各界の有識者との対話も重ねてきた」 広布の新たな歩みを開始するために、先生は不惜身命で戦い抜かれたのです。 第11巻の連載終了は91年10月。翌月、学会は邪宗門から「魂の独立」を果たします。そして、92年を「創価ルネサンスの年」と定め、世界宗教としての本格的な前進を開始するのです。 先生は、「第十一巻に記した広布の軌跡は、やがて、この『創価ルネサンス』の大河の流れを形成する、渓谷を走る奔流の時代であったとの感を深くしている」と記しています。 第11巻に書かれた広布史は、主に「大阪事件」があった57年です。その時の軌跡が35年後の「創価ルネサンスの年」の流れを形成しました。 歴史を創るのは、人間の一念です。今の戦いが30年後、40年後、さらには万代の広布の礎となっていくのです。 ◆林 91年に宗門と決別した後、学会は大聖人直結の宗教的独自性を確立して、世界へと飛翔していきます。当時、115カ国・地域だったSGIは現在、192カ国・地域にまで発展しています。 ◇池田 先月4日に開催されたブラジルSGIの記念総会には、代表800人が出席。オンラインで全土に配信され、約2万人が視聴しました。 同国の広布新時代の原点は、93年2月の池田先生の訪問です。訪問中に迎えた、戸田先生の生誕の日である2月11日、『人間革命』は連載を完結し、先生は第12巻の「あとがき」を、ブラジルで執筆されています。 「世界人権宣言」の起草に尽力したブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁と、先生の初めての対談もこの時でした。 “人権の獅子”とたたえられた総裁は、未来を見据え、先生に語りました。 「どんなに不正な迫害があろうと、来たるべき世紀に、高い精神的秩序を創造しゆく、使命をもった人間たちの勇気を打ちくだくことはできません」 今後も、広布の伸展を阻もうとする三障四魔が、紛然として競い起こるに違いありません。しかし、障魔が激しければ激しいほど、恩師との語らいの中で、「勇敢な師子」として法難に立ち向かうことを決意した「山本伸一」のように、私たちも勇敢な弟子でありたい。 その先頭に立つ使命と責任を担うのが、青年部の皆さんです。 |