第23回 学生部結成〈下〉
23年06月08日
〈出席者〉谷川主任副会長、梁島男子部長、林池田華陽会委員長、田島学生部長、先﨑女子学生部長

全国学生部幹部会の意義を込め開催された「広布第2幕 第9回全国青年部幹部会」で、Vサインを掲げる池田先生(2008年6月、八王子市の東京牧口記念会館で)。広布の未来を担う若き同志に、全力でエールを送った

「6・30」は弟子が一人立つ日
◆田島 今月30日、学生部歌「広布に走れ」が発表されてから45周年の節目を刻みます。

◇谷川 歌が発表された1978年(昭和53年)、大学生だった私は、学生部の部長を務めていました。6・30「部結成記念日」を慶祝する部総会が各地でにぎやかに開催され、折伏に奔走しました。
その中で迎えた6月30日、東京・荒川文化会館で行われた学生部幹部会に池田先生が出席してくださいました。
学生部の仲間と共に、先生が魂魄をとどめられた「広布に走れ」を歌いながら、仏法対話に駆けた日々は、青春時代の黄金の思い出です。
「広布に走れ」について、小説『新・人間革命』第28巻「広宣譜」の章に、制作過程が描かれています。山本伸一は、学生部の代表に語ります。
「瞬間瞬間、広布をめざして力の限り、戦い抜いていくんだ。“広布に歩け”ではないんです。全力疾走だ」
学生部の魂は、先駆の「全力疾走」にあります。広布の一つ一つの戦いにおいて、猛然と“スタートダッシュ”していく重大な使命があるのです。

学生部幹部会で、創価の英才に温かい眼差しを注ぐ池田先生(1978年6月30日、東京・荒川文化会館で)。席上、学生部歌「広布に走れ」が発表され、何度も歌われた

自分たちの手で広布の総仕上げを
◆先﨑 谷川主任副会長が学生部長を務めていた84年(同59年)6月30日、当時の新しい学生部歌「桂冠の誉れ」が発表されています。

◇谷川 先生から“新しい学生部歌を作ってはどうか”と提案がありました。
すぐに学生部の代表で集まり、作成に当たったものの、学会歌をつくるということが、いかに大変なことかを思い知らされるばかりでした。
何とか完成した歌詞を、先生にお渡しすると、私たちに対して、こう提案されました。
“一人の若き青年が、オリーブの冠をして、さっそうと歩いていく――こういった情景を歌にしてみてはどうか”と。
現在のオリンピックの起源ともいわれる、古代ギリシャで4年に1度開かれたオリュンピア競技会では、オリーブの葉で作製された冠が勝者に与えられました。先生が語られた歌詞のイメージそのものが、学生部への深い信頼と期待を表現していたのです。
学生部歌の作成は、青年に対する師匠の真心の薫陶でした。メンバーで推敲を重ね、先生にも筆を入れていただき、84年6月30日の学生部総会の席上、「桂冠の誉れ」が発表されました。

〽光彩まばゆき 新緑の
萌え立つ桂冠 使命の誉れ
永遠の縁に 血潮燃ゆ
人間の真実の 道征かん
……

先生は総会に出席されませんでしたが、メッセージを寄せてくださいました。
「自分たちの手で、自分たちの苦労で、自分たちの道で、広宣流布の総仕上げをお願いしたい。健康第一で、朗らかに、智勇兼備の新世紀のリーダーとして、堂々と育ちゆかれんことを、ひたすら祈っております」
師匠に頼るのではなく、弟子の手で広布を開拓していく。英知と勇気のリーダーへと成長していく――学生部に対する先生の期待は、今も変わりません。

◆林 6月30日は、58年(同33年)に先生が総務に就任された日でもあります。本年は65周年です。

◇谷川 58年4月2日、戸田先生が逝去されます。この時、同志に勇気を送ったのが、池田先生でした。
翌3日、本部幹部会が開かれました。登壇した池田先生は、「(戸田)先生のお命は、わが創価学会、われわれ弟子とともに、永遠に生きていらっしゃる」と語ります。5月3日に行われた春季総会では、「七つの鐘」の構想を発表されます。
“学会は空中分解する”と世間が騒ぎ立てる中、6月30日、池田先生は、学会でただ一人の総務に就き、実質的な広布の舵取りを担います。
当時の日記に、総務としての思いが克明に記されています。
「学会批判、しきりなり。『追撃の手をゆるめるな』の決意、胸に高鳴る。正義の戦いなのだ。七年間の構想を、じっくり考察」(6月28日)
「自分の心身をすり減らす思い。悠然たる日々を送りたいと思うが、激務と激動が、所詮、真の悠然たる境地になっているのかもしれない」「恩師の精神を、ただ叫び続けて、この生涯を送ろう」(6月29日)
「今日も激務。苦しい一日であった」「多くの幹部の指針なきを残念に思う。自分のことで精いっぱいなのだろう。勇気と理想に生きる、純真なる信仰者で生涯を、ただただ貫きたい」(6月30日)
日記に脈打つのは、戸田先生亡き後、学会への中傷が繰り返される中にあって、恩師の魂が漲る学会にしていこうとの、一人立つ覚悟です。
先生は、当時の状況をこう語られたことがあります。
“戸田先生の生涯の願業である75万世帯を達成できたわけだから、学会はもう大丈夫じゃないかという幹部もいた”
“戸田先生の薫陶があれだけ厳しかったにもかかわらず、恩師の精神をすぐに忘れてしまう弟子が多かった”
池田先生はただ一人、戸田先生の理想の松明を高々と掲げながら、走り抜かれたのです。

師弟の誓いに燃える全国学生部大会(2022年12月3日、東京・八王子市内で)

「指導」とは「激励」なり
◆梁島 戸田先生は生前、300万世帯の構想を池田先生に託しています。

◇谷川 逝去の2カ月前のことです。戸田先生から「あと7年で、300万世帯までやれるか?」と問われ、池田先生は即座に答えます。
「はい、成就いたします。ますます勇気が湧きます。私は、先生の弟子です」(小説『人間革命』第12巻「後継」の章)
池田先生は、「戸田先生が亡くなってからの数年間というものは、いつ季節が変わったのか分からないくらい、とにかく必死だった」と述べています。
総務に就任した池田先生は、不惜身命の闘争で全国を転戦していきます。各地で徹底して御書講義を行い、最前線に清新な信心の息吹を送っていきます。
ある時、先生から、恩師との御書のエピソードを伺ったことがあります。お二人が汽車に乗っていた時のことです。
席の向かいにいた戸田先生は御書を開いていました。やがて、車窓に海が広がると、恩師はこう語られました。
「御書に触れ、日蓮大聖人の御境涯を拝していくんだ。御書をわが胸中に刻み、広布と人生の荒海を乗り越えていくんだ」
池田先生の“総務の戦い”の大きな柱の一つは、御書を通した励ましでした。先生は、総務時代を振り返っています。
「人生にも、社会にも、ここぞという時がある。昭和33年6月30日、私が総務として、事実上、学会の全責任を担ってからの一日一日が、そうであった」
「病気や経済苦などを抱えつつ戦う健気な宝友のため、師の分身となって題目を唱えに唱え、励ましに励ました。戸田先生より『指導とは激励なり』と教わり、託されてきたからである」
池田先生の“不二の激励行”によって、学会は世間の風評を打ち破り、62年(同37年)に恩師の遺言だった300万世帯を達成します。
先生はつづっています。
「学生部結成の翌年の6月30日――この日、私は学会の総務に任命され、ただ一人、広布の全責任を担い立った。『6・30』とは、いわば、恩師の構想の実現へ、弟子が一人立ち上がる日である」
学生部が結成された「6・30」とは、師から託された広布のバトンを受け継ぎ、新たな拡大への挑戦を開始する“永遠の誓願の日”です。
青年らしく、後継の弟子らしく、師匠の偉大さを、学会の正義を堂々と語り、わが人生に誉れの凱歌の歴史を刻んでいこうではありませんか!