第21回「五月三日」の誓い〈下〉
23年05月05日
勇気の光、希望の光、確信の光を!

〈出席者〉原田会長、梁島男子部長、林池田華陽会委員長、田島学生部長、先﨑女子学生部長

◆先﨑 1979年(昭和54年)5月3日は、「七つの鐘」の総仕上げとなる大切な節目でした。ところが4月24日、池田先生は会長を辞任されます。

◇原田 第1次宗門事件の折、学会は僧俗和合を願い、学会員を蔑視する悪僧の非道な仕打ちに耐えながら、宗門を守り、尽くし抜いてきました。
ところが、一人の最高幹部の軽率な発言により、全ての努力が水泡に帰し、宗門側は狂ったように、会長の先生に「責任を取れ」と迫ってきたのです。
同年4月5日、学会首脳の協議の場がもたれました。先生が意見を求めると、ある幹部が「時の流れは逆らえません」と口にしました。
小説『新・人間革命』第30巻〈上〉「大山」の章に、こう記されています。
「不甲斐ないのは“時流”という認識である」
「ただ状況に押し流されて、よしとするなら、いったい学会精神はどこにあるのか! 大事なのは、広宣流布のために学会を死守しようという奥底の強い一念ではないか!」
この一節を、私たちはゆめゆめ忘れてはなりません。
戸田先生は、「第3代会長を守れ! 絶対に一生涯守れ! そうすれば、必ず広宣流布できる」と遺言されました。
社会の変化に押し流され、「戦う心」を失ってしまったならば、同じ轍を踏むことになる。「“師のために”“会員同志のために”私は一人になっても戦い抜く」との一念こそ、学会の根本精神です。

◆田島 79年5月3日に創価大学で行われた本部総会は、池田先生の“会長辞任式”となってしまいます。

◇原田 この総会終了後、先生は「大山」「大桜」と書をしたためます。
「大山」の下には、「わが友よ 嵐に不動の信心たれと祈りつつ」「五十四年五月三日 創大にて 式後記す也」と。
「大桜」の下には、「わが友の功徳満開たれと祈りつつ」「五十四年五月三日 創大にて 合掌」と書かれました。
池田先生は『新・人間革命』に、「どんな厳しい試練にさらされようが、仏法の因果は厳然である。全同志よ! 胸に創価の『大桜』をいだいて進むのだ」(第30巻〈上〉「大山」の章)とつづられています。この一節の通り、自らの胸中に「創価の『大桜』」を抱いて前進してまいりたい。
その日、創価大学から神奈川文化会館に移動された先生は、同会館でも筆を執り、「共戦」としたため、脇書に記します。
「五十四年 五月三日夜 生涯にわたり われ広布を 不動の心にて 決意あり 真実の同志あるを 信じつつ 合掌」
さらに、5日には「正義」と一気呵成に筆を走らせ、「われ一人正義の旗持つ也」と書かれました。
「一人立つ」という先師・恩師の精神に立ち返って、新たな創価学会を築いていく――池田先生の甚深の決意です。
先生は書に記した誓いのまま、功労者の激励に全精魂を傾けていきます。さらに、海外の識者と対話を重ねていかれるのです。私たちも書にとどめられた学会精神を、深く心に刻みたいと思います。

2010年4月、第3代会長就任50周年を祝賀する全国青年部幹部会で、「五月三日」の書を紹介する池田先生(八王子市の東京牧口記念会館で)。先生は、若き日に詠んだ詩「希望に燃えて」を通し、呼びかけた。「妙法とは、永遠の希望の大法である。恐れるものなど何もない。『じっとこらえて、今に見ろ!』の心意気で、断じて勝ち進もう!」

「五月三日」の書の脇書。末尾に「昭和五十五年五月三日 記す」「心爽やかなり 合掌」と記されている

「此の日は わが学会の原点也」
◆梁島 80年(同55年)、先生は関西で5・3「創価学会の日」記念勤行会に出席され、この日の夜、「五月三日」と大書されました。

◇原田 脇書には、節目の5月3日が列記されています。
戸田先生が第2代会長に就任された「昭和二十六年」、池田先生ご夫妻が結婚された「昭和二十七年」、先生が第3代会長として立った「昭和三十五年」、会長を辞任された「昭和五十四年」です。さらに先生は、未来への決意を込め、「昭和五十八年」、「西暦二〇〇一年」と揮毫。そして五月三日について、「此の日は わが学会の原点也」と書きとどめられました。
この80年春から先生は“反転攻勢”の助走を開始され、8月には、2年間にわたって休載していた小説『人間革命』の連載を再開。第11巻「転機」の章がスタートします。当時の様子については、『新・人間革命』第30巻〈上〉「雄飛」の章に詳述されています。
連載の再開が、“宗門の悪侶たちの格好の標的となってしまうのでは”と危惧する編集担当者に、山本伸一は語ります。
「私の責任は、仏子である、その学会員の皆さんを守ることだ。勇気の光、希望の光、確信の光を送り、皆が自信と誇りをもって、使命の道に邁進していけるようにすることだ。そのために私がいるんです」
ある日、編集担当者が伸一のもとを訪ねると、発熱のため、畳の上で横になっていました。しかし、10分ほどすると、伸一は畳をバンとたたき、「“同志のために”と思うと、力が出るんだよ」と語り、口述筆記を開始します。途中、激しく咳き込み、休みながらの作業です。
まさに、命を削っての執筆です。先生の不惜身命の闘争によって、学会は第1次宗門事件の嵐を乗り越えることができたのです。
また、先生は、国内はもとより、海外への平和旅にも一層、力を注がれます。
そして、83年(同58年)の年頭、先生は「天の時 ついに来れり 建設乃 地涌の勇者に 旭日かがやけ」と和歌を詠まれます。この年は、“反転攻勢”の総仕上げの一年となりました。

◆林 88年(同63年)4月27日、第1回「全国婦人部幹部会」の席上、先生は、5月3日を「創価学会母の日」とすることを提案されました。

◇原田 5月3日は、女性部の結成記念日でもありますね。
日蓮大聖人の御在世当時も、多くの女性門下たちが活躍しています。先生は“女性が大事なんだ。それを絶対に忘れてはいけないよ”と、何度も教えてくださいました。
また、第1次訪中に同行していた時、“天の半分を支える女性”と表現した中国の方がいました。すると、先生はすかさず、“創価学会では、天の半分以上を女性が支えているんです”と返されたのです。
現在の学会の発展も、女性部の皆さまの尊い献身があってこそです。改めて感謝と敬意を表したいと思います。

◆田島 先生はこれまで、正義の言論によって、障魔の嵐を打ち破ってこられました。

◇原田 宗門が創価の師弟を分断させようと、先生の法華講総講頭を罷免し、第2次宗門事件の烈風が吹き荒れていた1991年(平成3年)の5月3日。先生は10年半の休載を経て、再び『人間革命』第11巻「大阪」の章の連載を始めます。
先生は烈風の矢面に立ち、学会と同志を守りながら、『人間革命』のペンをもって、宗門との攻防戦を展開し勝利された。ペンは剣です。その先生の闘争に、私たちも続きたい。
この91年5月3日に行われた、創価大学での記念式典で、先生はこう呼びかけられました。
「たとえ悪鬼、魔民におどされ、脅かされ、虐げられようとも、正義の『信仰者』として、一人の『人間』として、偉大なる一個の『人格』として、何ものも恐れず、強く、朗らかに、この一生の広布劇を飾っていただきたい」
思えば、「五月三日」の書が初めて披露されたのは、2010年(平成22年)4月に行われた全国青年部幹部会の席上です。“青年よ、一人立て!”との先生の万感の思いが込められていることは言うまでもありません。
さあ、広宣流布大誓堂完成10周年の「11・18」へ向け、皆が青年の気概で、強く朗らかな凱歌の前進を開始してまいりましょう!

今月3日に開催された第13回本部幹部会(巣鴨の東京戸田記念講堂で)。「11・18」へ、誓い新たに前進を開始した