第15回 二月闘争〈下〉 23年02月03日 |
〈出席者〉谷川主任副会長、梁島男子部長、林池田華陽会委員長、田島学生部長、先﨑女子学生部長 広布誓願の新時代の叙事詩を ![]() 第1回タイ総会で同志を激励する池田先生(1994年2月6日)。「サワディークラップ(こんにちは)」――先生はタイ語であいさつし、「常に『今から未来へ』と、限りなく希望を広げていけるのが信仰者である」と語った ◆田島 1952年(昭和27年)の「二月闘争」の後も、池田先生は自らの戦いで、戸田先生の誕生月である2月を荘厳していかれました。 ◇谷川 戸田先生が56歳の誕生日を迎えられた1956年(昭和31年)2月11日、池田先生は「関西に 今築きゆく 錦州城 永遠に崩れぬ 魔軍抑えて」との誓いの和歌を、戸田先生に捧げました。 前月から「大阪の戦い」がスタートしていました。 戸田先生は「我が弟子が 折伏行で 築きたる 錦州城を 仰ぐうれしさ」との返歌を贈ります。 この月、大阪支部は訪問・激励、人材育成に力を注ぎながら、蒲田支部に続いて全国2位の拡大を成し遂げます。 翌3月には、新たな力が躍動し、5000世帯を突破する弘教を達成。4月には9000世帯を超え、5月、1万1111世帯という「不滅の金字塔」を打ち立てます。 関西広布の本格的な伸展は、「大阪の戦い」からです。恩師が和歌に詠んだ通り、池田先生を中心とした関西の友の折伏によって、広布の「錦州城」が構築されていきました。 小説『人間革命』第10巻「脈動」の章には、「大阪の戦い」と同じ時期に行われた、大阪とは別の地域の様子も描かれています。その地域では、東京からの派遣幹部が指導にあたったものの、現場の納得を欠いた目標を強要し、団結が大きく乱れてしまいます。同章には、こう記されています。 「単なる指示や命令では、人びとは、決して本気になって動かない」 「仏法者としての社会建設の使命の自覚、そして信仰の歓喜と躍動――これこそが一切の活動の原動力となる」 大阪では、池田先生が自ら率先して一対一の激励に徹しました。自転車を3台乗りつぶし、8000人の同志と会われています。半年間で、1日当たり40人以上の友と魂の絆を結んだのです。 しかも、先生は、ずっと大阪に滞在していたわけではありません。限られた時間だからこそ、1軒の訪問・激励、1回の会合に、どれほどの思いで臨まれたことか。 「一念に億劫の辛労」(新1099・全790)を尽くした先生の戦いによって、関西の友は広布の使命に奮い立ち、組織の最前線に団結が生まれていったのです。 ![]() 戸田先生の誕生日に、インド・ガンジス川のほとりに立つ池田先生(1979年2月11日) 恩師の誕生日に「人間革命」を完結 ◆梁島 61年(同36年)2月11日は、池田先生が第3代会長の就任後に初めて迎える、戸田先生の誕生日でした。この日、池田先生はカンボジアを訪問しています。 ◇谷川 61年1月28日、池田先生は恩師から託されたアジアの恒久平和の道を開くため、香港へと出発します。2月14日までの18日間で、5カ国1地域を訪れる旅でした。 この折、海外ではアジア初となる地区を香港に結成し、インドを初めて訪れます。2月11日のカンボジア訪問では、アンコール遺跡に足を運び、同遺跡の栄枯盛衰に思いをはせ、“何事も全て、後を受け継ぐ人がいなければならない”と、「後継」の大切さを語っています。 翌62年(同37年)2月も、海外平和旅の中で迎えます。 1月29日から中東・アジアの7カ国歴訪に出発し、2月11日、タイのバンコクに到着。その日に行われた座談会で、バンコク支部の結成が発表されました。 席上、池田先生は、戸田先生が詠まれた「雲の井に 月こそ見んと 願いてし アジアの民に 日をぞ送らん」との和歌を紹介し、「先駆の誇りに燃えて、人びとの幸福の模範の園を、この地につくり上げていただきたい」と呼びかけられました。 第1次宗門事件の嵐が吹き荒れていた79年(同54年)は、2月3日から20日まで、香港・インドを訪問。11日には、ガンジス川のほとりに立ち、戸田先生に“わが舞台である世界の広宣流布の大道を開き続けてまいります! 弟子の敢闘をご覧ください”と誓います。 戸田先生が逝去された後も、池田先生の胸中には常に恩師がおられる。国内にいようが、海外にいようが、胸中の恩師と対話され、「師匠」という原点から出発されています。 ◆林 93年(平成5年)の恩師の誕生日には、本紙に連載されていた小説『人間革命』全12巻が完結します。 ◇谷川 この日、池田先生はブラジルの地で、「今、弟子としての、一つの務めを果たすことができた」と、「あとがき」に記しています。さらに、こうつづっています。 「私のなすべきことは、恩師に代わって、『世界の平和』と『人類の幸福』のために戦い、生き抜き、この世の使命を果たしゆくこと」 「それが、弟子としての報恩の道であり、先生が開き示された人間革命の道である」 2007年(同19年)2月には長編詩「師弟不二の詩 ああ恩師 戸田城聖先生」を発表。その中で詠まれています。 「私の心には/いつも いつでも/笑顔輝く戸田先生がいる。/いまもなお/『先生なら どうされるか』/師との対話の日々の連続である。」 私たちも心に師を抱き、師への誓いを果たそうと、広布誓願の前進を続けていきたい。青年部の皆さんは、小説『人間革命』『新・人間革命』を学びながら、日々、師匠との対話を重ね、行動をもって新時代の「師弟の叙事詩」をつづっていただきたい。 ![]() 小説『人間革命』連載完結の日、ブラジル・リオデジャネイロ連邦大学の池田先生への名誉博士号授与式が行われた(1993年2月11日、同大学で) 人類の共存目指す「地球民族主義」 ◆先﨑 昨年2月にウクライナ危機が起こりました。このちょうど70年前の52年2月の17日、戸田先生は世界平和を願われ、「地球民族主義」を提唱されました。「二月闘争」の最中のことです。 ◇谷川 その日、青年部の研究発表会が行われました。席上、戸田先生は、人類の共存を目指す自身の理念を「地球民族主義」と表現しました。 当時は、朝鮮戦争(韓国動乱)によって、東西分断の溝が深まっていました。 「地球民族主義」との理念には、“断じて、戦乱を繰り返させてはならない。断じて、民衆に悲惨の二字を味わわせてはならない。民族やイデオロギーの差異を超えて、共生・共存の道を開いていくのだ”との恩師の熱願が込められていました。 当時、戸田先生は、まだ機運が高まっていないことを承知し、研究発表会の場では、「地球民族主義」に関して、一言も説明を加えませんでした。その理念の意義を示し、世界に宣揚してきたのは、池田先生です。 例えば、キューバのハバナ大学での講演(1996年6月25日)では、「地球民族主義」が志向するところとして、「偏狭な民族中心主義を克服し、人類の共通の課題に挑みゆくこと」にあるとして、「ここに、仏法の人間主義を基調として、世界の民衆を結びゆく、私どもの『平和』と『文化』と『教育』の運動の原点」があると述べています。 先生が海外の大学・学術機関で講演されてきた理由の一つは、「地球民族主義」の理念を世界に展開し、時代精神へと高めるためだったと思えてなりません。これまで発表してきた「SGIの日」記念提言でも、折々に言及されています。 コロナ禍や戦争など、世界を取り巻く幾つもの危機の、一日も早い終息を強く祈り抜いていく。そして、自分の足元から平和を願う民衆の連帯を築いていく。その地道な実践こそが、「地球民族主義」の理念を実現する王道と確信し、地域に友好の輪を広げていきましょう。 |