第2回 池田先生の入信75周年〈下〉
22年09月02日
〈出席者〉原田会長、田島学生部長、先﨑女子学生部長、山下未来部長、山口女子未来部長

「拡大」こそが師に連なる実践
◆田島 池田先生の入信から3年となる1950年(昭和25年)8月24日、戸田先生は、学会の理事長を辞任する意向を発表されます。

◇原田 この日、池田先生は恩師に「先生が理事長を辞められると、これから、私の師匠は誰になるのでしょうか」と尋ねます。それに対し、戸田先生は「君の師匠は、この私だよ」と答えます。池田先生は、“生涯の師匠は、(戸田)先生なんだ”と心に決めるのです。
後日、池田先生は変わらぬ決意を、「古の/奇しき縁に/仕へしを/人は変れど/われは変らじ」との和歌に託し、恩師に手渡しました。戸田先生は二つの返し歌を贈りました。
戦後の混乱期で、中小企業の倒産が続出した時代です。経済不況の中、戸田先生の会社でも、給料の遅配が続き、周囲の人間は手のひらを返して戸田先生のもとを去っていく。池田先生はただ一人、戸田先生を支え、東京・埼玉・神奈川などを駆け巡りながら、事業の活路を開いていきました。
当時を振り返りながら、先生は「指導者は困難な局面に強くならなければいけない」と教えてくださったことがあります。
苦境にあればあるほど、強盛な祈りで「師子王の心」を涌現させ、師匠を守り、学会を守り抜く――池田先生の若き日の戦いこそ、私たちの実践の永遠の模範です。

後年、池田先生は筆を執り、次のようにしたためた――「古乃(いにしえの) 奇(く)しき 縁に 仕へしを 人は 変はれど われは 変はらじ」

苦難の歳月に種子の育成
◆先﨑 小説『人間革命』第4巻「秋霜」の章には、50年から翌51年に至るまでの、池田先生が戸田先生を支え抜かれた日々について、「この期間の秘史のなかに、その後の創価学会の、発展と存在との根本的な要因があったといえよう」とつづられています。

◇原田 戸田先生と池田先生が皇居のお堀端を歩いていた時のことです。急に降り出した雨で、二人はずぶ濡れになってしまいます。近くにはGHQ(連合国軍総司令部)の高いビルが立っていました。
池田先生はビルを見上げて、戸田先生に宣言します。
「必ず、将来、先生に乗っていただく車も買います。広宣流布のための立派なビルも建てます。どうか、ご安心ください」
今、世界各地に立派な会館が立っています。その源流こそ、この先生の恩師への誓いです。
また、前回(8月24日付)も触れましたが、戸田先生と池田先生が聖教新聞創刊の構想を語り合ったのは、50年8月24日のことでした。
さらに、戸田先生が池田先生に、創価大学の設立の思いを披歴し、委ねたのは、50年の晩秋です。
一つの大学を設立することが、どれほど多くの労苦を伴うことか。しかし、池田先生は、恩師の構想の実現に全精魂を注がれ、その約20年後の71年(同46年)に創価大学は開学します。
「秋霜」の章に、「戸田の会長就任以後の飛躍的な学会の前進と、その没後における急速な躍進も、すべて、その源を尋ねるならば、ひとえに大聖人の仏法の偉大さによることはもちろんであるが、この苦難の歳月の間に、既に決定的な種子の育成がなされていた」と記されています。
「種子の育成」とは、「師匠が弟子を鍛えた」ということだけではありません。大事なことは、「弟子が師匠に仕えきる」ことです。その精神があってこそ、師匠の弟子に対する薫陶が花開いていくのです。

創価大学のキャンパス(2021年9月、八王子市で)。昨年、開学50周年の佳節を刻んだ

戸田大学に学ぶ“絶妙の呼吸”
◆山口 この時期、池田先生は、通っていた夜学を断念されました。そうした中、戸田先生は個人教授を行います。これが「戸田大学」です。

◇原田 戸田大学を通して、私たちが学びたいのは、“師弟の絶妙の呼吸”です。
池田先生は、49年(同24年)秋ごろから、夜学を休んで恩師の会社を支え、仕事が一段落したら、復学しようと考えていました。
しかし、50年の年頭、戸田先生は、「君には、本当にすまないが、夜学は断念してもらえないか」と愛弟子に語ります。
池田先生は、戸田先生の深い思いを受け止め、「はい。先生のおっしゃる通りにいたします」と即座に答えます。そして、一身を捧げて、事業の再建に力を注いでいきます。
しばらくして、戸田先生は池田先生を自宅に呼んで、一対一の授業を開始します。個人教授は日曜日に行われ、やがて市ケ谷にあった会社の始業前にも開かれるようになります。
恩師は御書を根幹に、政治、経済、法律、歴史、化学、物理学など、万般の学問を講義します。戸田先生は、この個人教授だけではなく、日常のあらゆる機会を通して、池田先生を薫陶します。
戸田先生はよく、池田先生に「今、何の本を読んでいるか」と聞かれました。
50年10月2日の夜、電車の中で、ルソーの小説『エミール』が話題になります。池田先生が、かいつまんで感想を述べると、戸田先生は笑みを浮かべ、「大作とは何でも話せるな!」と語られました。
池田先生は、戸田大学で学んだことを最大の誇りとされています。アメリカの青年に、「戸田大学は世界一の、最高の大学であると確信しています。私は、その戸田大学の優等生として、それを世界に証明する義務がある」と、戸田大学を通して師弟の精神を訴えられました。
世界の大学・学術機関から池田先生に贈られた名誉学術称号は400を超えています。人類史に輝く英知の偉業の源流は、この戸田大学にあります。

東京・市ケ谷駅とその周辺を池田先生が撮影した(2019年3月)。同駅近くのお堀端に、「戸田大学」の舞台となった市ケ谷ビルがあった

◆山下 池田先生の入信75周年を迎えた先月24日、先生は全国・全世界の同志に3首の和歌を贈ってくださいました。

◇原田 その中の1首で、入信75周年を迎えられた心境について、こう詠まれています。

師に捧ぐ
七十五歳の
入信日
閻浮に妙法
轟く誉れは

戸田先生は、亡くなる前月の58年(同33年)3月、「君の本当の舞台は世界だよ。世界は広いぞ」「人類の幸福と平和の実現こそ、仏法の本義なんだからな」と、愛弟子に世界広布の構想を託されます。一人立たれた池田先生の激闘によって、世界広布の大願は成就されました。
先生の75周年の入信記念日から、「青年・飛躍の年」の総仕上げへと前進する青年部が、師匠に連なりゆく実践とは何なのか。それは、「拡大」にほかなりません。小説『新・人間革命』の中では、次のように何度もつづられています。
“出でよ! 幾万、幾十万の山本伸一よ”(第3巻「月氏」の章、第8巻「宝剣」の章、第29巻「源流」の章)
インドの青年部は、「アイ アム シンイチ・ヤマモト!(私は山本伸一だ!)」、「アイ アム ザット ワン ディサイプル!(私がその一人の弟子だ!)」との合言葉で、目覚ましい拡大のドラマをつづっています。
広宣流布大誓堂完成10周年の明2023年11月へ向け、学会は新たに出発しました。少子高齢化をはじめ、社会にはさまざまな課題が山積しています。だからこそ、青年部の一人一人が、“新時代の山本伸一”との自覚で、広布拡大の突破口を開き、見事な後継の証しを示していこうではありませんか。

真剣勝負の講義が続けられた「戸田大学」(画・内田健一郎=小説『新・人間革命』第23巻「学光」の章から)