池田先生とポルトガル ② 20-06-26

逆境は英雄をつくる――ポルトガル広布の発展に尽くした友の歩み

異体同心の団結が光るポルトガルSGIの友が、首都リスボン南西部にあるアジュダ宮殿の前で。同国を代表する博物館で、池田先生が創立した東京富士美術館とも縁が深い(昨年10月)

ポルトガル広布史に黄金の一ページを刻んだ、2006年6月の本部幹部会。第1回ポルトガル研修会の参加者は皆、喜びで胸がいっぱいだった。

1965年、池田先生の初訪問当時、学会員が皆無だったポルトガルは、メンバーの6割が「青年」という、勢いあふれる組織に発展していた。

広布こそ使命
「ポルトガルは勝ちました!」――本部幹部会でスピーチした池田先生の呼び掛けに、最高の笑顔で応える友また友。ヒロコ・アゼベドさん(総合婦人部長)は、婦人部長として、夫のジョゼ・アゼベドさん(総合壮年部長)と共に、師匠と感激の再会を果たした。

第1回ポルトガル研修会の参加者が出席した本部幹部会でスピーチする池田先生(2006年6月、八王子市の東京牧口記念会館で)

入会は75年9月。人生の壁にぶつかり、心機一転を期して渡航したフランスで、知り合った語学学校の友人が学会員だった。

この年の5月、先生がフランスへ。未入会だったヒロコさんは、会合に参加するメンバーから送迎を頼まれ、会場の外で、一人、待機していた。

すると、そこに先生を乗せた車が。降りた先生は、ヒロコさんの方に近づき、じっと視線を注いだ。

そのあまりにも深いまなざしに、強く心を揺り動かされたヒロコさん。“池田先生とはどんな方なのだろう”と、片っ端から著作をひもといた。

読めば読むほどに感動と尊敬の念が湧き上がる。“私も先生の弟子になりたい”と御本尊を受持し、使命の職場で働きながら、女子部の一員として信心の基礎を磨いていった。

81年、同国を再訪した先生と懇談する機会が。6年前の出会いを覚えていた先生は再会を喜び、「みんなから愛される人になるんだよ」と、包み込むように激励。以来、先生が訪れた際は、役員として諸行事の運営を陰で支えてきた。

良縁に恵まれ、ポルトガル人のジョゼさんと結婚。婦人部となり、子育てに活動にと、慌ただしい日々を送っていた。

ジョゼ・アゼベドさん、ヒロコさん夫妻

そんな彼女を試練が襲う。子どもたちが大きくなるにつれ、生活が困窮。3人目の出産を機に仕事を辞めていたが、働かざるを得なくなったのだ。

就職活動に臨むが、届くのは不採用通知ばかり。毎日、泣きながら御本尊に向かった。

何とか見つけた販売業は、自分には苦手な職種に思えた。それでも、懸命に働き続けて5年がたったある日、仕事で親しくなった知人を介し、世界的なブランドメーカーから面接の話が舞い込む。

婦人部の先輩に相談すると、「今こそ題目よ」と力強く。真剣な祈りを重ねた結果、転職を勝ち取ることができた。

込み上げる感謝の思い。それはやがて広布に生き抜く誓願に変わる。時を同じくして、ジョゼさんにポルトガルで就職の話が。新しい職場で実証を示し始めていたヒロコさんだったが、98年、一家で同国北部の町・ポルトに移住した。

それから半年後、期せずして初代のポルトガル婦人部長の任命を受けることに。ポルトにも地区が結成され、ジョゼさんが地区部長に就いた。

当時のポルトガルSGIは、信心して数年という友が大半を占める“草創期”。ヒロコさんはポルトガル語ができなかったものの、“皆から愛される人に”との指針を胸に、一人一人を温かく励まし、新しい人材の登場をひたぶるに祈り、待った。

その中で日本から仕事で赴任したエツコ・モトキさん(書記長)が青年部のリーダーに。各部の体制が整い、2000年9月、新出発の集いを開催。それ以降も、ヒロコさんは同志と共に、支部から本部への編成(05年)、法人認可(09年)、ポルトガル文化会館の開館(11年)と、一貫して同国広布の発展に尽くしてきた。

3人の子は創価大学に学んだ長男・長女をはじめ、全員が後継の道を真っすぐに進む。

師匠と出会い、入会して今年で45年。

青年を育み、後輩を支えながら、夫婦二人三脚で、世界広布という壮大なロマンに生涯をささげる決意だ。

自らが太陽に!
クレア・ホニグスバウムさんは2015年5月、ヒロコさんの後を受け、ポルトガル婦人部長に就任した。

池田先生の友人で、20世紀最高峰のバイオリニスト、ユーディー・メニューイン氏が創設した財団で講師を務めるなど、社会での活躍が光るリーダーだ。

クレア・ホニグスバウムさん
ポルトガルに住んで30年。1992年1月の支部結成式に集ったパイオニアの一人でもある。


イギリス・ロンドンの出身。正しい生き方を模索していた大学時代、日本人の友人から仏法の話を聞いた。

題目を唱えると、心の奥底から生命力がみなぎるのを感じた。SGIの会合に参加し、創価家族の温かさに感動。世界平和の建設という理念にも深く共感し、入会を決めた。

信心に出あう前は将来を悲観し、学業にも身が入らなかったが、大学院まで進学。音楽と芸術教育の分野で社会に貢献するという人生の目的が定まった。

89年5月、池田先生が14年ぶりにイギリスへ。滞在中、ホニグスバウムさんは運営役員を担った。タプロー・コート総合文化センターで共にラジオ体操を行うなど、先生と過ごした思い出は、今も色あせない。

リスボンの石畳の道路を走る市電(昨年10月)

翌年、さらなる飛躍を目指し、ポルトガルに移住。学会の中で培った、何ものにも負けない楽観主義で、音楽家としての経験を積んでいった。

師の初訪問30周年となる95年10月には、日本で開かれたSGIの諸行事に出席。世界中から駆け付けた友に、先生は語った。

「私どもは『無限の希望』の源泉である題目を楽しく唱えきって、堂々と、行き詰まりなき、この人生をともに生きぬいてまいりたい」

女子部時代、CDの発売や有名音楽家との共演など、立てた目標を全て実現させてきたホニグスバウムさん。

現在は2人の子を持つ母親に。仕事と家事がどんなに多忙でも、唱題を欠かさず、婦人部の第一線で同志の激励と友人との対話に率先してきた。

「自らが太陽となって輝こう」をモットーに掲げるポルトガル婦人部。「ポルトガル広布の主役は女性です。婦人部・女子部のスクラムを一段と強くし、『無限の希望』である信心の光で、ポルトガル中を明るく照らしていきます!」

狭い路地、曲がりくねった階段が特徴的なリスボンの街並み(昨年10月)
「ここに地果て、海始まる」――リスボン近郊、ユーラシア大陸最西端のロカ岬には、ポルトガルの大詩人カモンイスの詩を刻んだ記念碑が立っている。

かつて池田先生は、この一節に触れ、陸から海へ目を転じ、大航海時代の主役となった同国の歴史を通して訴えた。

「困難な状況に屈するのでなく、あえて未知の世界に飛び込んでいった」「ポルトガルのことわざに『逆境は英雄をつくる』とある通りで、逆境に挑戦してこそ、大きな事業を成し遂げることができる」と。

先生の初訪問から55年。開拓魂みなぎるポルトガルの友は、いかなる嵐にもひるまず、師と共に“希望の新航路”を勝ち開く。