池田先生と東欧 ② 20-01-18

民主化から30年余。東欧の同志が誇りとする池田先生との絆とは

第2次世界大戦の戦禍を免れた世界遺産の古都・クラクフ。ポーランド王国の都として栄えた街には、中世の面影が残っている

1989年の東欧革命で、各国に先駆けて民主化を果たしたポーランド。隣国による侵略や国土分割、“アウシュビッツ”に代表される大虐殺など、東欧の中でも悲劇の過去を持つ同国に、SGIの支部が結成されたのは92年1月である。

開拓者の誇り
「ポーランドの人々を幸せにしたい。そんな気持ちでいっぱいでした」と語るのは、結成式に参加したマリア・マルキェビッチさん(総合婦人部長)。

共産主義政権時代のポーランドで生まれ育った。

友人を介して、仏法に縁したのは、大学卒業後、夫の赴任先のアメリカ・ニューヨークに滞在していた時のこと。マルキェビッチさんは当時、長女の心臓病、次女の眼の病気など、度重なる宿命の嵐を前に、人生の意味を考えていた。

“一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げる”との哲学に感動し、87年に入会。その後、自身の人間革命と母国の宿命転換を決意し、ポーランドに帰国した。

マリア・マルキェビッチさん

首都ワルシャワのアパートの一室で行われた支部結成式。

先生はメッセージを寄せ、新出発を祝福した。「皆さまは、パイオニア(開拓者)であり、仏子であり、ポーランドに、より良い未来をもたらす希望であります」

結成式後の92年6月には、ドイツ・フランクフルトでの合同会議で、先生と初の出会いが実現。マルキェビッチさんは初代婦人部長として、縁する全ての人に仏法を語っていった。

やがて娘たちは病を克服。母の背中を見て育った二人は広布のリーダーへと成長した。

2010年3月、ポーランドSGIは本部に発展。マルキェビッチさんは日本で先生と再会を果たす。「多くの困難の峰を乗り越えてきたね。でも、まさにその時に福運を積んできたんだよ」。広布の労をねぎらう師の真心に感動があふれた。

支部結成から28年。パイオニア精神を燃やし、マルキェビッチさんは、きょうも愛する母国の広布に駆ける。

友情でつながる
1990年代、池田先生は東欧革命の立役者となったチェコのハベル大統領(92年4月)、ポーランドのワレサ大統領(94年12月)と会見。未来を見据えた人間外交で、東欧に信頼と友情のネットワークを広げていった。

無血の民主化をリードしたポーランドのワレサ大統領㊨が来日し、池田先生と会見(1994年12月、都内で)。この後、「ポーランドの至宝」展が日本各地で開催されるなど、両者の友情が両国の文化交流につながった

迎えた21世紀――。2001年3月、ウィーンのオーストリア文化センターには、東欧各国からSGIの代表が集っていた。

その数、実に12カ国110人。先生は、この第1回「東欧代表者総会」に万感のメッセージを贈った。

「本日のこの集いこそ、この新世紀を『人間共和』の美しき人華の園、遊楽の園へと蘇生させゆく、SGIの人間主義を象徴するものであると、私は宣言したいのであります」

参加者の中に、先生の平和行動に共鳴し、ポーランドに来たツルコ・ハガ=サエツカさん(婦人部長)の姿があった。

ツルコ・ハガ=サエツカさん

ハガさんの原点は、関西創価高校3年時に実行委員を務めた「健康祭」(体育祭)。直後に関西キャンパスを訪れた先生は、世界に羽ばたいた卒業生の連帯をたたえつつ、こう語った。

「学園出身の、皆さんの先輩たちも、全世界に、活躍の舞台を広げている。私も、海外の行く先々で、たくさんの創価の学友たちとお会いする。皆、後輩のために懸命に道を切りひらいている。そして、それぞれの場所で、また国を超えて、友情でつながっている」

“私もその一人に”と誓ったハガさんは創価大学在学中、先生とワレサ大統領との会見の報に触れ、ポーランドへの渡航を決意。数年間の留学を経て当地での就職活動に励み、2000年に日本企業の現地法人から採用を勝ち取った。

翌年、新世紀の開幕と同時に、同国の女子部長に就任。仕事と学会活動に走り抜いた。

結婚後は2人の娘を育てながら、婦人部で奮闘。現在は、南部の都市クラクフを広布の舞台に、日本から移住してきた家族と共に、友情のスクラム拡大に奔走する日々だ。

誓いを果たす人に
チェコのヨシコ・キタノさん(婦人部書記長)も、東欧代表者総会に参加した創価教育同窓生の一人である。

池田先生との初めての出会いは、創価大学の入学式。だが、父親の反対を押し切って創大に進学したキタノさんの心は晴れなかった。

それでも先生や先輩・友人からの励ましを受け、創大に来て良かったと思える人生を歩もうと決意。在学中は大学建設に奔走し、就職活動では、創大の女子学生として初となる大手都市銀行の本店営業部から内定を得た。やがて父は、良き理解者に変わっていった。

ヨシコ・キタノさん

卒業後、キタノさんは働きながら、創大時代に心に抱いた平和貢献の道を模索し続けていた。その中で、チェコ行きを決断する。

きっかけは、1995年1月に故郷を襲った阪神・淡路大震災だった。チェコの一老婦人から寄せられた見舞いの言葉に感動したキタノさんは、感謝の思いのままに、翌96年に惜しまれながら円満退職し、チェコへと渡った。

圧政に苦しんだ歴史を持つチェコ。キタノさんは、創大生として日本から遠く離れたこの国にも、幸福の連帯を広げるとの誓いを立てた。

胸に刻む先生の指針には、こうある。「いったん約束したことは必ず実行する――これが私の、また恩師・戸田先生の精神である。また国際社会における信義の根幹でもある」「『誓いを果たす』人が、いちばん苦しそうに見えて、いちばん幸福な人である」

欧州有数の企業で信頼の実証を示し、後輩の道を拓いていったキタノさん。東欧各国では今、多くの創価の友が、社会の第一線で活躍する時代が到来している。
励ましの太陽は赫々と!
代表者総会以降、東欧ではチェコ、ポーランド以外の国でも支部が結成されていった。

SGI発足30周年の2005年、先生は東欧など旧共産圏の同志に向けた随筆を発表。「一人」を大切にし、一人一人の「人間革命」によって発展を遂げた姿をたたえつつ、こうつづっている。

「あまりにも厳しい社会情勢のなかにあって、わがSGIの同志は、常に明るく、常に前進していった。その姿こそ、『苦難に負けるな!』と、祖国を励ます希望の太陽となっていったことは間違いないのだ」

ポーランド南部の都市クラクフで行われた新年勤行会の参加者が記念のカメラに(1日)

現在は毎年、青年部研修会やリーダー研修会が開かれ、折伏と人材育成のリズムが確立されている。

SGI発足45周年の「前進・人材の年」。東欧広布は、一段と勢いを増していく。