池田先生とパラグアイ19-12-20


毎週木曜日にパラグアイ文化会館で行われている勤行会。1977年から42年間、継続している(本年8月)

42年間の祈り
パラグアイSGIでは42年間、毎週、継続してきたことがある。

パラグアイ文化会館での勤行会だ。首都アスンシオン在住のメンバーを中心に、毎週木曜日に集まり、現在も多くの同志が参加している。

「池田先生をパラグアイにお迎えしたい。皆で、祈りを合わせていこう」――1977年夏、この集いは、マツタロウ・ナガサワさんをはじめ当時のリーダーの提案で、わずか数人から始まった。

トミオ・ハナノさん(パラグアイSGI副本部長)、マサコさん(同副総合婦人部長)夫妻は2回目の勤行会から、今日まで参加し続けている。

「気が付けば、42年にもなるんですね」と感慨深く口をそろえた。

トミオ・ハナノさん

トミオさんが和歌山県から移住したのは55年。7歳の時だった。

ガンで余命を告げられながらも父は家族のため、懸命に養蜂に取り組んだ。

しかし、11歳の時に父は逝去。トミオさんは、自分が家族を支えようと、苦学の末、国立アスンシオン大学の農学部に進学した。

その在学中に出会い、仏法の話をしてくれたのが、マサコさんだった。
マサコさんの父は草創のリーダーだったナガサワさん。61年に家族で入会以来、真面目に信心に励んできた。同国の女子部長としても活躍。76年6月にトミオさんを入会に導いた。

ハナノさん夫妻はこの勤行会を軸に、人生を開いてきた。

マサコ・ハナノさん

「頑張りなさい」
84年2月、池田先生は18年ぶりにブラジルを訪問。この時、隣国のアルゼンチン、ボリビア、パラグアイ、ウルグアイ、チリの南米5カ国200人の友もブラジル文化祭に参加するために訪伯した。

先生は、記念のカメラに納まり、各国広布の前途を祝した。

ブラジル滞在中、パラグアイの友にとって忘れ得ぬ場面がある。先生の前で「パラグアイ本部歌」を合唱する機会が巡ってきた。

〽梢をわたる 風の音 コロラドの森 越えゆけば 流れる汗か 同志の顔 コロニア(入植地)の道 果てしなし

聴き終わった先生は語った。

「今度は、パラグアイにも行くからね」

さらに、先生はパラグアイの同志と固い握手を交わした。

「“学会員で良かった”と心の底から感じました。『先生、ありがとうございます』と感謝の気持ちをお伝えしました」(マサコ・ハナノさん)

「先生は、私に『頑張りなさい』と声を掛けてくださいました。生涯の原点です」(トミオ・ハナノさん)

トミオさんは、この激励を胸に、幾多の苦境を乗り越え、国立アスンシオン大学の農学部教授、さらに政府と協力して営農の改善を進める農業コンサルタントとしても活躍してきた。

ハナノさん夫妻の3人の子どもたちも父母の背中を見て育ち、広布の道を歩んでいる。

70歳を超えた今、トミオさんは「自由自在に活動できる境涯になれたことが、何よりの功徳です。今の目標は学会創立100周年を妻と共に、“現役”で迎えることです」とかみ締める。

宿命転換の法理
ブラジルで池田先生との出会いを刻んだメンバーは、その感動と決意を、パラグアイ中に語り広げていった。

当時、理事長だったカオル・クリタさん(同名誉理事長)は言う。

「どうすれば、先生をパラグアイにお迎えできるか――そのためには、“広布の拡大以外にない”と皆で約し合いました」

同国では、日本からの移住者を中心に、皆が努力を重ね、社会に深く信頼の根を張り巡らせていた。

ペドロ・セスペデスさん

「その証しとして、この頃から、現地メンバーの入会が相次ぐようになりました」(カオル・クリタさん)

壮年部のペドロ・セスペデスさんも、その一人である。ケンジ・ヤマモトさん(同副理事長)の紹介で、84年に入会した。

もともと宗教に関心はなかったが、経済苦や家庭の悩みは尽きなかった。

「ヤマモトさんは、日西の辞書を持って、週に3回ほど、私の家に来ました。毎回、夜遅くまで、片言のスペイン語で仏法の話をしてくれました」

セスペデスさんが感銘を受けたのは「宿命転換」の法理。周囲や環境のせいにしていた自分自身の生き方を見つめ直した。何より、ヤマモトさんの熱意に心が動いた。入会後は、真剣に唱題を重ね、目の前の課題を乗り越えていった。
その後、同国の男子部長などを歴任し、今では、経営する会社が通関業界で最大手の企業に成長している。

民主化への道
パラグアイでは54年から35年間、独裁政権が続いていた。

89年、その歴史に終止符を打ったのが、当時のアンドレス・ロドリゲス大統領である。

自身も軍人だったが、新憲法成立など「民主化」への橋渡しをした。

その中で、国家の安定と繁栄のために、地道に活動するパラグアイSGIへの社会的評価も高まっていった。

90年3月、アスンシオンで「世界の少年少女絵画展」(SGI、パラグアイ文部省共催)が開催された折にはロドリゲス大統領が出席。また同年11月、訪日した大統領は学会の首脳とも会見した。

91年11月には、パラグアイの外務省から池田先生のパラグアイ訪問を招請する「公式招聘状」が届けられた。

さらに92年11月、池田先生は、聖教新聞本社でフェルナンド・コスタンティニ同国駐日大使らと会談した。

席上、大使は「SGI会長のご訪問を国をあげて歓迎いたします。皆、心待ちにしております」と改めて要請。また、先生の著作を読み、その平和行動を見つめてきた所感を述べた。

会談後、先生は次のように語っている。

「私は、美しきパラグアイに栄えあれ、光あれと祈りたい。そして近い将来、必ずや訪問し、永遠に残る友好の歴史を刻みたい」

会談には、クリタ理事長(当時)をはじめ同国のリーダーたちも同席していた。

その模様は、瞬く間にパラグアイ中に伝わり、同志の祈りは、一段と強くなった。

師を持つ喜び
93年1月24日、池田先生は、北・南米指導に出発した。
アメリカ、コロンビア、ブラジル、アルゼンチンでの諸行事を終え、2月20日、49カ国・地域目の平和旅となるパラグアイの国際空港に降り立った。
パラグアイSGIのリーダーと共に、空港で出迎えた、婦人部のマルタ・ダバロスさん(方面副婦人部長)は振り返る。
「池田先生は、空港に到着されるや、深々と一礼されました。“目の前に先生がいらっしゃる”。夢にまで見た瞬間でした」

マルタ・ダバロスさん

ダバロスさんは86年に入会。“どうすれば幸せになれるのか”を模索し、さまざまな宗教を試したという。

その中でSGIに出合い、“幸せは、どこか遠くにあるのではなく、今いる場所でつかみ取るもの”という思想と実践に共感した。

ダバロスさんは、先生の著作等を学びながら、師を持つ喜びをかみ締めてきた。

「あの時、生涯、先生を求め、パラグアイ広布に生き抜くこと、そして、3人の息子を後継の人材に育てることを誓いました」

今、ダバロスさんの息子たちは全員、広布の最前線で活躍。次男のサムエルさんは、同国の青年部長を担う。

良き市民として

1993年2月20日、パラグアイの国際空港で池田先生を歓迎したアスンシオン市のカルロス・フィリソラ市長(右から2人目)ら。この日、先生に「市の紋章」が贈られた

空港では、アスンシオン市のカルロス・フィリソラ市長ら同国の要人も、先生の訪問を歓迎した。

そして直ちに空港内で、式典が開催されたのである。

フィリソラ市長は「アスンシオン市の名において、SGI会長の、ご訪問への私たちの喜びの象徴として」と述べ、歓迎の「市の紋章」の盾を先生に手渡した。

先生は「社会も国家も、一市民から構成されています。『一市民』こそ、最も大切な根本です。その『市民』の代表者に歓迎していただくことは計り知れない光栄です」と謝意を述べた。

“良き市民”を目指し、社会のために行動し続けてきた友の喜びもひとしおだった。