池田先生とブラジリア 19-10-27

学会活動こそ最高の幸福道

ブラジルの首都ブラジリアを初訪問した池田先生が、地域の公園でメンバーと記念撮影した後、真心の励ましを送る(1984年2月23日)

南米ブラジルの首都ブラジリア。計画都市のモデルとして区画整理された美しい街並みは、ユネスコの世界文化遺産に登録されている。本年は、池田先生のブラジリア初訪問から35周年。師匠と共に、幸福の人生を開いてきた友を紹介する。
陽光に照らされ、木々の緑が輝いていた。1984年2月23日、池田先生ご夫妻が、ブラジリアの代表600人と公園で記念撮影を行った。
66年以来、18年ぶり3度目となる先生の訪伯。ブラジリアへは、初の訪問である。
午後2時50分、先生は公園に到着すると、同志の輪の中へ。皆の後ろにいた鼓笛隊と音楽隊を見つけ、「前にいらっしゃい」と優しく手招きした。
記念撮影の後、軽快なサンバの演奏が披露された。先生は笑顔で呼び掛けた。
「ありがとう。皆さんの元気なお姿を見て、本当にうれしい。これからも、良き市民として、また良き社会人として成長し、これ以上に幸せな人生はない、という人生を生ききってください」
その言葉に、メンバーから「エ・ピケ、エ・ピケ、エ・ピケ、ピケ、ピケ!」と、感謝と誓いを込めた歓声が沸き起こる。先生は一人一人の目を見つめ、握手を交わした。
この記念撮影を機に、ブラジリア広布は加速していく。

同志に尽くす
鼓笛隊の一員として、記念撮影に参加したエウダ・オリベイラ・アウベスさん(分圏婦人部長)。「初めて池田先生とお会いしました。父親のような温かさを感じ、胸がいっぱいになりました」と述懐する。

幼少期から引っ込み思案な性格だった。16歳の時、両親が離婚。母と弟の3人で暮らした。同じ頃、人と会うことがつらくなり、人混みの中にいると呼吸が苦しくなったり、めまいを起こしたりすることもあった。「当時は原因が分かりませんでしたが、今思えば、パニック障害だったのだと思います」
心配し、足しげく家に通ってくれた幼なじみが、ブラジルSGIのメンバーだった。何度も座談会に誘われて断りきれず、“一度だけなら”と会合へ参加した。「初めて御本尊を拝し、題目を聞いた時、何とも言えない晴れやかな気持ちになったんです」
帰宅後、その感動を家族に伝えると、母も以前、座談会に行ったことがあり、しかもSGIに好感を抱いているという。2人で勤行・唱題を開始。81年5月、一緒に入会した。
程なくして、アウベスさんは鼓笛隊に入った。だが状況はすぐに好転したわけではない。健康への不安は消えず、練習にはいつも母が付き添った。
高校卒業後、定職に就けず、家に閉じこもる日々。“自分を変えたい”と懸命に題目を唱えた。徐々に前向きな気持ちになり、4カ月後、一人で練習に行けるように。念願だった就職も果たした。
先生との出会いを刻む頃は、社会の第一線で働くようになっていた。メンバーを包み込むように励ます師の姿に、自分も人のために尽くせるようになろうと決めた。
ブラジリアの女子部長などを務め、婦人部でもリーダーとして活躍。「自分が苦しんだ分、人の痛みが分かるようになりました」
先生の振る舞いを胸に刻み、同志の幸福のために全力を注ぐ。

師との記念撮影
池田先生のブラジリア滞在は1984年2月21日から23日までの3日間。この間、先生はフィゲイレド大統領をはじめ、外相や教育・文化相など政府の要人と相次ぎ会談した。
ブラジリアの同志は、先生の滞在期間中、自主的に集まり、諸行事の大成功を祈り続けていた。
リツコ・ナカヨシさん(総合方面婦人部総合長)は振り返る。「ブラジリアには会館がなかったため、青年部を中心に個人会場に集まり、真剣に唱題を重ねていました。仕事や学校を終えてから駆け付ける人も多く、題目の声が途絶えることはありませんでした」

その様子を聞いた先生は、少しでも同志を励ましたいと、当初は予定になかった記念撮影を提案した。
連絡を受けたメンバーは喜びに沸いた。そして急きょ、行われたのが、23日の記念撮影だった。
その折、先生は、いつの日かブラジリアに会館が建つことを念願した。
「先生の希望あふれる言葉に、皆が奮い立ちました」と語るナカヨシさん。鹿児島県出身の彼女は57年、家族と共にブラジル北部のベレンに渡った。一家で米や野菜の栽培を始めたが、思うようにいかなかった。
心機一転、ブラジリアへ転居。しかし、家が火事に見舞われるなど試練は続いた。
そんな時、近隣の友人から信心を勧められ、62年8月に実践を始める。
生活は貧しく、車もない。毎週開かれる座談会には、家族6人で1時間ほど歩いて通ったという。
その後、農家を諦め、家族で小さな青果店を開いた。ナカヨシさんは夜間大学に通いながら、店を手伝った。
73年に結婚。4人の子宝に恵まれた。84年の記念撮影には、子どもの手を引いて駆け付けた。
ナカヨシさんは師の励ましを支えに、仕事も、育児も、学会活動も、一歩も引かず挑戦。現在はスーパーマーケットの経営者となり、経済革命を成し遂げた。長年、ブラジリアの婦人部長を務め、友の激励に走り抜いてきた。
96年12月、ブラジリアの中心部にほど近い大使館街の隣接地に、念願だったブラジリア文化会館が落成した。
ナカヨシさんは胸を張る。「美しい白亜の会館は私たちの誇りです。自分自身の名前のように、皆と“仲良く”前進し、地域に希望の連帯を広げます」

後継の人材を
マリア・ダ・パス・オサムラさん(総合方面婦人部総合長)も、池田先生との記念撮影が“人生最高の誇り”となっている。



1977年に入会し、81年10月、壮年部員だった陽一さんと日本で結婚。夫婦でブラジル広布に尽くそうと決意を固めた。
渡伯する前、夫妻は池田先生と出会いを刻む。結婚の報告をすると、先生は喜び、「君たちのことは絶対に忘れないよ。ずっと一緒に戦っていくんだよ」と。陽一さんに「良きブラジル市民になっていきなさい」とエールを送った。
オサムラさんが結婚したのは39歳。卵巣のう腫を患っていたが、どうしても子どもが欲しかった。夫婦で祈る中、妊娠の兆候が。しかし喜びもつかの間、妊娠3カ月で流産――。
悲しみに沈む中で、師の励ましを思い返した。今こそ夫婦で乗り越えようと、懸命に唱題を重ね、学会活動に奔走した。
84年の記念撮影。師と再会した時、オサムラさんのおなかには新しい生命が。夫婦で“子どもを広布後継の人材に育てよう”と誓い合った。
5カ月後、42歳で長男を出産。翌年には、次男も誕生した。
だが、オサムラさんを試練が襲った。91年1月、夫が脳卒中で倒れ、急逝したのだ。
「長男の光一は6歳、次男の健治は5歳でした。女手一つで子どもを育てるのは想像以上に大変でしたが、亡き夫との誓いを果たそうと、ただただ成長を祈り続けました」
仕事をしながら、宿命転換を懸け、広布拡大に挑んだ。
96年にはブラジリアの婦人部長に。これまで個人で30世帯を超える弘教を達成。本年4月にも御本尊流布を成し遂げた。
息子たちは母の背中を見て、師を求める心を学んだ。兄弟ともに、ブラジルの大学を卒業した後、日本の創価大学大学院を修了した。
現在、兄弟は東京・八王子市に住み、長男の光一さんは区男子部主任部長、次男の健治さんは男子部大学校2期生として活躍。本年、それぞれ弘教を実らせた。
オサムラさんは声を弾ませる。「池田先生の激励のおかげで、私はこんなに幸せになりました。生涯、先生と共に、広布の道を歩んでいきます」

35年前の先生の励ましを原点に、ブラジリアの天地に根を張り、人間革命の功徳と実証の花を咲かせてきた同志たち。その「人間革命」即「社会貢献」の師弟の勝利を寿ぐかのように、ブラジリア連邦区から1998年7月、池田先生ご夫妻に「名誉市民証」が贈られている。その就任式で、先生は「この栄誉を、広宣流布への前進を大勝利させた全同志に捧げたい!」と。さらに、こう訴えた。
「私どもは、果たすべき『使命』が明確になっている。『広宣流布』という、全人類を幸福にする『最高の仕事』がある。この使命の道で苦労しながら、学会活動に励めることは、最高に『幸福』なのである」
師弟の絆で結ばれたブラジリアの同志の心には、歓喜の花が満開に咲き薫っている。