使命と大福運の人生を!

1993年、池田先生が4度目のブラジル訪問を。2月27日には「創価文化サンパウロ・カーニバル」に出席し、熱演の友を何度もたたえた(ブラジルSGI自然文化センターで)
池田先生の4度目のブラジル訪問は、1993年の2月から3月にかけてである。この年、先生はアメリカ、コロンビアを訪れ、2月9日にブラジルのリオデジャネイロへ。諸行事を終えた後、アルゼンチン、パラグアイ、チリを歴訪し、再びブラジルへと戻った。
サンパウロ州郊外のブラジルSGI自然文化センターを初めて訪問したのは2月25日。3月8日まで12日間にわたって滞在し、ブラジルの同志と固い絆を結んでいく。
2月27日に開催された南米総会では、参加者に力強く訴えた。
「題目は幸福の種です。種をまいてください。必ず芽が出ます。必ず大樹に育ちます」
「私も祈ります。毎日、祈っています。皆さまの健康、無事、長寿、大福運の人生を。だから安心して、一緒に、使命の人生を生き抜いてください」
母が残したもの
翌2月28日、自然文化センターで行われた南半球初となるSGI総会。ブラジルSGIが誇る「イケダヒューマニズム交響楽団」がこの日、正式に結成された。

交響楽団は、ブラジルの世界的作曲家アマラウ・ビエイラ氏が池田先生に捧げた交響曲「革新の響」を披露。演奏を聞き終えた先生は立ち上がり、真っ先に拍手を送った。「これほどまでに見事な演奏の陰で、どれほどの練習を重ねてこられたか――。どうか、これまでの努力のうえに、さらに精進を重ね、将来は、世界中を演奏旅行して回れる実力をつけていただきたい」
この時、チューバを担当したジョルジェ・マシエルさん(副分圏長)。

総会の2年前、最愛の母を病で亡くしていた。その後、父はマシエルさんたち3人の子どもを残し、家を出て行ってしまう。
悲嘆に暮れた。だが、悲しんでいる暇はない。弟、妹のためにマシエルさんは働かなければならなかった。「私には、母が残してくれた信心しかありませんでした」
必死に唱題を重ねる中、10年間で「起業家として成功する」「結婚し、幸せな家庭を築く」「家を建てる」との目標を掲げる。
仕事は多忙を極めたが、交響楽団の練習にも懸命に励んだ。地域行事に出演する機会も増え、アルゼンチンやパラグアイでの公演も実現。活動の舞台は大きく広がり、師の期待に応える楽団へと成長していった。
10年後、マシエルさんは自身が立てた目標を全て達成し、交響楽団の楽団長として来日を果たす。先生が見守る中、交響楽団に「芸術人道創立者賞」が授与された。マシエルさんは胸に手を当て、先生に深謝した。「師と心を合わせて戦えば、必ず道は開けるとの、揺るぎない確信をつかむことができました」
2005年2月、転勤によりサンパウロから700キロ離れたカタランへ。師との原点を胸に、地域の一粒種として信頼の根を張っていく。家族や隣人などを相次ぎ入会に導き、14年間で29世帯の弘教を実らせた。
カタランには09年にブロックができ、翌年に地区へ発展。14年には支部が誕生した。
マシエルさんは経営学の博士号を取得し、大学の講師に。教育の分野でも、未来を担う青年たちの成長に尽力している。
最後に勝つ
「自然文化センターでの池田先生の激励によって、数多くの同志が広宣流布の使命に目覚めました」と、ミゲル・シラトリさん(理事長)は笑顔で語る。
シラトリさんは2歳の時、父親が病気で他界。母親の再婚を機に、新しい父の紹介により一家で入会した。
だが、信心を教えてくれたその父も病で倒れてしまう。シラトリさんは大学を卒業し、司法試験に合格。弁護士資格を持っていたが、父の代わりに畑でくわを握った。

先生と初の出会いを刻んだのは、1984年2月のブラジル大文化祭。必死に家族を支えていた最中だった。
組み体操の5段円塔の責任者を務めたシラトリさんは、青年に万感の期待を寄せる師の姿に触れ、報恩の人生を固く誓う。
男子部本部長として訪問・激励と折伏に奔走し、2年間で120人の新たな活動者を輩出。86年に日本で先生と再会を果たす。「ここからの10年間が本当の戦いでした」

国自体が不安定な経済状況となり、生活は段々と苦しくなっていった。そのため、家族は日本に出稼ぎへ。残されたシラトリさんはイチゴ、ニンジン、キャベツなどを作り、愚痴一つ言わず一家を守り抜いた。「あの時は出口の見えない暗闇にいるようでした。つらくなるたび、先生との出会いを思い返し、歯を食いしばりました」
その後、経済苦を乗り越え、95年2月、ブラジルSGIの職員となった。
青年部長だった2001年7月、一冊の書籍が届く。先生の青年時代の激闘がつづられた『若き日の日記』の英語版だった。本の扉には、先生の直筆で、こう記されていた。
共に 広布の
青春時代を
栄光でつつまむ
「私の苦労を全て知ってくださっていた先生への感謝が込み上げ、一生涯、同志に尽くし抜こうと決意しました」
同年9月11日、アメリカで同時多発テロが起こった。折しも、シラトリさんは青年研修会で来日していた。
テロの影響で、ブラジルなど10カ国の同志が帰国できずにいた。
それを知った先生は翌12日、モンゴル駐日大使との会見後、東京の聖教新聞本社前でシラトリさんたちと記念撮影を。真心の励ましを送った。
「全員が必ず幸福になっていただきたい。若い時から恵まれ過ぎているのは、かえって不幸です。最後に勝つのが、真の勝利者です。これが仏法です。偉大なる広宣流布の指導者に成長していただきたい」
シラトリさんは一昨年8月、ブラジルSGIの理事長に就任。今、後継の育成に全力を注いでいる。
心で師と対話
第4次訪伯の際、池田先生はサンパウロ州の最高褒章「バンデイランテス勲章」やパラナ連邦大学の「名誉博士号」などを相次ぎ授与されている。その一方、諸行事の合間も休むことなく、同志を励まし続けた。
マリア・ジョゼ・デ・メロ・オリベイラさん(婦人部参事)は、自然文化センターで役員に就いた時、先生からねぎらいの言葉を掛けられた。
彼女は前年の12月、最愛の夫を亡くしていた。誠実な人柄で多くの同志に慕われていた夫だった。先生は「負けちゃいけないよ。ご主人のために、記念の植樹をするからね」と。後日、夫の功労をたたえ、同センターに桜の木が植樹された。
師の慈愛と真心に、彼女は奮い立った。広大な天地を使命の舞台と定め、ブラジル総合婦人部長となり、2004年7月、研修会で訪日する。
懇談会の折、先生はオリベイラさんを見つけると、優しく手を取って語った。「あなたのことは全部、知っているよ。これからも頑張ってね」
以来、リーダー率先でさらなる弘教拡大を決意。10年間で100世帯を超える御本尊流布を達成した。
ブラジルSGIが「支部50世帯の弘教」という目標を掲げた15年にも、対話の先頭を走った。
友人、知人はもちろん、かかりつけの医師や、病院の待合室で知り合った人、公園のベンチで隣に座った人など、ありとあらゆる人に信心の素晴らしさ、師匠と巡り合えた喜びを語っていった。その結果、1年間で52世帯の折伏を実らせた。
「師弟といっても、師の言葉を自分への指導と捉え、実際に行動に移せるかに懸かっています。これからも心の中で先生と対話しながら、広布と人材の拡大に挑んでいきます」
◇
池田先生は、これまでブラジルの最高勲章「南十字国家勲章コメンダドール章」を受勲しているほか、サンパウロ市など150以上の州・市から名誉州民・市民証を贈られている。また「牧口常三郎通り」「戸田城聖公園」「池田大作博士環境公園」をはじめ、創価の三代会長の名を冠した公園・橋・通りなどは国内で30を超える。
先生は後年、良き市民の模範と光るブラジルの友に呼び掛けた。
「すべて、わが敬愛する同志の皆さまの勝利である。私は熱い感涙をもって、『ブラジルは勝った! ビバ、ブラジル!』と叫びたい。ブラジルと日本は、地理的な距離は遠い。だが、同志と私の心は最も近い」
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