池田先生とサンパウロ① 19-09-15

今の刻苦は未来の栄光なり

ブラジルを初訪問し、サンパウロ市内を視察する池田先生(1960年10月)

明年は、ブラジル広布60周年の佳節。池田先生は、これまで4度にわたってブラジルを訪れ、メンバーを励まし続けてきた。同国の中心都市・サンパウロに刻まれた師弟のドラマを紹介する。
1960年(昭和35年)10月19日、池田先生を乗せたプロペラ機が、サンパウロのコンゴニアス空港に到着した。国際便のトラブルにより、35人乗りの小型機に乗り換えての初訪問となった。
米ニューヨークをたってから約13時間。予定より2時間も遅れ、時計の針は午前1時半を回っていた。だが、空港ロビーでは30人ほどの同志が学会歌「威風堂々の歌」を歌って出迎えてくれた。
先生は、かぶっていた帽子を胸に当て、最敬礼しながら、合唱を終えた友に感謝を伝えた。「ありがとう。遅くなってすみません。待ったでしょう」
日本の約23倍という広大な国土をもつブラジル。当時の会員は100世帯ほどで、入会間もないメンバーばかりだった。
3日間の滞在中、先生は寝る間も惜しんで、一人一人に励ましを送り続けた。20日には市内の座談会に出席し、海外初となる支部を結成している。
実は訪伯前、先生はアメリカで体調を崩していた。この年の10月2日から始まった初の海外指導は、北南米の3カ国9都市を24日間で回る強行軍。同行者からはブラジル行きを止められたが、決意は固かった。
「私は戸田先生の弟子です。行く、絶対に行く。もし、倒れるなら、倒れてもよいではないか!」
池田先生のブラジル訪問は、燃え上がる“師弟の誓い”から始まった。


移民船に乗って
池田先生が再びサンパウロの地を踏んだのは、66年3月12日のことだった。
5年半の間でブラジルは会員約8000世帯に発展。だが、2年前に軍事政権が実権を握って以来、国内では言論・思想統制の嵐が吹き荒れていた。学会にも誤解と偏見の目が向けられ、会合は警察の監視下で開かれた。
3月13日、先生はサンパウロ市立劇場で行われた南米文化祭に出席。その後、近くにあるパカエンブー体育館での集いに向かった。
タカコ・ミナミさん(婦人部参事)は振り返る。「体育館の至る所に警察官が立ち、物々しさを感じました。でも、先生が入場すると大歓声に包まれ、会場の雰囲気は一変しました」
ミナミさんは和歌山県出身。59年に家族で移民船に乗り、1カ月半かけてブラジルへ渡った。しかし待っていたのは、土ぼこりが舞う荒れ地だった。
養蚕業を営むが、収入はわずか。生活は厳しく、逃げるようにサンパウロへ。その時、知人から勧められ、64年12月に入会した。
内気な性格で、人と話すことが大の苦手。それでも幸せになれるのならと、片言のポルトガル語で折伏に何度も挑んだ。「初めてブラジル人の友人に弘教が実った時の喜びは、今も忘れられません」
地道に信心に励み、女子部、婦人部のリーダーを歴任。仕事では、綿糸会社で社長秘書を任されるなど、信頼を集めた。「今があるのは、全て先生の激励のおかげです。先生はブラジルの同志が来日した際にも多忙な合間を縫って、幾度も出会いをつくってくださいました。今度は、私が一人でも多くの人を励ましていきます」

大変な時こそ
パカエンブー体育館に集ったメンバーに、池田先生は訴えた。
「幸福を築き上げていくには、どうすればよいのか。それには、忍耐強い信心の持続です。ともかく題目をあげきることです」

ヒデオ・モリシタさん(参議会参議)は「先生の確信の声に奮起し、今日まで不退転の信心を貫いてくることができました」と感謝する。
サンパウロ出身の日系人。父親はコーヒー栽培をしていたが、干ばつに見舞われ、転職を余儀なくされた。9人の子どもを養うため、飲食店を開業。モリシタさんも店を手伝ったが、暮らしは貧しかった。
「貧乏も病気と同じ宿業の一つ。乗り越えるには、信心で福運を積むことだ」との友人の言葉を信じ、65年7月に入会。「でも、なかなか宿業を乗り越えることはできませんでした」

88年、ペット用品の専門店をオープン。98年ごろから業績が落ち込み、倒産の危機に。多額の負債を抱えた。心労のためか、髪は真っ白になっていた。
当時、分圏長だったモリシタさん。先輩から「大変な時こそ、家庭訪問に徹することだ」との激励を受け、同志のもとへ足しげく通った。時には、一人に会うために片道250キロの道のりを車で走った。
その中で、自分と同じように悩みを抱える友がいることを知った。気付けば、訪問軒数は2年間で320を超えた。
2000年10月、SGI研修会のために来日し、師匠との出会いを刻む。
先生はモリシタさんを見るなり、「年齢はいくつだい?」と尋ねた。「51歳です」と答えると、「そうか。あなたのことは全部、知っているよ。いい髪の毛をしているね。博士みたいだ」と。そして「頑張りなさい」と言葉を続けた。
モリシタさんは胸が熱くなった。
「先生は、私の苦しみや戦いを全部、分かってくださっている。そう思ったら、肩の荷が、すーっと下りていくようでした」
帰国後、毎日2時間の唱題を実践。創意工夫を重ねる中、業績は右肩上がりに。7年後に負債を完済し、一昨年には100人を収容できる個人会館も建てることができた。
昨年は、2世帯の御本尊流布を達成。本年3月からは、副地区部長として広布の最前線を駆ける。

御本尊中心

カツエ・ハセさん(婦人部参事)も、ブラジル広布の開拓者の一人である。
島根県で生まれ、1956年に一家でブラジルへ。コーヒー農園で働き始めた。
容赦なく照り付ける太陽の下で、両親は毎日、鍬を振るった。慣れない土地での過酷な労働に耐えきれず、サンパウロ近郊に転居。野菜を売って、ほそぼそと生活していた。
当時14歳のハセさんも、覚えたてのポルトガル語を使いながら、アルバイトなどで家計を支えた。
ハセさんは経済苦を乗り越えたいと、66年2月に入会。真剣に祈る中、貿易会社に就職することができ、初信の功徳を実感した。
80年11・12月、ブラジル婦人部を代表して研修会で日本へ。東京・千駄ケ谷の国際センター(当時)にいると、池田先生を乗せた車が到着した。
先生はハセさんらに声を掛け、「懇談しよう」と提案。外の芝生の上にパイプイスが並べられ、先生を囲んでの“青空座談会”が始まった。
一人一人の近況を聞いた後、先生は言った。「海外での生活は大変だ。知恵を振り絞って経済革命してね。何があっても御本尊中心だよ」
懇談が終わると、共に記念撮影。「後で写真を送るからね」とほほ笑んだ。
翌年5月、ハセさんは相次ぎ試練に襲われた。母親が脳梗塞に倒れ、半身不随に。車いす生活を余儀なくされた。
その後、父親も糖尿病の合併症によって左足を切断。ハセさんは両親を介護しながら、仕事と学会活動に奔走した。
師の励ましを支えに42年勤めた職場を定年退職。今は、ブラジル佐賀県文化福祉協会の事務局長として活躍する。「介護の経験も、友を励ます肥やしになっています。激励し続けてくださった先生に感謝は尽きません」
ハセさんは、師との記念写真を目にするたび、ブラジル広布の誓いを新たにしている。

後年、先生は長編詩「世界の王者たれ! ブラジル」を詠んだ。それは苦闘に負けず、信心を貫いてきた同志への賛歌であった。

一番
苦しんでいる人の
味方になって戦う
勇敢なる
人間主義者であれ!

行動だ!
「今」という
現在に
生ききることだ。
現在の
この瞬間にこそ
永遠が脈動して
いるからだ。

足跡を残すことだ!
自分自身の
常勝の歴史を
刻みゆくことだ!
今の刻苦は
即 未来の栄光なり。
君が歩んだ分だけ
新世紀の道が
拓かれるのだ。