創価のルネサンスの光彩を

21世紀を担うのは君たち――ハーバード大学で講演した翌日、池田先生ご夫妻がボストン会館(当時)を初訪問。出迎えた未来部メンバーを激励した(1991年9月27日)
アメリカの歴史と知性の街ボストン。池田先生は1991年と93年の2度、この地を訪れている。ボストンに輝く広布史と師弟のドラマを追った。
「世界に征くんだ」
1960年(昭和35年)10月2日、第3代会長に就任したばかりの池田先生は、戸田先生の遺言を胸に、北・南米へ旅立った。
上着の内ポケットには、恩師の写真が大切に納められていた。
アメリカでは、ハワイ、サンフランシスコ、シアトル、シカゴ、ニューヨーク、ワシントン、ロサンゼルスを歴訪。異国の地で生活する同志の心に勇気の灯を点じることから、世界広布の火ぶたが切られたのだ。
ボストンで本格的な妙法流布が始まったのは、その数年後のことである。
無名の開拓者
ボストンから車で南へ約1時間。ロードアイランド州コベントリーで暮らす92歳のテルコ・ラングウェルさんは、草創メンバーの一人である。
63年に青森で入会。その後、東京で行われる会合に駆け付け、池田先生との出会いを何度も刻んだ。
「将来、世界中で座談会が開かれるようになる」。青年会長の確信の声に、胸を躍らせたラングウェルさん。やがて基地で働くアメリカ人と結ばれ、海を渡ったのは69年のことだった。
当時、ボストン一帯で活動していた日本人のメンバーは数えるほど。彼女たちの励みになったのは、先生が草創の友に示した三指針――「市民権を得て良き市民に」「自動車の運転免許を取る」「英語のマスター」だった。
ラングウェルさんは、すぐに免許を取得し、来る日も来る日も学会活動に明け暮れた。生来、病弱で子どもを産めなかった分、青年たちをわが子だと思い、大切にした。貧しい大学生たちも多い。よく家に招き、手料理をふるまった。
「いつか必ず、先生をボストンにお迎えしたい。この素晴らしい若者たちを見ていただきたい――その一心でした」
その願いが実現したのは、22年後のこと。91年9月24日、池田先生が、ロサンゼルスから空路、ボストンに降り立ったのである。
先生は多忙な行事の合間を縫い、一人一人に励ましを送った。
後継の未来部員にも“お父さんやお母さんに叱られないように、しっかり勉強してください”と、ユーモアを交えて語り掛ける。役員としてその場に居合わせたラングウェルさんは、先生が青年たちと触れ合う姿を、後方でじっと見つめた。
「あの日の感動は生涯、忘れることはありません。命の限り、アメリカ広布にこの身をささげていく決心です。それが先生との誓いですから」
先生が予見した通り、今、世界中で“ザダンカイ”が行われる時代が到来した。コベントリーの集いは、いつもラングウェルさんと青年たちの笑顔であふれている。
◇
60年に福岡で入会したハルコ・ハリソンさんは、空軍に勤める夫と共に3人の子を連れて64年にアメリカへ。一家和楽を誓い、異国の地へと移住した。
だが、夫は肺結核になり、30代で歩行困難に。代わりにハリソンさんが料理人として働きに出た。家計は厳しく、氷点下になる冬もガス代が払えず、お湯さえ満足に使えない月日もあった。自暴自棄になった夫は、何度も命を絶とうとした。
娘のマーガレットさん(圏婦人部長)は思い返す。
「それでも母は、“これは私の人間革命の戦いなのよ”と御本尊に向かっていました。何時間も、お題目を唱えていました。わが家にとって、学会の会合が唯一、心が温まる時間でした」
逆境の中でも、ハリソンさんは弘教に歩いた。語学力は十分ではなかったが、「ナンミョウホウレンゲキョウ」「ブッダ」「ベネフィット(功徳)」の単語を駆使し、身ぶり手ぶりで仏法を語っていった。
池田先生の2度目のボストン訪問(93年)の折、ハリソンさんは、夫と6人の娘たちで撮った家族写真を届けた。すると先生から、“お写真ありがとう。とても美しいご家族の皆さんですね”との真心の伝言が。「今も一家の宝として大切にしています。先生は、全部分かってくださっている。本当に私たちは幸せです」
夫は亡くなる前に一層発心し、一家は経済苦も全て乗り越えた。ハリソンさんは現在、がんとの闘いの真っただ中。それでも「なぜ、いつも幸せそうなのですか」と尋ねてきた医師に仏法の確信を朗らかに語っている。
「“パイオニアの皆さんは、100歳まで長生きしてください”って、池田先生がおっしゃいましたから、絶対に負けません。“ああ、今日も先生と一緒に戦える”って、感謝の毎日です」
無名の開拓者たちの胸に宿る“信仰の炎”は、今も燃えている。
師弟の思い出
スティーブ・サパスティーンさん(副方面長)は73年に入会。街で知り合った人から、「仏教の会合に来てみないか?」と誘われたのがきっかけだった。
「大学を卒業後、進むべき道が分からず途方に暮れていました。インド、イスラエル、フィンランド、デンマークなどを旅し、帰国した矢先に声を掛けられたんです。仏教に興味を持ち始めていた時で、翌朝から題目を唱えました」
ベトナム戦争が泥沼化し、価値観が揺らいでいた時代。ヒッピーの全盛期が終わり、さまざまな新興宗教が青年たちを取り込んでいた。現実逃避する若者も増えていた。
ある日のこと。サパスティーンさんは、家族に信心のことを理解してもらおうと、実家にSGIの機関紙を置いて帰った。
後日、父親から電話が入った。
「家にあった新聞を読んだよ。ところで今、池田先生は何をされているんだい? この方と一緒に進んでいけば、きっと間違いないだろう」
生命力を高め、可能性を開き、社会に貢献する――初めて聞く「人間革命」の運動には、確かな哲理があった。サパスティーンさんの周囲では、創価の哲学への共感が広がっていった。
「まさにこれ以上ないタイミングでした。当時の青年たちは、ある意味で社会の犠牲者でした。希望を失っていた。そこへ日本人の婦人たちがやって来て、素晴らしい仏法を教えてくれたのです」
ボストンでは青年世代のメンバーが続々と誕生し、サパスティーンさんたちは、雨の日も雪の日も対話の先頭に立った。草創の婦人たちは、おにぎりを作って応援してくれた。
91年、青年部のリーダーとして、諸行事の運営役員を務めたサパスティーンさん。ボストン会館(当時)を訪れた池田先生が語った言葉を、胸に深く刻んできた。
「先生は、壁に掛かっていた大きな時計を指して、こう言われました。“この時計には、この部屋は少し小さいかもしれないね。いつか皆さんの手で、この時計にふさわしい会館を建てようよ”と。いつの日か、先生の期待にお応えできる青年の陣列をもって、広布の宝城を築く――これが先生との誓いになりました」
2016年、ボストンの同志が集い合う「ニューイングランド会館」が完成。その一番大きな部屋に、“師弟の思い出”が詰まったこの時計が掛けられている。
確かなる軌道
ボストンを初めて訪れた池田先生は、翌日の9月25日から、一級の学識者たちと会見を重ねていった。そして、メンバーが感動に胸を震わせる“出来事”が起きた。
ボストン近郊に立つ世界的名門・ハーバード大学のケネディ政治大学院で、先生が「ソフト・パワーの時代と哲学」と題し、講演を行ったのである(9月26日)。
89年に冷戦が終結し、講演の3カ月後にはソ連が崩壊するという時代の転換期。歴史の動因は、軍事や権力、富といった「ハード・パワー」から、知識や情報、文化などの「ソフト・パワー」に移っていた。先生は、仏法の「縁起」の思想に触れつつ、内発的精神に支えられた「自己規律」が求められていると訴えた。
講演は、時代の要請に応えるものだった。後にアメリカ国防長官を務めたアシュトン・カーター教授は述べている。「ソフト・パワーへの時流を確たるものにしなければならない」と。
当時、総合方面婦人部長だったキャサリーン・オレスキーさん。73年、大学生の時に入会し、草創の女子部として活動に励んできた。
先生を迎える直前、オレスキーさんは突然の関節リウマチを発症。加えて、夫のビジネスが苦境に陥った。子育てをしながら、寝る間も惜しんで諸行事の準備・運営に奔走していた。
「先生の講演は、私たちにとって新しい目覚めでした。視野が世界に広がり、自分たちの偉大な使命に目を見開いた瞬間だったのです。悩みも一気に吹き飛びました」
講演の翌日、さらなる喜びのニュースが。先生が、諸行事が大成功で終わった感謝を込め、ボストンのメンバーに詩を贈ったのだ。
わがボストンの
妙法の哲人たちよ
新しき
創価の
ルネサンスの光彩を
鮮烈に 力強く
輝かしてくれたまえ
詩には、「開拓」と「自由」と「平等」の原点の地・ボストンに生きる久遠の地涌の同志たちへの、限りない期待がつづられていた。
オレスキーさんは、先生が出席した会合で誓いを語った。「わがボストンに、全米一、世界一の麗しい“人間共和のスクラム”を築いてまいります!」
以来、自身の宿命転換に挑み、広布の先頭を走った。病も完治し、経済苦も乗り越えた。3人の子どもたちも立派に成長し、一家で広布の道を進む。
◇
池田先生の初訪問から2カ月後の91年11月28日、学会は宗門から「魂の独立」を果たす。その報は、ボストンの地でも喜びとなって広がった。自由の天地で、広布の新章が始まりを告げたのだ。
先生は、ボストンの同志への詩で詠んでいる。
この愉快な共進を
陰湿な妬みの徒に
断じて邪魔させては
ならない
人間のための宗教
生活のための信仰
幸福のための組織
この確かなる軌道を
迷いなく
また ためらわず
堂々と
そして聡明に
進みゆくことだ
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