今いる場所で勝ちゆけ

ボリビアに広がる歓喜のスクラム! 国内各地から集ったSGIの友が誓いのカメラに(昨年12月、サンタクルスのボリビア文化会館で)
日本から1万7000キロ離れたボリビアで広布に走る同志の幸福を祈り、池田先生は折々に激励の書や伝言を贈り続けた。
「いつまでも いつまでも 学会精神を忘るな」(1967年)
「人の批判するは その人の自由であり 私は私の信条のもとに ただ行動をもって進みたい」(74年)
さらに、日本や訪問先のブラジルなどで直接、友と会い、渾身の励ましを送っている。
75年、一時来日した女子部員には、次のように語った。
「ボリビアの創価学会は、お父さんやお母さんたちが築いてくれた。若い世代が仲良く、団結して守りなさい。楽しくね。朗らかにね」「どんな境涯になっても、御本尊だけは裏切らないよ。どんなことがあっても幸せになりなさい」
価値ある人生を
世界広布30周年を祝して埼玉で行われたSGI総会(90年9月)。会場には海を越えて集ったボリビアSGIの代表の姿もあった。
席上、池田先生は、遠来の友をねぎらい、万感を込めてスピーチした。

「皆さま方が、時間的にも経済的にもどれほど苦労し、やりくりをしながら、来日されたことか。私はよく存じ上げているつもりである」「人々の幸福のため、また自身の三世永遠に崩れぬ幸福を築きゆくために、日夜、戦い続けていく――その人生ほど、価値ある人生はない」
この場に参加していたミドリ・タケイさん(婦人部長)。「当時は2人の幼子を抱え、経済的にも厳しい状況でした。先生の真心に触れ、“師匠は、全て分かってくださっている”と、感動で胸がいっぱいになりました」
題目根本に病を乗り越えた母から信心の大切さを学んだ。15歳で父を失うが、創価家族の励ましに力を得て、悲哀を克服。結婚後、幼い子どもを連れて激励に歩き、創価の女性のスクラムを広げてきたことは黄金の思い出だ。
昨年1月、ボリビアSGIの婦人部長に。「ボリビア婦人部のモットーは“常に師と共に!”です。小説『新・人間革命』を人生の規範として、師弟共戦の新しい歴史をつづります!」
ドローレス・ヤマシロさん(婦人部方面幹事)も、タケイさんと共にSGI総会に参加した一人である。
その前日に開かれた懇談会では、海外の同志を温かく包み込む池田先生の振る舞いをまぶたに焼き付けた。

幼少期に最愛の母を亡くし、孤児院で育った。その後、働きながら学び、学生時代に知り合った夫と結婚。子宝にも恵まれたが、ある日突然、夫が蒸発してしまう。
食事にも事欠くどん底の中で、沖縄出身の義母から仏法の話を聞いた。「南無妙法蓮華経の題目を唱えれば、必ず乗り越えられるよ」。そう言い切る確信に打たれ、祈り始めた。
同時に、義母から焼きそばの作り方を教わり、小さな食堂を開店。席は四つしかなく、数日間、客が入らない日もあった。
しかし、題目を唱えると、明日への活力が湧いた。さらに、障がいの影響で、毎日服薬していた長女が、薬を飲まずに生活できるように。信心の確信を得て、88年に御本尊を受持した。徐々に食堂の客足も増え、収入も安定。経営が軌道に乗り始めた頃、夫が戻り、一家和楽が実現した。
これまで日本、ブラジル、アメリカで先生との出会いを重ねてきたドローレスさん。13年前には、1階はレストラン、2・3階は自宅、4階に広布の会場というビルを建てることができた。5人の子も、婦人部の合唱団や鼓笛隊に所属し、広布の後継者に。
これまで30世帯以上を折伏。大統領夫人が出席したSGIの女性の集いで、信仰体験を披露したこともある。
「現在、6人の友が会合に参加してくれています。信心は一生涯です。いつまでも対話に、友の励ましに歩み抜いていきます」。その表情には“価値ある人生”を生きる喜びがあふれている。
もう大丈夫だ
93年2月、池田先生は50カ国目の訪問国となるチリへ。役員として駆け付けたトシヒロ・ナカジマさん(壮年部長)は「ボリビアの皆さんにくれぐれもよろしく伝えてね」との先生の言葉を忘れない。

火の国・九州の熊本出身。19歳の時に母の紹介で入会した。“海外に雄飛したい”との夢を抱き、大学時代にペルーへ留学。卒業後は、ボリビアに工場を持つ建材メーカーに就職し、89年にサンタクルスへ赴任した。後に縁あって国際機関の現地支社に転職。SGIでは、同国の男子部長などを歴任してきた。
2003年10月、海外の代表らによる協議会が日本で開催。先生はナカジマさんのもとに歩み寄り、ほほ笑みながら声を掛けた。
「何年になったね?」
質問の意図が分からず、戸惑うナカジマさんに先生は再び、「ボリビアに行って、何年になったね?」と。
「14年です!」
慌てて答えると、先生は力強くうなずき、「そうか。もう大丈夫だね。心配ないね。君のことは全部分かっているからね」。
そして、懇談の後には部屋の一角にあったピアノに向かい、父子の誓いの曲“大楠公”を奏でた。
“一人の青年の行く末をここまで見守ってくださるのか”――ナカジマさんの胸に、熱いものが込み上げた。
その後、勤務する事務所が閉鎖となり、職を失う寸前になったことも。だが強盛に祈り抜く中で、さらに専門的に国際協力の舞台で働けるようになり、苦境を打開。同国の教育や保健衛生の発展に尽力してきた。
ナカジマさんの紹介で入会した妻のミスズさんは現在、ロス・アンデス方面の婦人部長。これまで夫妻で23世帯の弘教を実らせてきた。長女・ミツコさんは同方面の女子部長を務め、長男・エイイチさんはイギリスの大学で英知を磨く。
「誉れの池田門下生としてボリビアの同志と共に、創価の連帯を広げていきます!」
悪条件を嘆くな
共戦の魂光る同志の奮闘によって、ボリビア広布の裾野は着実に広がっていった。
1990年代に入ってからは、展示や講演会を通して、社会に人間主義の精神を発信。そのテーマは「環境」「女性」「核兵器廃絶」など多岐に及んだ。
ボリビアSGIのカツオ・タケノ理事長は振り返る。

「“池田先生の思想を伝えたい! そのためには、どんな小さな村にも行こう”という決意でした。その結果、社会に“SGIとはどんな団体なのか。ダイサク・イケダとはどのような人物なのか”といった関心が少しずつ高まっていったのです」
タケノさんは61年、長崎の諫早から一家でボリビアに移住。ジャングルを開拓し、生活の礎を築いたサンファンでの苦闘を知る一人でもある。
ラパスの高校を卒業して日本へ戻り、大阪で商社に就職。“常勝関西”の男子部で信心を磨いた。
81年、ボリビアへ帰国し、自動車部品の販売会社を起こす。机一つ、電話一つから出発し、悪戦苦闘を経て、着実に業績は向上。SGIでは青年部長として、全土を奔走した。
93年、バーリエ大学からの「名誉博士号」を皮切りに、ボリビア各界から先生への顕彰が相次ぐように。その数は国家勲章を含め100を大きく超える。それは“良き市民”として社会に尽くしてきたボリビアSGIに対する信頼の証しでもある。
先生は尊き友をたたえ、「貴国の繁栄、ボリビアSGIの発展、全同志の御活躍と御長寿を祈りつつ」との言葉と共に、タケノさんに和歌を詠み贈った。
ボリビアの
偉大な指導者
君ありて
広宣流布の
友を守れや
「あまりにも深い慈愛に心から感動しました。改めて、ボリビア広布に生涯をささげようと誓った原点です」
ボリビアSGIのスクラムは今、57年前の支部結成当時の70倍に拡大。メンバーは全9県に誕生している。
かつて池田先生は、同国の広布草創の父母たちの労苦をたたえ、随筆につづった。
「自転車や馬に乗り、数十キロの道を越えて弘教に走った。しかし、ジャングルを開墾する斧を振り上げられ、追い返された日もあった」「悪条件を嘆いても、絶対に広宣流布はできない。今いる場所で勝つしかないのだ! 自分が変わった時、環境も劇的に変わる。それが『人間革命』の法則である」
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