池田先生とボリビア ① 19-03-02

未踏の原野を切り開け

ボリビア広布の源流の地サンファンで、希望の哲学を語り広めるSGIの友(昨年12月)

南アメリカ大陸の中心に位置し、“南米の心臓”と呼ばれるボリビア。同国の広布の歴史と創価の師弟のドラマを紹介する。
池田先生を中心に広がった世界広布の大潮流。その草創期には、どの地にあっても、未踏の原野を切り開く、血のにじむような苦闘の歩みがあった。
ボリビアも、その一つ。そして、ここは文字通り、広布と人生の開拓が一体となって進んでいった国である。
本年は、ボリビアに初めて日本人が移住して120年。当時のアマゾン地域は、空前の天然ゴムブームに沸いていた。
その中で、日本人がたどり着いたのは、ゴムの集積地があった同国のベニ地方。1899年の9月のことである。
戦後も多くの人々が南米諸国へと渡るが、日本と最初に移住協定を締結したのがボリビアだった。
だが、「一家族当たり五十町歩(約50ヘクタール)分けてもらえる」という好条件に胸を躍らせ、遠い異国の地を踏んだ日本人移民を待っていたのは、「原野」ならぬ「密林」だった。
道も、電気も、水道もないジャングルの大木を切り倒し、農地へと変えていく重労働の毎日――。
ボリビア広布もまた、沖縄や長崎などから海を渡り、ゼロから生活の基盤を築いた日本人会員が中心となって始まった。

団結第一
マサコ・カミヤさん(婦人部参事)が日本を発ったのは、1961年2月。16歳の時だった。
「高校生で、“親よりも友達が大事”というくらい、多感な時期でした。さんざん駄々をこねて抵抗しましたが、家族と一緒に泣く泣く移住船に乗ったのです」
日本人の移住地は、主に二つ。沖縄出身者が切り開いた「オキナワ」と、北海道から鹿児島までの人々が集まった「サンファン」である。カミヤさん一家は、サンファンで生活を開始した。
翌62年11月、ボリビアに支部が結成。2地区50世帯からのスタートだった。
日本で入会していたカミヤさんも、女子部の活動に励んだ。「夢も希望も、何もない中で、和気あいあいと語り合える学会の会合だけが、唯一の楽しみでした」
同志の家と家は数十キロも離れていた。馬に乗って激励に、弘教にと歩いた日々。移住地に1部だけ届く聖教新聞を、皆ですり切れるまで回し読みした。
無理解の反発もあった。学会員という理由で、不当解雇された人や、給料が支払われない人もいた。
「でも、何があっても同志は立ち止まりませんでした。苦しい時は題目。どんな時も題目。その中で少しずつ信心の実証が現れ、徐々に信心したいという人が出てきたのです」
カミヤさんは、その後、ラパスに移り、日本語の家庭教師として働きながら、地域で初めての女子部員として広布に走った。
74年3月、池田先生が隣国ペルーを訪問。この折、ボリビアからも、代表メンバーが喜び勇んで駆け付けた。
先生はボリビアの同志と共に勤行。「みんな、よく来たね。仲良く頑張ってね」。この「仲良く」という言葉を2度、3度と繰り返し、一人一人を優しく包み込んだ。
カミヤさんにとって、これが初めての先生との出会いだった。 「あの言葉は今でも耳朶から離れません。先生が教えてくださった団結こそ、ボリビア広布の根本です」
この年の5月、ボリビアSGIは法人認可を取得。広布の勢いは増していく。
やがてカミヤさんは結婚し、32歳でボリビアの婦人部長に就任。3人の娘を育てながら全土を東奔西走した。
ある時は、何十キロも歩いてメンバーのもとへ。またある時は、バスに揺られ、たった一人の同志が活動する地方都市に向かうこともあった。
「大変であればあるほど、決まって『一人を大切に』との先生の言葉が頭に浮かびました。“先生ご自身も、会員のいない国々で、地涌の菩薩の出現を祈ってこられたじゃないか”――そう思って自分を鼓舞し、胸中で題目を唱えました」
会員がいない地域に第1号のメンバーが誕生し、御本尊を安置できた時の感動は、昨日のことのように覚えている。
広布の誓願を胸に、これまで自身のがんなど、幾多の宿命の嵐を乗り越えてきたカミヤさん。
生後間もない頃の大病の影響で、歩行や会話に障がいが残った長女は元気に歩けるようになり、はつらつと学会活動に参加するまでに。次女はブラジルで薬剤師として、三女は国内で歯科医として、社会に尽くしている。
「常に目の前の一人を大切にしながら、報恩の人生を貫きます」と語るカミヤさんの笑顔は、太陽のように明るく輝いている。

必ず幸せに!
ボリビア広布に身をささげてきた偉大な開拓者たち。
その一人、タケオ・ヒガさん(方面幹事)は沖縄の出身。1954年、約270人の第1次移民団の一員として、ボリビアへ渡航した。
「うるま移住地」に入ったが、用意されていた住宅は、屋根も壁も不十分な丸太小屋。飲み水にも事欠いた。加えて、原因不明の疫病が流行し、ヒガさんの弟が命を落としてしまう。
一家で別の移住地に移ったヒガさんは、同郷のミツコさん(婦人部参事)と結婚する。“弟の分も”と、心機一転を期していたが、父も病にかかり、自身も病床に。農業にも失敗してしまった。
初めて仏法の話を聞いたのは、そんな絶望の淵に立たされていた時だった。
生きる希望を失いかけていたヒガさんに、サンファン移住地からやって来た学会員は言った。「必ず幸せになれます!」と。
その言葉に心動かされ、65年に入会。題目を唱えると知恵が湧いた。さまざまな工夫を凝らす中で収穫高が上がり、生活も少しずつよくなっていった。
さらに子育てと内職による多忙から体調を崩していたミツコさんも、学会活動の中で、いつしか健康な体に。“この御本尊はすごい!”――夫婦で確信をつかんだ。
経済革命を果たしたヒガさん夫妻は、日本で幾度も師との出会いを結ぶ。“持続の信心が大事だよ。どんなことが起ころうが、信心さえ貫いていけば、必ず幸せな境涯になる”との激励は、人生の指針だ。
その後、日本企業に就職し、71歳まで勤め上げたヒガさん。5人の子は皆、結婚し、ボリビアやペルー、日本で、それぞれ広布後継の大道を歩んでいる。
心に刻む御文は「月月・日日につより給へ」(御書1190ページ)。持続の信心の確信が、同志を励ます力になっている。

真面目な信心を
ケンタロウ・ナグモさん(方面幹事)も、62年に一家でボリビアへ移住した。
長崎の「軍艦島」の通称で知られる端島の出身。さまざまな宗教を遍歴した後、“題目の響きに引かれた”という母と共に、58年に入会した。
サンファン移住地に入り、経済苦の中で信心に励むようになったナグモさん。その後、ブラジルへ約2年、出稼ぎに。そこでもSGIの会合に参加し、求道の炎を燃やした。
ボリビアに戻ってからは、ラパスで通信関係の会社に就職する。
ある日、会社の野球チームの練習中、ボールが額を直撃。頭蓋骨が陥没する大けがを負う。すぐに緊急手術。医師は“あと1センチずれていれば命はなかった”と。わずか2週間で職場復帰することができた。
「転重軽受」の法理をかみ締め、学会活動にも一層、力が込もった。
当時、ラパスのSGIメンバーは4、5人ほど。ナグモさん自身も年間の大半が出張という状況だったが、信心からは一歩も引かなかった。地区部長、支部長を務め、着実に広布の水かさは増していった。
大切にしている指針は“真面目に信心に励めば、50代、60代で揺るぎない境涯を築くことができる”との師の指導。池田先生がブラジルを訪問した93年には、ナグモさんも現地へ。一人一人を抱きかかえるようにして励ます師の雄姿をまぶたに焼き付けた。
20年ほど前、会社を退職し、ラパスでホテルを開業。地域で評判の宿として信頼を広げていった。
そんなナグモさんを突然の悲劇が襲ったのは5年前。事故で長男を失ったのだ。
深い悲しみに沈むナグモさんのもとに、池田先生から温かな励ましの伝言が届く。師の真心に涙を拭い、“息子のためにも、絶対に負けない”と前を向いた。
「どんな時も信心をおろそかにしたことはありません。生涯、先生と共に広布に生き抜きます。それこそが、息子が喜んでくれる道だからです」
そう語るナグモさんは、2支部に発展したラパス広布の拡大へ、後継の人材育成に走っている。
――師弟の誓いに燃えるパイオニアたちによって蒔かれた妙法の種。それは、90年代に入り、ボリビア全土で大きく花開いていく。