池田先生とケニア ①

新しい哲学で新しい伝統を

ケニアを含む51カ国・地域の代表が集った第1回「世界平和会議」。席上、SGIが結成された(1975年1月26日、グアムの国際貿易センタービルで)


池田先生とSGIメンバーの出会いをつづる「虹を懸ける」。今回は、アフリカ・ケニアに輝く師弟のドラマを紹介する。池田先生が第3代会長に就任した1960年は「アフリカの年」と呼ばれる。この年、アフリカに17の新国家が誕生。大陸の地図は次々と塗り替えられ、各地に独立の旗が翩翻とひるがえった。
10月。初の海外平和旅でアメリカを訪れた先生は、ニューヨークの国連本部へ。
そこで見たのは、国連に新加盟したアフリカ諸国の若きリーダーたちの雄姿だった。


遠い未来に思いをはせ、先生は言った。
二十一世紀は、必ずアフリカの世紀になるよ。その若木の生長を、世界はあらゆる面から支援していくべきだ」


当時の模様は、小説『新・人間革命』第1巻「慈光」の章に詳しく描かれている。
この直前、先生の姿は北海道の厚田にあった。6年ぶりに訪れた恩師・戸田先生の故郷。胸中には、在りし日の師が、厚田の浜辺で語り残した言葉が響いていた。
「この海の向こうには、大陸が広がっている。世界は広い。そこには苦悩にあえぐ民衆がいる」
「東洋に、そして、世界に、妙法の灯をともしていくんだ。この私に代わって」

苦悩する世界の民衆に妙法の灯を!

師の構想を実現せんとする弟子の誓いが、明々と燃え上がった。

一人立つ精神

ケニアで広布の活動が始まったのは、10年後の70年である。

仕事で駐在していた日本人会員が、現地の友を折伏したのがきっかけだった。

自宅の警備を任されていたジョージ・ジュグナさん(ケニア参与)が家族ぐるみで親しくなり、自然と仏法対話に。すると、宿命転換の法理に興味を抱いた妻のジョイスさん(支部婦人部参与)が、まず題目を唱え始めた。

それから2カ月がたち、ジュグナさんも唱題を実践するようになった。少しずつ信仰の確信を得ていった二人が“一粒種”となり、紹介者が日本に帰国してからも、一人また一人と仏縁を拡大。会員数は5年で30人を超えた。

時あたかも、75年1月26日にグアムで第1回「世界平和会議」が開催されることに。アフリカからも代表が参加する運びとなり、ジュグナさんもその一人に選ばれた。

アフリカの友はグアムに向かう途中、立ち寄ったロサンゼルスで池田先生と忘れ得ぬ出会いを結ぶ。

先生は食事を共にしながら、各国の文化や国民性、さらには仕事や家庭の状況などに耳を傾け、渾身の励ましを。“一人立つ精神に立ち、強き生命力で前進していってほしい”と訴えた。

そして、新しい哲学で新しい伝統を築こうとする努力の歩みをたたえつつ、「題目をあげ、福運を積み重ねていくならば、将来、人生の開花は間違いありません」と述べ、一人一人の前途に期待を寄せたのである。

1月26日は、世界51カ国・地域の同志が集い合い、全参加者の総意で先生がSGI会長に就任。喜びに包まれる中、式次第は代表のあいさつに。ジュグナさんも登壇し、仏法の慈悲の哲理を根底に、アフリカの諸問題の解決へ挑みゆく決意を述べると、賛同の拍手が送られた。

席上、先生は力を込めて呼び掛けた。

「皆さん方は、どうか、自分自身が花を咲かせようという気持ちでなくして、全世界に妙法という平和の種を蒔いて、その尊い一生を終わってください。私もそうします」

この訪米中、先生はアフリカの友に「下種拡大」「人材育成」といった具体的な広布の展望も示している。

帰国後、ジュグナさんは一段と強い決意で信心に励み、友人や新来者との対話に奔走。仏法になじみのない社会に平和の種をまき、信頼の花を咲かせていった。

生活でも、学会活動でも、幾多の苦難に見舞われたが、「先生は私たちの苦労を全て分かってくださっている――そう思うと勇気が湧き、唱題根本に一つ一つ乗り越えてくることができました」。

病にも負けず、夫妻で真剣に祈りを重ねる日々。自宅を広布の会場として提供し、いつも心で師と対話しながら、後輩たちの激励に全力を注ぐ。

ジュグナさんの胸には、今も、あのグアムでのSGI誕生の光景と、先生の世界広布への熱き叫びが、深く刻まれている。

“時”は必ず来る

74年1月。アフリカに赴任する本紙特派員に、池田先生は語った。

「“時”が来れば、地涌の菩薩はどこにも現れるのだよ。やがて、仏法を求めて多くのアフリカの人々が来日する時代が必ず来る」

そして先生は、ケニアをはじめ各国の指導者や大使らと相次ぎ会見。創価の平和・文化・教育の光でアフリカ大陸を照らしてきた。

先生が示した“時”は現実のものとなり、妙法の灯は今、40カ国にともされた。

SGI研修会には、毎回のように、アフリカの同志が来日する時代が到来している。

ケニア理事長のフィレモン・バンジャさんは、95年10月に初めて日本へ。SGI発足20周年の佳節に開かれた諸行事に出席し、広島と神戸で先生との宝の思い出を築いた。

広島で行われた第14回「世界青年平和文化祭」では、アフリカ9カ国のメンバーで民族舞踊を披露。喝采を送る先生の姿を、その目に焼き付けた。

ほかにも忘れられない場面がある。

滞在中のある日の会合。先生は、会場に入るや、参加者に手を振り、深々と礼を。「ご苦労さまです!」と声を掛け、広布の労をねぎらった。

「どこまでも一人を大切にされる師匠の振る舞いこそが、私の模範になっています」

記念行事の際、先生は世界中から集ったメンバーに、次のように語り掛けている。

「日蓮大聖人の仏法は、『無限の希望』の哲学である」「私たちには絶対に行き詰まりがない。どんな状況にあろうと、限りなく『希望』をわきたたせ、『希望』を実現していける」と。

――バンジャさんの入会は86年。勤務先だったイギリス系銀行の同僚から仏法の話を聞き、SGIの一員になった。

学会活動で培った強い信念と誠実な姿勢を貫き、職場で何度も昇進を果たしたことが、揺るがぬ信心の確信になっている。

両親は違う宗教の熱心な信者だったが、社会で勝利の実証を打ち立てたバンジャさんの学会活動を応援してくれるように。

夫の変化に信仰の力を感じた妻のリネットさん(婦人部員)は、95年に入会した。

理事長となってからは、“毎日2人以上への励まし”を目標にしてきたバンジャさん。特に、遠くに住むメンバーとは、直接会って語り合うことを心掛けている。

週末には車で遠方の町へ向かい、一日かけて訪問・激励に動くことも。「時間はかかりますが、たくさんの同志に会うことができます。それが本当にうれしいのです」

先生の言葉の通り、ケニアには、妙法という「希望」の哲学を胸に、社会に「希望」を広げゆく地涌の菩薩が陸続と躍り出ている。

異体同心
ドルフィン・オノノさん(支部副婦人部長)の原点もまた、95年10月の初来日である。

「初めて池田先生にお会いした時、久遠からの師弟の絆を感じ、言い知れぬ感動が込み上げました」

神戸の地では、先生と共に勤行・唱題を。その力強い音声は、23年たっても耳朶から離れない。

入会した84年当時、オノノさんには仕事がなかった。だが、唱題根本に自身の内面を磨く学会活動に励む中、やがて優良企業に秘書として採用される。真面目な勤務態度が評価され、最優秀従業員にも選ばれた。

職場の人間関係など多くの困難に直面したが、一切を信心で勝ち越えてきた。その確信は「ケニア広布に生涯を捧げゆく決意に変わっていきました」。

本年、オノノさんはリネット・バンジャさんらと、9月度のSGI研修会へ。初の“ケニア婦人部研修会”として来日した8人で、教学研さんや日本のメンバーとの交流などを通し、新たな師弟の原点を築いた。

交流交歓会で訪れた神奈川は、先生が世界広布へ新生の船出を開始した天地。オノノさんはじめケニア婦人部の友は「正義」と「共戦」の旗高く、永遠に異体同心で進みゆくことを約し合った。


アンボセリ国立公園から望むキリマンジャロ