第4巻 名場面編 2019年01月1日

「団結」が広布の原動力


〈1958年11月、山本伸一は青森支部結成の打ち合わせの折、支部長に内定した金木正と、九人の地区部長の内定者を前へ呼んだ〉

 

伸一は、その壮年たちに言った。

「では、金木さんを真ん中にして、みんなで囲み、肩を組んでください」

皆、不可解そうな顔をしながら、金木を囲んで、円陣を組んだ。会場にいた、ほかの参加者も、何が始まるのかと、目を光らせていた。壮年の一人が確認した。

「これで、いいんでしょうか」

「はい。結構です。皆さん、どうか、この姿を忘れないでください。これが、今後、青森支部がめざす団結の姿です。支部長を中心にして、九人の地区部長が、しっかりと肩を組み合う。そうすれば、この輪を、誰も乱すことはできません。しかし、円陣が崩れて、九人の地区部長がバラバラになれば、すぐに攪乱されてしまいます。団結が力なんです」

(中略)

「地区部長になられる皆さんは、どこまでも支部長を守ってください。また、支部長になられる金木さんは、地区部長のために、支部の全員のために、尽くしていってください。同志を守れば、自分が守られます。それが仏法の因果の理法です。(中略)

これから先、何かあったら、この円陣を思い出して、青森は信心根本に、団結第一で、日本一仲の良い支部をつくっていってください」

(「春嵐」の章、26~27ページ)

黄金の輝き満つ日々

一九五〇年(昭和二十五年)の秋霜のころであった。

行き詰まった戸田の事業の打開の糸口を求めて、ある人を訪ねたが、不調に終わった。活路が、断たれてしまったのである。

(中略)

帰途、戸田と二人で川の流れに沿って歩いた。空には星が冷たく瞬いていた。夜空は美しかった。しかし、寒さが身に染みた。それは、世間の冷たさでもあった。

(中略)

伸一は、歩くうちに、靴が脱げそうになった。見ると、靴の紐がほどけていた。その靴も、既にすり減って、穴が開いていた。伸一は、かがんで紐を結び直しながら、何気なく、当時、流行していた「星の流れに……こんな女に誰がした」(JASRAC 出 1900392―901)という歌をもじって、「こんな男に誰がした」と口ずさんだ。その時、戸田が振り返った。彼の眼鏡がキラリと光った。

「俺だよ!」

こう言って、戸田は屈託なく笑った。明日をも知れぬ苦境のさなかにありながら、悠然と笑い、“責任は俺だよ”と言う戸田の、大確信にあふれた率直な言葉に、伸一は熱いものを感じた。彼は思った。

“師の確信は、いつでも真実を語る。されば弟子も真実で応えねばならない”

それは苦闘の時代ではあったが、師弟の道を歩む一日一日は、黄金の輝きに満ちていた。(「凱旋」の章、87~88ページ)

開拓の労苦こそ財産

〈61年5月、山本伸一は記録映画の製作を発表する。作業を担当するのは、新設された広報局の飯坂芳夫らであった〉

 

ある夜更けに、伸一が作業室に顔を出した。二人の青年が、黙々と仕事をしていた。会長の伸一がやって来たことさえ気づかなかった。伸一が声をかけると、驚いて、二人が顔を上げた。連日、遅くまで仕事をしているのであろう。その顔には疲労の色が滲んでいた。席を立とうとする、二人を制して、伸一は言った。

「いや、そのままでいいよ。毎日、頑張ってくれて、ありがとう。ところで、今、一番困っていることはなんだい?」

飯坂が答えた。

「実は、撮影のためのフィルムが底をついてしまったことです。既に、予算は使いきってしまっておりますので……」

(中略)

伸一は、当面、必要なフィルムの費用を、飯坂に聞くと、自分のポケットマネーをはたいて寄付した。

「飯坂君、今は大変だと思うが、開拓には苦労はつきものだよ」

(中略)

「人手もない、金もない、機材もない、時間もないという、ないないづくしのなかで、見事な作品を作り上げることができれば、人生の最大の財産になる。また、それが開拓者だ」

(中略)

「映画作りは、目立たないし、陰の力であるけれど、その影響力はすごい。家でも、土台というのは見えない。車でも、エンジンは人の目には触れない。人間の体にしても、心臓を見ることはできない。ものごとを支えている、本当に大切な力は、いつも陰に隠れているものなんだよ」

(「青葉」の章、192~196ページ)

弟子を思う師の熱い心

〈61年7月4日、山本伸一は戸田城聖の墓前で、57年7月3日、選挙違反という無実の罪で逮捕された折のことを思い起こす〉

 

彼が、決して忘れることができないのは、弟子を思う、熱い、熱い、師の心であった。羽田の空港で、大阪府警に出頭するため、関西に向かう伸一に、戸田はこう語った。

「……もしも、もしも、お前が死ぬようなことになったら、私もすぐに駆けつけて、お前の上にうつぶして一緒に死ぬからな」

伸一は、羽田の空港での戸田の胸中を思うと、感涙に目頭が潤んだ。しかも、戸田は、伸一の勾留中、大阪地検に抗議に来ていたのである。

戸田は、七月十二日に東京の蔵前国技館で、伸一を不当逮捕した大阪府警並びに大阪地検を糾弾する東京大会を行ったあと、やむにやまれぬ思いで、大阪にやって来た。

(中略)

戸田は、可能ならば、伸一に代わって、自分が牢獄に入ることも辞さない覚悟だった。弟子のためには、命を投げ出すことさえ恐れぬ師であった。

彼は検事正に、強い語調で迫った。

「なぜ、無実の弟子を、いつまでも牢獄に閉じ込めておくのか! 私の逮捕が狙いなら、今すぐ、私を逮捕しなさい」

そして、伸一の一刻も早い釈放を求めたのである。

(中略)

今、戸田の墓前に立つ伸一の胸には、「権力の魔性と戦え! 民衆を守れ!」との、師の言葉がこだましていた。

(「立正安国」の章、237~238ページ)

平和の光を全世界に!

〈61年10月8日、ドイツ・ベルリンを訪問した山本伸一は、東西冷戦による分断の象徴である、ブランデンブルク門の前に立つ〉

 

いつの間にか、雨はすっかり上がり、空は美しい夕焼けに染まっていた。

荘厳な夕映えであった。太陽は深紅に燃え、黄金の光が空を包んでいた。

(中略)

辺りの塔も、ビルも、そして、閉ざされた道も、ブランデンブルク門も、金色に彩られていた。伸一は思った。

“太陽が昇れば、雲は晴れ、すべては黄金の光に包まれる。そして、人間の心に生命の太陽が輝くならば、必ずや、世界は平和の光に包まれ、人類の頭上には、絢爛たる友情の虹がかかる……”

彼は、ブランデンブルク門を仰ぎながら、同行の友に力強い口調で言った。

「三十年後には、きっと、このベルリンの壁は取り払われているだろう……」

伸一は、単に、未来の予測を口にしたのではない。願望を語ったのでもない。それは、やがて、必ず、平和を希求する人間の良心と英知と勇気が勝利することを、彼が強く確信していたからである。また、世界の平和の実現に、生涯を捧げ、殉じようとする、彼の決意の表明にほかならなかった。

一念は大宇宙をも包む。それが仏法の原理である。

“戦おう。この壁をなくすために。平和のために。戦いとは触発だ。人間性を呼び覚ます対話だ。そこに、わが生涯をかけよう”

伸一は、一人、ブランデンブルク門に向かい、題目を三唱した。

「南無妙法蓮華経……」

深い祈りと誓いを込めた伸一の唱題の声が、ベルリンの夕焼けの空に響いた。(「大光」の章、363~364ページ)