第30巻㊦ 名場面編 21年07月14日


雪空に轟く民衆勝利の凱歌

<1982年(昭和57年)1月、山本伸一は、秋田へ。13日、秋田文化会館前の公園で雪の中、記念撮影に臨む。この数年、同志は宗門からの迫害にじっと耐えてきた>

悪僧たちは、葬儀の出席と引き換えに脱会を迫るというのが常套手段であった。また、信心をしていない親戚縁者も参列している葬儀で、延々と学会への悪口、中傷を繰り返してきた。揚げ句の果ては、「故人は成仏していない!」と非道な言葉を浴びせもした。人間とは思えぬ、冷酷無残な、卑劣な所業であった。

そうした圧迫に耐え、はねのけて、今、伸一と共に二十一世紀への旅立ちを迎える宝友の胸には、「遂に春が来た!」との喜びが、ふつふつと込み上げてくるのである。

伸一が、白いアノラックに身を包んで、雪の中に姿を現した。気温は氷点下二・二度である。集った約千五百人の同志から大歓声があがり、拍手が広がった。

彼は、準備されていた演台に上がり、マイクを手にした。

「雪のなか、大変にお疲れさまです!」

「大丈夫です!」――元気な声が返る。

「この力強い、はつらつとした皆さんの姿こそ、あの『人間革命の歌』にある『吹雪に胸はり いざや征け』の心意気そのものです。

今日は、秋田の大勝利の宣言として、この『人間革命の歌』を大合唱しましょう!」(中略)


〽君も立て 我も立つ

広布の天地に 一人立て……


伸一も共に歌った。皆の心に闘魂が燃え盛った。創価の師弟の誇らかな凱歌であった。

伸一は、秋田の同志の敢闘に対して、さらに提案した。

「皆さんの健闘と、大勝利を祝い、勝ち鬨をあげましょう!」

「オー!」という声が沸き起こった。

そして、民衆勝利の大宣言ともいうべき勝ち鬨が、雪の天地に轟いた。

「エイ・エイ・オー、…………」

皆、力を込めて右腕を突き上げ、声を張り上げ、体中で勝利を表現した。

降りしきる雪は、さながら、白い花の舞であり、諸天の祝福を思わせた。
(「勝ち鬨」の章、187~190ページ)

響き合う人間主義の心と心

<90年(平成2年)7月、山本伸一は第5次訪ソを果たし、クレムリンでゴルバチョフ大統領と初の会談を行う。世界の平和を願う2人の心は強く響き合い、日ソ関係に、新しい交流の光が差した>

伸一は、ユーモアを込めて語りかけた。

「お会いできて嬉しいです。今日は大統領と“けんか”をしにきました。火花を散らしながら、なんでも率直に語り合いましょう。人類のため、日ソのために!」

伸一の言葉に、ゴルバチョフ大統領もユーモアで返した。

「会長のご活動は、よく存じ上げていますが、こんなに“情熱的”な方だとは知りませんでした。私も率直な対話が好きです。

会長とは、昔からの友人同士のような気がします。以前から、よく知っている同士が、今日、やっと直接会って、初めての出会いを喜び合っている――そういう気持ちです」

伸一は、大きく頷きながら応えた。

「同感です。ただ大統領は世界が注目する指導者です。人類の平和を根本的に考えておられる信念の政治家であり、魅力と誠実、みずみずしい情熱と知性をあわせもったリーダーです。私は、民間人の立場です。そこで今日は、大統領のメッセージを待っている世界の人びとのため、また後世のために、私が“生徒”になって、いろいろお聞かせ願いたい」

大統領は、あの“ゴルビー・スマイル”を浮かべて語った。

「お客様への歓迎の言葉を申し上げる前に先を越されてしまいました。“生徒”なんてとんでもないことです。会長は、ヒューマニズムの価値観と理想を高く掲げて、人類に大きな貢献をしておられる。私は深い敬意をいだいております。会長の理念は、私にとって、大変に親密なものです。会長の哲学的側面に深い関心を寄せています。ペレストロイカ(改革)の『新思考』も、会長の哲学の樹の一つの枝のようなものです」

伸一は(中略)語った。

「私もペレストロイカと新思考の支持者です。私の考えと多大な共通性があります。また、あるのが当然なんです。私も大統領も、ともに『人間』を見つめているからです。人間は人間です。共通なんです」
(「誓願」の章、254~256ページ)

今が人生の最も重要な瞬間

<山本伸一は、21世紀を目指し、世界平和の道を開くために、力の限り奔走。93年(平成5年)1月下旬から、北・南米を訪問し、対話の輪を広げていった>

創価大学ロサンゼルス分校では、“人権の母”ローザ・パークスと会談した。

――一九五五年(昭和三十年)、アフリカ系アメリカ人の彼女は、バスの座席まで差別されることに毅然と抗議した。

それが、バス・ボイコット運動の起点となり、差別撤廃が勝ち取られていったのである。

伸一は青年たちと、その人権闘争を讃え、「“人類の宝”“世界の母”ようこそ!」と歓迎した。まもなく迎える彼女の八十歳の誕生日を、峯子が用意したケーキでお祝いもした。

人間愛の心と心が響き合う語らいのなかで、彼女は、『写真は語る』という本が出版されることに触れた。

著名人が、人生に最も影響を与えた写真を一枚ずつ選んで、載せる企画であり、自分が、その一人に選ばれたことを伝え、こう語った。

「あのバス・ボイコット運動の際の写真を選ぼうと思っていました。しかし、考えを変えました。会長との出会いこそ、私の人生にいちばん大きい影響を及ぼす出来事になるだろうと思ったからです。世界平和のために、会長と共に旅立ちたいのです。もし、よろしければ、今日の会長との写真を、本に載せたいのですが……」

伸一は、“掲載される写真を、自分との語らいの場面にしたい”という彼女の要請に恐縮した。

後日、出版された写真集が届けられた。彼女の言葉通り、伸一と握手を交わした写真が掲載されていた。「人権運動の母」の、優しく美しい笑顔が光っている。

冒頭には、こう書かれていた。

「この写真は未来について語っています。わが人生において、これ以上、重要な瞬間を考えることはできません」。そして、文化の相違があっても、人間は共に進むことができ、この出会いは、「世界平和のための新たな一歩なのです」と。
(「誓願」の章、350~351ページ)

「私は94年間も待っていた」

<93年(同5年)2月、山本伸一は空路、コロンビアからブラジルへ>

リオデジャネイロの国際空港では、伸一が到着する二時間前から、一人の老齢の紳士が待ち続けていた。

豊かな白髪で、顔には、果敢な闘争を経てきた幾筋もの皺が刻まれていた。高齢のためか、歩く姿は、幾分、おぼつかなかったが、齢九十四とは思えぬ毅然たる姿は、獅子を思わせた。今回の伸一の招聘元の一つである、南米最高峰の知性の殿堂ブラジル文学アカデミーのアウストレジェジロ・デ・アタイデ総裁である。(中略)エレノア・ルーズベルト米大統領夫人や、ノーベル平和賞を受賞したフランスのルネ・カサン博士らと、「世界人権宣言」の作成に重要な役割を果たしてきた。(中略)

総裁は、ヨーロッパ在住の友人から、伸一のことを聞き、その後、著作も読み、また、ブラジルSGIメンバーとも交流するなかで、その思想と実践に強い関心と共感をいだき、伸一と会うことを熱望してきたという。

空港で、今か今かと伸一の到着を待つ総裁の体調を心配し、「まだ、お休みになっていてください」と気遣うSGI関係者に、総裁は言った。

「私は、九十四年間も会長を待っていた。待ち続けていたんです。それを思えば、一時間や二時間は、なんでもありません」

伸一がリオデジャネイロの空港に到着したのは午後九時であった。一行を、アタイデ総裁らが、包み込むような笑みで迎えてくれた。

総裁は、一八九八年(明治三十一年)生まれで、一九〇〇年(同三十三年)生まれの恩師・戸田城聖と、ほぼ同じ年代である。伸一は、総裁と戸田の姿が二重写しになり、戸田が、自分を迎えてくれているような思いがした。(中略)

「会長は、この世紀を決定づけた人です。力を合わせ、人類の歴史を変えましょう!」(中略)

伸一は応えた。

「総裁は同志です! 友人です! 総裁こそ、世界の“宝”の方です」
(「誓願」の章、355~356ページ)