第28巻 基礎資料編 21年04月07日 |
「広宣譜」の章 ![]() 1978年(昭和53年)6月28日、山本伸一は、新学生部歌の作詞を開始。この頃、宗門による理不尽な学会攻撃が激化していた。伸一は、仏子を守り、希望と勇気を送るため学会歌の制作に取り組む。 新学生部歌「広布に走れ」は、30日の学生部結成記念幹部会で発表され、瞬く間に日本中の友に愛唱されていく。 7月には、新男子部歌「友よ起て」や白蓮グループの「星は光りて」、新壮年部歌「人生の旅」、東京・練馬区の北町地域の支部歌「北町広布」が次々に発表される。さらに7・17「大阪の日」を迎えるに当たって、苦楽を共にしてきた関西の友に「常勝の空」を贈る。また千葉の歌「旭日遙かに」の作詞も手掛ける。 伸一は、関西から中国方面の指導へ。移動の車中や懇談の合間も作詞・推敲に取り組み、岡山では九州の歌「火の国の歌」を。また、鳥取・米子文化会館では、蛍が舞い輝く庭で、中国の「地涌の讃歌」を完成させる。再び岡山に戻った彼は、四国の「我等の天地」を作り上げ、新高等部歌「正義の走者」(後の未来部歌)の歌詞を仕上げる。 「大道」の章 ![]() 7月25日、四国研修道場での記念幹部会で山本伸一は、“凡夫こそ仏”という創価の人間主義の根幹を語り、“人材の四国に”と期待を寄せる。26日は、2度目の小豆島訪問へ。豪雨災害を乗り越えた友や草創の功労者を励ます。のちに「小豆島の歌」を贈る。 27日、名古屋での「中部の日」記念幹部会では、中部に贈った「この道の歌」を皆で熱唱。伸一は、広布誓願の大道を進むなかに、信心の醍醐味と真の喜楽があることを語った。翌日、岐阜・東濃地域では、5回におよぶ記念勤行会を行い、渾身の激励を重ねる。8月2日、東京支部長会で、伸一が作った東京の歌「ああ感激の同志あり」が発表される。彼は終了後、代表幹部と懇談し、“東京は一つ!”との自覚を促す。 さらに、東北の「青葉の誓い」、北陸の「ああ誓願の歌」、神奈川の「ああ陽は昇る」を作る。9日からの九州指導の激闘のなか、北海道の「ああ共戦の歌」(後の「三代城の歌」)を、22日からの長野指導では「信濃の歌」を発表するなど、希望の歌、勇気の歌を作り続け、全国に広布に生き抜く共鳴音を広げた。 「革心」の章 ![]() 9月11日、山本伸一は第4次訪中へ。8月に「日中平和友好条約」が調印されており、“日中新時代”の流れを広げ、万代の平和の礎を築こうと心に期しての訪問であった。 12日、訪中団一行は、周西人民公社、楊浦区少年宮を訪れる。翌13日は図書贈呈のため復旦大学へ。蘇歩青学長や学生たちと懇談する。14日、蘇州にある景勝地の「虎丘」へ。さらに16日、南京の雨花台烈士陵園を訪れ、殉難の記念碑に献花する。 17日の夜には、人民大会堂で一行の歓迎宴が行われる。伸一は、日中の平和友好条約に盛られた、平和を守る精神を構築していく根本は「信義」であると訴える。この時、初めての出会いとなった故・周恩来総理夫人の鄧穎超は、語らいの中で訪日の意向を述べる。 19日、李先念党副主席と会見。その夜、伸一主催の答礼宴に、鄧穎超も出席。周総理も、鄧穎超も、共に生涯、心の改革を忘れず、革命精神を貫く、“革心の人”であった。伸一は、鄧穎超と日本での再会を約すとともに、日中友好の永遠なる金の橋を築き、周総理との信義に生き抜くことを強く心に誓うのであった。 「勝利島」の章 ![]() 10月7日、学会本部に全国約120の島から同志が集い、第1回離島本部総会が行われる。伸一は、開会直前まで、沖縄支部長会の参加者や離島の代表などを、全力で励ます。 北海道・天売島や愛媛県・嘉島、鹿児島県の吐噶喇列島や奄美群島、伊豆大島など、各島々の同志は、時に無認識による非難中傷を浴びながら、決然と広宣流布の戦いを起こしてきた。 1974年(昭和49年)1月14日、離島本部の結成が発表されると、伸一も率先して石垣島や宮古島などを駆け巡る。また、離島本部の幹部に、激励の伝言を託すなど心を砕いた。 78年(同53年)10月7日、遂に第1回離島本部総会が開催される。伸一は、各島で孤軍奮闘する、遠来の友を心からねぎらう。そして、各島々にあって、一人一人が「太陽の存在に」と訴える。 この総会をもって、離島の同志は歓喜の出発を遂げる。広布誓願の決意を固めた同志にとって、わが島は、離れ島などではなく、久遠の使命を果たす天地であり、幸福島であり、「勝利島」となった。離島の新章節が幕を開いたのだ。 【山本伸一作詞の学会歌】1978年6月~11月 ![]() ![]() 東京の歌「ああ感激の同志あり」について語る(1978年8月2日、荒川文化会館で) ![]() 中国の歌「地涌の讃歌」が発表された“ヒマワリ本幹”(78年7月22日、鳥取・米子文化会館で) 【勝利島部への激励】 ![]() 離島本部(当時)の第1回総会(78年10月7日、東京・信濃町の創価文化会館<当時>で) 1974年(昭和49年)、離島本部が結成。「勝利島」の章では、島に生きる同志の、広布推進のドラマが描かれている。山本伸一は離島の友に呼び掛ける。「信心強盛な一人の学会員がいれば、島全体が希望に包まれ、歓喜に満たされていきます。どうか皆さんは、一人ひとりが、その太陽の存在になっていただきたい」(440ページ)。離島本部はその後、「離島部」と名称を変更し、2015年(平成27年)、「勝利島部」として新たな前進を開始した。 【第4次訪中】1978年9月11日~20日 ![]() 答礼宴で周恩来総理の夫人・鄧穎超氏を迎える(78年9月19日、中国・北京で) ![]() 中国・蘇州の市民と和やかに歓談(78年9月13日) |