
【物語の時期】1975年(昭和50年)1月26日~5月29日
「SGI」の章

1975年(昭和50年)1月26日、世界51カ国・地域のメンバーの代表158人がグアムに集い、第1回「世界平和会議」が開催された。グアムは第2次世界大戦で日米の攻防戦の舞台となった島である。
山本伸一は、恩師・戸田城聖の「地球民族主義」の言葉を胸に、会場にあった参加者署名簿の国籍欄に「世界」と記す。
会議では、国際平和団体「IBL」(国際仏教者連盟)が誕生。そして、創価の精神を根幹とした国際的機構としてSGI(創価学会インタナショナル)が結成され、全参加者の総意で、伸一がSGI会長に就任する。また、生命の尊厳に目覚めた民衆の連帯を築き、恒久平和の創出を誓った「平和宣言」が採択される。
スピーチに立った伸一は、「全世界に妙法という平和の種を蒔いて、その尊い一生を終わってください。私もそうします」と呼びかける。
会場には、伸一が育んできた各国のリーダーが集っていたが、韓国は、一つにまとまることができずに、代表の姿はなかった。しかし、韓国の同志は、幾多の試練を乗り越え、後に大発展を遂げることになる。
「人間外交」の章

1月28日に帰国した山本伸一は、ノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作元総理をはじめ、国内外の各界のリーダーや識者らと精力的に対話していく。また、執筆活動にも力を注ぎ、一般紙に「私の履歴書」の連載を開始し、訪ソの印象をまとめた『私のソビエト紀行』も発刊する。
さらに、作家の井上靖や福田赳夫副総理とも会談を重ねる。3月16日には、中国青年代表団を聖教新聞社で歓迎。また、日中国交正常化後、初の正式な中国からの留学生を迎える創価大学の入寮式に駆けつける。
4月14日、3度目の訪中へ。北京大学などを訪れ、鄧小平副総理と会談。難局を迎えていた日中平和友好条約の締結への見解をあらためて確認する。17日、カンボジアの首都プノンペンが民族統一戦線によって陥落する。翌18日、北京で、カンボジアのシアヌーク殿下と会見。平和への全精魂を注ぐ「人間外交」が展開されていく。19日には、創大1期生との出会いが縁となり交流する、呉月娥が教壇に立つ武漢大学での図書贈呈式に出席。21日、上海の復旦大学を訪問。誠意と信義の行動をもって、日中友好に尽力することを誓う。
「共鳴音」の章

5月3日、山本伸一は会長就任15周年の式典に出席。「創価功労賞」等の授賞や会場提供者への表彰が行われる。その後、伸一は、男子部、学生部の代表の集いで、人材育成グループ「伸一会」を結成。5日の本部幹部会でも、参加者の隣で、学会歌を合唱し、渾身の激励を続ける。
13日、仏・英・ソ連の訪問に出発。14日には、フランスのパリ大学ソルボンヌ校の総長と語り合う。15日、パリ会館での集いに臨み、16日、ローマクラブの創立者であるアウレリオ・ペッチェイ博士と会談する。伸一は欧州最高会議や友好祭などに出席する一方、陰で活躍する同志のグループを結成し、現地の中心的メンバーの家を訪問する。
ロンドンに移動した伸一は、18日、市内で行われた代表者会でイギリスの理事長と再会。19日、トインビー博士に、対談集『21世紀への対話』(日本語版)と創大名誉教授称号の証書を届けるために、王立国際問題研究所を訪ねる。博士は病気療養中のため秘書に託し、再びフランスへ。作家のアンドレ・マルローや、美術史家ルネ・ユイグと会談し、魂の「共鳴音」を響かせる。
「宝冠」の章

5月22日、フランスでの予定を終えた山本伸一は第2次訪ソへ。23日、ソ連対文連で、ポポワ議長らと語り合う。さらに、デミチェフ文化相と会談したあと、ショーロホフ生誕記念レセプションに出席。25日、レーニン臨終の地を訪れ、居合わせた子どもたちに声をかけ、交流する。
伸一は26日も、連邦会議議長、モスクワ市長、海運相らと会見を続ける。夕方、婦人・女子部の代表とソ連婦人委員会を訪れ、世界初の女性宇宙飛行士である同委員会のテレシコワ議長らと会談を行う。
27日、モスクワ大学から、伸一に知性の「宝冠」である「名誉博士号」が贈られる。これが、世界の大学・学術機関からの、最初の名誉学術称号となる。彼は、「東西文化交流の新しい道」と題して記念講演し、“人間の心と心を結ぶ「精神のシルクロード」を”と訴える。
翌28日、コスイギン首相と再会。中国への警戒を強くする首相に、訪中で周恩来総理、鄧小平副総理と会談したことを伝える。伸一は険悪化する中ソ関係を改善するため、自身が両者の懸け橋になろうと覚悟していたのである。
【山本伸一の平和旅】
1975年1月~5月の訪問
◆世界平和会議でSGIが発足(1975年1月26日)

グアムで行われた第1回「世界平和会議」。51カ国・地域の代表が集い、SGIが発足した(1975年1月26日)
◆第3次訪中(1975年4月14日~21日)


中国の鄧小平副総理と会談(同年4月16日、北京の人民大会堂で)

北京市内を散策し、子どもと交流する池田先生ご夫妻(同年4月17日)
◆欧州訪問・第2次訪ソ(1975年5月13日~29日)


パリ会館でローマクラブ創立者のアウレリオ・ペッチェイ博士(右から2人目)と会談(同年5月16日)。後年、対談集『21世紀への警鐘』が編まれた

作家アンドレ・マルロー氏㊧の自宅を訪れ、対話(同年5月19日)。二人の語らいは後に対談集『人間革命と人間の条件』に結実

美術史家のルネ・ユイグ氏㊥と会談(同年5月20日、パリ会館で)。両者の対談集『闇は暁を求めて』は1981年に発刊された

モスクワ大学で記念講演をする池田先生。この日、同大学から名誉博士号を受けた(同年5月27日)
|