
【物語の時期】1974年(昭和49年)5月30日~75年1月23日
「友誼の道」の章

1974年(昭和49年)5月30日、山本伸一は、中日友好協会の招請で初訪中する。彼は、68年(同43年)9月に「日中国交正常化提言」を発表するなど、両国の関係改善に奮闘。72年(同47年)9月には日中国交正常化が実現する。
英国領・香港の羅湖駅から徒歩で、中国の深圳駅へ。そして、広州、北京へと向かう。北京滞在中、故宮博物院等の視察や、中日友好協会の廖承志会長らとの懇談、児童節(こどもの日)の催しなどに参加。市内の中学校を視察した折、生徒たちがソ連(当時)の攻撃に備え、校庭に避難壕を建設している姿に胸を痛める。また、北京大学を訪れ、図書贈呈の目録を手渡し、創価大学との交流の原点を築く。
6月6日には、李先念副総理との会見に臨み、中国は強く平和を求めていることを確信する。
7日、訪中団は、北京を発ち、西安、鄭州と回り、10日、上海に到着。翌11日夜には、上海から杭州へ。伸一は行く先々で民衆の中へ飛び込むようにして対話し、「友誼の道」を開いていく。
上海に戻った一行は13日夜、答礼宴を行う。学生部長の田原薫と、日本を訪れた中国の青年が再会を喜び合う姿に、伸一は“日中提言”の時に思い描いた夢が実現しつつあることを感じる。
14日、上海を発って広州へと向かい、翌15日、深圳から再び徒歩で香港へ。“中ソの戦争は絶対に回避しなければならない。さあ、次はソ連だ!”――伸一は、平和への闘魂を燃やす。
「懸け橋」の章

9月8日、山本伸一の一行は、モスクワ大学の招待でソ連を初訪問。同大学のホフロフ総長らと歓談する。翌日、モスクワ大学を訪れ、総長と大学教育の在り方を巡り、意見を交換。午後には、民間外交機構である対文連の本部でポポワ議長と交流する。
10日、高等中等専門教育省のエリューチン大臣、ソ連最高会議のルベン民族会議議長と語り合う。さらに、11日には、小・中学校の授業を参観したあと、ソ連科学アカデミーで副総裁と会談し、東洋哲学研究所との学術交流の道を開く。
伸一は13日、レニングラードのピスカリョフ墓地などを訪問。第2次世界大戦の犠牲者を弔うとともに、“この悲惨な事実を世界に発信せねば”と、不戦への決意を燃やす。
モスクワに戻った伸一は16日、創価大学とモスクワ大学の学術交流の議定書の調印式に臨む。その後、ノーベル賞作家ショーロホフのアパートを訪問し、人間の運命などについて語らいが弾む。
訪ソ最後の日、クレムリンでコスイギン首相と会見。伸一は、中国の首脳が、他国侵攻の考えはないと語っていたことを伝え、「ソ連は中国を攻めますか」と率直に尋ねる。首相は「ソ連は中国を攻めないと、伝えてくださって結構です」と言明する。伸一の手で、中ソ対立の溝に一つの橋が架けられようとしていた。
会見に続いて、日ソ交流促進への意思を明らかにするため、対文連と共同コミュニケ(声明書)を発表し、一行は、帰国の途に就いた。
「信義の絆」の章

山本伸一は、12月2日、北京大学の招待で再び中国を訪問する。北京に到着した伸一は、中日友好協会の廖承志会長に、コスイギン首相との会見内容を伝える。その夜、北京大学主催の歓迎宴に出席。翌日は、同大学への図書贈呈式に臨む。
4日、伸一は、中日友好協会を訪問。5日、人民大会堂で鄧小平副総理と会談し、中国の婦人や青年リーダーの訪日、シルクロードの共同学術研究等を提案する。この夜、帰国を前にしての答礼宴の折、伸一に周総理からの会見の意向が伝えられる。療養中だった総理の病状を案じる伸一は丁重に辞退するが、会見は総理の強い意志であることを知り、会見会場へと向かう。
総理は、伸一の中日友好への取り組みを高く評価し、中日平和友好条約の早期締結を切望。未来を託すかのような総理の言葉を、伸一は、遺言を聞く思いで心に刻む。語らいは平和への永遠の契りとなり、「信義の絆」となる。
1975年(昭和50年)1月、訪米した伸一は、10日、国連事務総長と会談。その際、青年部が集めた戦争の絶滅と核廃絶の署名簿を手渡す。13日には、キッシンジャー国務長官と会談する。中東和平への提言を記した書簡を手渡し、長官は提言を大統領に伝えることを約束する。その後、渡米していた大平正芳蔵相に日中平和友好条約の早期締結を訴える。
伸一は、第1回「世界平和会議」が開催されるグアムへ。平和の新章節の幕が開かれようとしていた。
【山本伸一の平和旅】
1974年の中国、ソ連(当時)訪問
◆第1次訪中(1974年5月30日~6月15日)


北京市内の学校を視察し、生徒たちと交流(同年6月3日)

李先念副総理(当時)と会見(1974年6月6日、北京・人民大会堂で=新華社提供)

中日友好協会の廖承志会長と歩く池田先生(同年6月7日、北京で)
◆第1次訪ソ(1974年9月8日~17日)


初訪ソの池田先生を歓迎するモスクワ大学のホフロフ総長(同年9月8日、空港で)

コスイギン首相と会見(同年9月17日、モスクワのクレムリンで)
◆第2次訪中(1974年12月2日~6日)


周恩来総理と一期一会の会見(同年12月5日、北京で)

鄧小平副総理(当時)と会談(同年12月5日、北京の人民大会堂で)
◆キッシンジャー米国務長官と会見

アメリカのキッシンジャー国務長官と会見。中東問題解決のための具体的な提案を伝える(1975年1月13日、ワシントンで)
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