
【物語の時期】 1973年(昭和48年)7月7日~74年1月31日
「師子吼」の章

1973年(昭和48年)9月8日、東京の有楽座で、山本伸一の小説を原作にした映画「人間革命」がロードショー公開され、その後、全国で上映される。映画化のきっかけは、原作に感動したプロデューサーの要請だった。伸一も撮影現場を訪れ、俳優やスタッフを励ますなど、誠心誠意、応援した。当代一流の映画人が総力を挙げた作品は、記録的な大ヒットとなる。76年(同51年)には続編が公開され、これも大好評を博する。
「言論・出版問題」以来、聖教新聞社の一部の記者に、安易に社会に迎合して、信心を軽視してしまう風潮が生じていた。その本質は仏法への確信の喪失にあった。
伸一は足繁く新聞社を訪れ、記者をはじめ、職員と懇談を続けた。記事の書き方から生活態度までアドバイスしながら、“広布の使命に生き抜け!”“仏法の眼を磨け!”と、職員の根本精神を教えていく。
さらに73年の5月3日には、通信員大会に出席し、「永遠に世界の庶民の味方たれ」など、聖教新聞の基本理念を発表する。正義の「師子吼」を放つ言論城が、伸一の手づくりでそびえ立っていったのである。
「師恩」の章

“学会精神が脈打つ、後継の人材を育てねばならぬ”――山本伸一は、その決意で1973年の夏季講習会に臨み、約10万人の参加者を全力で激励する。そのなかには、男子部の人材育成グループ「白糸会」もいた。彼らは、5年前の夏季講習会の折、伸一と共にボートに乗るなどしたメンバーであり、一段と成長した姿での再会となった。
8月18日、彼はハワイで開催された北・中・南米の代表者会議に出席。席上、各国の協力のため「パン・アメリカン連盟」が結成される。
9月には北海道へ。13年ぶりに訪れた厚田村(当時)では、「村民の集い」に招かれる。村を挙げての歓迎は、戸田先生の故郷を楽土にと願う伸一と同志が築いた、信頼の結実であった。帰京後も、埼玉や、「’73山陰郷土まつり」が行われる島根、さらに鳥取を訪問。どの地にあっても、同志は、伸一との「師弟共戦」を誓い、新たな出発を開始する。
11月、彼は、栃木の県幹部総会に、尋常小学校の恩師・檜山夫妻を招待し、恩師をたたえる。それは、伸一の、「師恩」に報いようとする、仏法者としての信念の発露でもあった。
「前進」の章

11月10日、山本伸一は四国を訪問する。愛媛の同志は、聖教新聞の購読推進をもって、彼を迎えた。松山会館(当時)で伸一は、“無冠の友”たちが育てた菊の鉢植えを鑑賞し、そのメンバーを「菊花の友」とするよう提案する。
12日には香川県へ。広宣流布に生き抜き、早世した学生部員の遺徳を顕彰する桜の前に立ち、敬意を表する。また13日、徳島県に向かう途中、津田の松原で求道心をたぎらせた老婦人と出会い、励ます。その後、徳島県幹部総会で伸一は、学会員一人一人が、「“時代の財”であり、“社会の宝石”」であると訴える。
1973年は、石油危機による物価高騰と不況が深刻化し、苦闘する同志も多かった。伸一は、東京各区を回りながら、「不況に負けるな! 今こそ信心で勝て!」と呼び掛けていく。
12月、本部総会が初めて関西で開催された。席上、伸一は、時代の建設には、人間生命の変革が必要であると力説する。
翌年の「社会の年」へ、同志は、人間主義の新時代を開くため、勇んで大前進を開始する。
「飛躍」の章

1974年(昭和49年)の新年勤行会で山本伸一は、「大悪は大善の来るべき瑞相」(御書1467ページ)との御書を拝し、学会は逆境を希望に転ずる確信で「社会の年」を出発。
1月19日、伸一は、九州大学会総会に臨み、翌20日、北九州での第22回「青年部総会」に出席する。席上、青年部は、日本国憲法擁護のアピールを採択。反戦出版や核廃絶一千万署名などの運動が打ち出される。
伸一は、1月26日、鹿児島から香港へ。初訪問の61年(同36年)には、10世帯ほどであった香港のメンバーは、13年で8000世帯に大発展。同志は、誤認識の批判をはね返し、社会に着実に信頼を広げてきた。
28日、香港会館で香港広布13周年記念の集いが行われる。彼は、「仏法即生活なれば、一人も漏れなく功徳の生活の実証を!」など三つの指針を示す。そして、会館の庭での祝賀会に、メンバーが用意した中国服で参加し、交流のドラマをつづる。
また、香港大学、香港中文大学などを訪れ、文化・教育交流の新たな一歩を踏み出す。さらに、「東南アジア仏教者文化会議」に出席。世界広布の「飛躍」の時をつくり続ける。
小学校時代の恩師と交流

池田先生が、小学校時代の恩師・檜山先生㊨との再会を喜び、思い出を語り合う(1973年11月6日、宇都宮市内で)
<1973年(昭和48年)11月6日、栃木での会合に出席する直前、尋常小学校時代の恩師・檜山浩平先生と再会する>
(山本伸一は)自分が教わった教師全員に、強い感謝の念をいだき、深い恩義を感じていた。いや教師に限らず、自分がこれまでに関わったすべての人に、同じ思いをいだいていた。それは、仏法者としての、彼の信念によるものであった。(「師恩」の章、195~196ページ)
【山本伸一の激励行】1973.1.1-74.1.31
<「広布第二章」に入り、山本伸一は、各方面の強化に、さらに力を入れていった>
創価学会は、まぎれもなく宗教界の王者となった。天にそびえ立つ、堂々たる民衆城となった。
建物が壮大であればあるほど、一本一本の柱の役割が重要であり、堅牢であらねばならない。
山本伸一は、学会を永遠ならしめるために、各方面、また、各県、各区を、何があっても微動だにせぬ黄金柱にしなければならないと、深く心に決めていた。それゆえに彼は、あの地、この地と、間断なく各地を回り続けた。
(「前進」の章、201ページ)

※オレンジ色に塗られた地域は、池田先生が訪問した都道府県(第17巻、第18巻に記された行事から)

北海道の厚田村(当時)で開催された「村民の集い」での交流の一こま(1973年9月8日)

伊香保町のスケートセンターで行われた「群馬・高原スポーツ大会」で、未来部員に励ましを送る(1973年6月10日)

「茨城県スポーツ祭」に出席し、同志の輪の中へ(1973年6月17日、水戸市内で)

「’73山陰郷土まつり」で、友の文化継承の志をたたえる(1973年9月16日、島根県民会館で)

本紙配達員の“無冠の友”が育てた菊を鑑賞(1973年11月10日、旧・松山会館で)

第22回青年部総会で、全精魂を注いで青年にエールを送る(1974年1月20日、北九州市立総合体育館で)
10年ぶりに香港を訪問

香港広布13周年記念の祝賀会でピアノを演奏(1974年1月、香港会館で)
<1974年1月、10年ぶりに香港を訪問。香港広布13周年の記念の集いで、「春が来た」をピアノで奏でた>
香港の同志の心には、歓喜の花が咲き薫っていた。春は、広宣流布の使命に目覚め、冬の試練に挑んだ勇者の胸にある。希望に燃えて突き進む「前進の人」の胸にある。(「飛躍」の章、359ページ)
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