第 15 巻 名場面編 2020年02月12日


青年時代の鍛えは生涯の財産

<「地域の年」と定めた1972年(昭和47年)、山本伸一は、最前線の幹部との記念撮影会を各地で開催。1月、東京・新宿区の友との撮影会では、男子部に対し、青年の生き方を語った>

彼(山本伸一=編集部注)は語った。
「私が青年時代に決意したことの一つは、“広宣流布に生きようと決めた限りは、何があっても文句など言うまい”ということでした。
建設的な意見は大事だが、文句や愚痴は、いくら言っても前進はありません。(中略)また、それは、自分の情けなさ、卑屈さ、無力さを吹聴しているようなものであり、自らの価値を、人格を、下落させることになる。しかも、文句や愚痴は周囲を暗くさせ、皆のやる気までも奪い、前進の活力を奪ってしまう。だから、福運も、功徳も消すことになる。
『賢者はよろこび愚者は退く』(御書一〇九一ページ)です。私たちは、何事も莞爾として受け止め、さわやかに、勇んで行動していこうではありませんか」
皆が笑顔で頷いた。(中略)
「君たちのなかには、日の当たらないアパートの、小さな部屋に住んでいる人もいるでしょう。私も、青年時代は、同じような暮らしでした。
戸田先生の事業は行き詰まり、学会は存亡の危機に瀕していた時代でした。へとへとになって部屋に帰っても、寒くて寒くて、しかも、食べる物も何もない。一杯のお茶さえない。
しかし、私は、毅然として、阿修羅のごとく、戸田先生のもとで戦いました。日々、血を吐くような思いで、また、泣くような思いで、働きに働き、戦いに戦い、自分の限界に挑んだんです。
“今日も必ず勝つ!”“明日も断じて勝ってみせる!”と、一日一日、確実に勝利を打ち立てていきました。それが私の、生涯にわたる財産となりました」(中略)
「青年時代は短い。一瞬です。逃げているうちに終わってしまう。勇気をもって、広宣流布に、学会活動に、自分を投じ切ることです!」
「はい!」
凜とした、決意のこもった返事がこだました。(「入魂」の章、42~45ページ)

最高の幸福を心から確信

<1月末、山本伸一は沖縄を訪問。名護会館の建設用地で記念撮影が行われた折、名嘉勝代という目の不自由な女子部員が琴を演奏。彼女は3年前に、名護の浜辺で、伸一に激励されたメンバーであった>

彼女は、その時の伸一の指導を、片時も忘れることはなかった。
「私は断言しておきます。信心を貫いていくならば、絶対に幸せになれます。
悲しいことが続くと、“自分は不幸なんだ”“自分は弱いんだ”と決め、自ら希望の光を消してしまう人もいる。しかし、その心こそが自分を不幸にしてしまうんです。(中略)
“信心の眼”を、“心の眼”を開いて、強く生き抜いていくんです。あなたがそうなれば、みんなが希望を、勇気を感じます。あなたは、必ず多くの人の、人生の灯台になっていくんですよ」
彼女の胸に、この時、希望の太陽が昇った。(中略)人間は、広宣流布の使命を自覚することによって、自らが「地涌の菩薩」であると知ることができる。
また、自身の絶対的幸福を約束する「仏」の生命が具わっていると確信することができるのだ。それは、自分のもっている最高の幸福に気づくことといってよい。彼女は、この日、家に帰って唱題しながら、しみじみと自分の幸せをかみしめていた。
“私は、目は見えない。しかし、それによって、御本尊に巡り合うことができた。また、私には、広宣流布のために仏法を語り、唱題する口がある。歩き回ることのできる足がある……。なんと幸せなのだろう”(中略)
名嘉は、感謝の思いで唱題しながら、“広宣流布の役に立てる自分になろう”と、固く、固く心に誓った。(中略)
名護会館の建設用地で、名嘉は今、無我夢中で琴をつま弾いていた。
演奏が終わった時、真っ先に拍手を送ったのは山本伸一であった。彼女の耳には、伸一の叩く手の音が、強く、強く、響いた。
“先生、ありがとうございます!”
名嘉は心で叫んだ。(中略)
後年(一九九九年)、彼女は、沖縄県指定の無形文化財「沖縄伝統音楽箏曲」の保持者に認定されることになる。
名嘉は、誓いを果たした。彼女は勝ったのだ。(「入魂」の章、95~98ページ)

“世界が評価する”と予見

<1972年5月、山本伸一は歴史学者トインビー博士の強い要請を受け、博士の自宅で、多岐にわたる対談を行った。翌年5月にも再び博士宅を訪問。最終日、伸一は博士に、自身へのアドバイスを求めた>

博士は、伸一の顔をじっと見つめ、静かに口を開いた。(中略)
「私は学問の世界の人間です。しかし、あなたは極めて重要な組織の責任ある指導者であり、仏法の実践者として行動されている。“行動の人”に対して“机上の学者”がアドバイスするなど、おこがましいことです」
伸一は恐縮した。その謙虚さに胸を打たれた。博士は、さらに話を続けた。
「したがって、私に言えることは、これだけしかありません。
――ミスター・ヤマモトと私とは、人間がいかに生きるべきか、見解が一致した。あとは、あなたが主張された中道こそ、今後、あなたが歩むべき道なのです」(中略)
伸一は、博士に言った。(中略)
「私は、トインビー先生の生徒として、何点ぐらいとれたでしょうか」
博士は微笑を浮かべ、目を細めて語り始めた。
「イギリスの大学では、成績はギリシャ語の『Α』、『Β』、『Γ』で評価することがあります」
ここで、咳払いをし、伸一の成績を発表した。
「私は、ミスター・ヤマモトに最優等の『Α』を差し上げます」(中略)
「過分な評価をいただき、大変にありがとうございます。(中略)
トインビー先生から、『Α』をいただいたかぎりは、人類を不幸にする諸悪と、勇敢に戦い抜いてまいります」
博士は、嬉しそうに頷きながら語った。
「オー、イエス……。人類の未来を開くために戦ってください。あなたの平和への献身を、やがて、世界は最大に評価するでしょう。私は、母校のオックスフォード大学をはじめ、幾つかの大学から、名誉称号を贈られています。トインビー大学の最優等生であるあなたは、必ず将来、私以上に世界中から名誉称号を贈られるでしょう」
(「対話」の章、213~215ページ)

未来へと希望を燃やして

<「昭和四十七年七月豪雨」と呼ばれる大雨が各地で大きな被害を出した。秋田では山本伸一との記念撮影会が中止に。伸一は災害対策の手を打ちながら、7月11日、秋田を訪問し、激励。懇談の場を設けた>

ある青年が質問した。
「今回、水害で秋田の記念撮影会が中止になりました。これは、やはり、私たちの信心の姿勢に、何か問題があるのでしょうか」
秋田の同志は、記念撮影に向けて、皆で真剣に晴天を祈ってきた。しかし、大雨になってしまっただけに、何か釈然としないものを感じていたのである。
伸一は言下に答えた。
「天候は自然現象ですから、大雨が降ることもあります。どんなに信心強盛な人でも、台風にも遭えば、冬の秋田なら、大雪にも遭うでしょう。それを、いちいち信心に結び付け、くよくよ悩む必要はありません」
仏法は、希望の哲学である。勇気の源泉である――伸一は、まず、そのことを訴えておきたかったのである。
「もちろん、『一身一念法界に遍し』(御書二四七ページ)ですから、祈りは大宇宙に通じます。
しかし、大雨になったという結果にとらわれ、力が出ないのでは、信心の意味はありません。
現当二世の信心です。未来に向かい、わが地域を必ず常寂光土にしてみせると決意し、勇気を奮い起こして、力強く前進していくことが大事です」(中略)
「すべてを前進の活力に変え、希望につなげていくのが仏法なんです。
たとえば、水害で記念撮影ができなかったら、“よし、この次は、必ず大成功させるぞ”と新しい気持ちでスタートすればよい。また、災害に遭ったならば、“さあ、今が正念場だ。負けるものか。変毒為薬するぞ! 信心の真価を発揮するぞ!”と、へこたれずに、勇んで挑戦を開始することです。
どんな時も、未来へ、未来へと、希望を燃やし、力強く前進していくならば、それ自体が人生の勝利なんです。信心の証明なんです」