「大阪の戦い」編  21年05月22日
“広布の主役”との一念が壁破る

関西は、かつては、東京と比べ、会員の世帯もいたって少なく、組織も弱かった。

広宣流布の未来構想のうえから、関西の重要性を痛感した戸田城聖は、一九五六年(昭和三十一年)の一月、伸一を関西に派遣したのだ。

当初、関西の同志の誰もが、何をやっても東京には敵わないという思いをいだいていた。伸一は、何よりも、一人ひとりの、その一念を転換することに全精魂を注いだ。

「関西に創価の不滅の錦州城を築こう!」

「日本一の、模範の大法戦を展開しよう!」

伸一という若き闘将の魂に触れ、関西の同志は心を一変させた。

“自分たちこそ、広布の主役なのだ”“関西こそ、広布の主戦場なのだ”

(中略)この年の五月には、大阪支部は一万一千百十一世帯という未聞の弘教を成し遂げ、広布史上に不滅の金字塔を打ち立てたのである。さらに、七月には、学会として初めて候補者を推薦した参議院議員選挙で、(中略)大阪地方区は、伸一の指揮のもと、当選は不可能だとする大方の予想を覆し、見事に勝利したのである。

以来、メンバーは、この関西こそが、広布の模範の「常勝の都」であるとの、強い誇りをもつようになった。また、自分たちこそが広宣流布の中核であり、創価学会の代表であるとの、不動の自覚をもつようになったのである。
(第13巻「北斗」の章、151~152ページ)

“戦いは絶対に勝たなあかん!”

第17巻「民衆城」の章より
<1957年(昭和32年)7月3日、山本伸一は選挙違反という無実の罪で逮捕された>

山本伸一が、大阪拘置所を出たのが、一九五七年(昭和三十二年)の七月十七日であった。若師子は、民衆の大地に、再び放たれたのだ。

この日の夕刻、中之島の大阪市中央公会堂で、大阪大会が行われた。大阪をはじめ、各地から駆けつけた同志で、場内はもとより、場外も、人、人、人であふれた。それは、伸一の不当逮捕への憤怒と、権力の魔性を打ち砕き、断じて創価の正義を証明せんとする、関西の決起の日となったのである。

(中略)瞬く間に激しい豪雨となり、横なぐりの風が吹き荒れた。稲妻が黒雲を引き裂き、雷鳴が轟いた。多くの同志が、今日まで獄舎に囚われていた伸一の姿を思い、“学会への非道な仕打ちに、諸天も激怒しているのだ”と感じた。

場外で(中略)雨に打たれながら、特設されたスピーカーから流れる、登壇者の声を聴き取ろうと、皆、必死に耳を澄ましていた。

(中略)山本伸一の登壇である。師子吼が轟いた。

「最後は、信心しきった者が、(中略)また、正しい仏法が、必ず勝つという信念でやろうではありませんか!」

その叫びが、皆の心に突き刺さった。場外の人びとは、どの顔も、雨と涙でぐしゃぐしゃであった。

“この山本室長が、無実の罪で牢屋につながれ、手錠をかけられ、辛い、惨めな目にあわされてきたんや。権力なんかに、負けられへん。負けたらあかん! 戦いは、絶対に勝たなあかん!”

伸一と共に、創価の勝利を涙で誓った、この日が、「常勝関西」の“不敗の原点”となったのである。
(第23巻「勇気」の章、250~252ページ)

永遠に崩れぬ創価の「錦州城」を

<78年(同53年)7月、伸一は関西総合長の十和田光一に、できたばかりの「関西の歌」の歌詞を電話で伝えた。関西の同志が心から納得する歌にしようと、直してほしい箇所はないか尋ねた>

「二番の一行目に『我等の誇り 金の城』とございますが、この『金の城』を、『錦州城』にしていただけないでしょうか」

伸一が「金の城」としたのは、皆の目に鮮やかな色彩が浮かぶような歌にしたかったからだ。だが、関西の同志にとって、「錦州城」という言葉には、格別な思いが詰まっていた。

一九五六年(昭和三十一年)二月、大阪の戦いの指揮を執っていた伸一は、大勝利への決意を託した歌を詠んだ。そして、戸田城聖の誕生日である十一日に、その歌を贈った。

「関西に 今築きゆく 錦州城 永遠に崩れぬ 魔軍抑えて」

そこには、大阪城の別名の「錦城」と、中国遼寧省の難攻不落の都城「錦州城」を掛け、関西に金城鉄壁の民衆城を築き上げようとの誓いが込められていた。戸田は、即座に返歌を認めてくれた。

「我が弟子が 折伏行で 築きたる 錦州城を 仰ぐうれしさ」

伸一は、この歌を心に刻み、関西の同志と共に戦い、大勝利した。したがって、彼らには、“関西は創価の師弟が築き上げた広布の錦州城だ!”との強い共戦の誇りがあった。

だから、十和田は、「錦州城」という言葉を入れてほしいと、要請したのである。

伸一は言った。

「『金の城』の方が、斬新的だと思うんだが、『錦州城』とすることで、関西の皆さんが喜んでくださるなら、検討します。

私は、関西の同志が永遠に歌い継いでいける、最高の歌を贈りたいんです」
(第28巻「広宣譜」の章、56~57ページ)

真剣勝負に歓喜と功徳と確信が

<78年(同53年)11月、伸一は大阪へ向かった>

関西の同志と共に、弘教の金字塔を打ち立てた、あの五六年(同三十一年)の大阪の戦いから、既に二十二年がたつ。伸一は、関西が永遠に「常勝」の大城であり続けるために、今再び新しき前進のための布石をしておきたかったのである。

大阪到着後、直ちに彼は、豊中市の関西牧口記念館へ向かい、関西最高会議に出席した。中心となる幹部への指導から、彼の戦いは始まった。(中略)

「信心の世界にあっては、一つ一つの課題に対して、常に真剣に取り組んでいかなくてはならないということです。

学会活動は、現代における最高の仏道修行です。仏道修行というのは、己との対決であり、自分の限界を打ち破って、心を強く、大きくし、境涯を開いていくためのものです。したがって、人の目を意識し、格好だけ取り繕っても、根底にいい加減さがあれば、人間革命はできません。しかし、真剣であり、一途な人、誠実な人は、必ず、大きく成長していきます。

信心が惰性化していくと、この根底の真剣さが萎えてしまい、一生懸命やっているように見せかけて終わってしまう。そうなれば、どんな幹部であろうと、信心の歓喜はなくなり、人を触発することもできません。

二十二年前の、あの“大阪の戦い”で大勝利を収めることができたのは、皆が真剣であったからです。だから歓喜があり、功徳があり、確信が湧き、感動のなかに凱歌を響かせることができた。新しい『常勝関西』の建設のために、中心となる幹部の皆さん方は、このことを忘れないでいただきたい」

こう語る彼の口調には、関西の大飛躍を願う、強い思いがあふれていた。
(第29巻「常楽」の章、91~93ページ)


夕映えの中に威風堂々とそびえる大阪城(池田先生撮影。2007年11月)

随筆「我らの勝利の大道」より
「強盛な祈り」
「最高の作戦」
「最高の行動」こそ、
絶対勝利の要諦である。