我々は戦おうじゃないか!

<1961年(昭和36年)3月16日、山本伸一は青年部の音楽祭で、3年前の同日に行われた広宣流布の記念式典での恩師・戸田城聖との思い出を振り返り、指導>
「(戸田)先生は、その式典が終わって、帰られる直前に、一言、こう言われました。
『我々は、戦おうじゃないか!』
その意味は、限りなく深いと思います。
不幸な民衆を救っていく戦い、誤った宗教との戦い、不当な権力との戦い、自己自身との戦いなど、いっさいを含んだうえでの、戸田先生のお言葉であったにちがいありません。
ともあれ、衰弱しきったお体でありながら、眼光鋭く、毅然として言われた、『我々は、戦おうじゃないか!』との先生のお言葉を、私は、電撃に打たれた思いで、聞いておりました。
そして、何ものをも恐れず、広宣流布に向かって戦うことを、私は、その時、再び決意いたしました。
これは、先生の魂の叫びであります。命の言葉であります。私たちは、このお言葉を深く胸に刻み、広宣流布の日まで、断固、戦い抜こうではありませんか」
伸一のこの日のあいさつは、聖教新聞に掲載され、これを目にした全国の会員は、決然と奮い立った。
「我々は、戦おうじゃないか!」との言葉は、同志の合言葉ともなった。
(「春嵐」の章、46~47ページ)
信心と真心の一念の声を

<支部長に就任したものの、口べたなことに不安を抱く浜田厳介に、伸一は御書を通して励ましを送る>
伸一は、浜田に尋ねた。
「あなたは今、何を悩んでいますか」
「はい。私は、みんなを納得させられるような話もできません。
どうやって活動を進めればよいのかと思うと……」
すると伸一は、同行した幹部に紙と墨を用意するように頼んだ。
そして、筆を手にして、「声仏事」と認め、浜田に贈った。
「御書には『声仏事を為す』(七〇八ページ)とあります。語ることが仏法です。お題目を唱えて、ともかく、人を励まし続けていくことです。そうすれば、ちゃんと話せるようになります。しかし、長い話をすることはない。一言でもよい。信心と真心の一念の声を発することです」
この山本会長の言葉を、浜田は、決して、忘れることはなかった。
彼が支部長として活動を始めると、方針の打ち出しや説明は、彼を補佐する、ほかの幹部がしてくれた。浜田の人徳でもある。
そして、彼は一言、全精魂を込めて、こう呼びかけるのであった。
「やらこいな!」(やろうじゃないか)
しかし、その浜田のたった一言が、いつも皆の胸に響いた。その言葉で、同志は奮い立ち、島根の広布の大発展をもたらしていくことになるのである。
(「凱旋」の章、117~118ページ)
青年部が全責任を担い立て

<5月、伸一は青年部のリーダーとの懇談で、学会を担い立つ自覚について訴える>
「戸田先生の時代、青年部は学会の全責任を担い、常に学会の発展の原動力になっていた。戸田先生の言われた七十五万世帯は、誰がやらなくとも、青年部の手で成就しようという気概があった。そして、各支部や地区にあっても、青年が布教の先頭に立ってきた。また、何か問題が生じた時に、真っ先に飛んで行き、対処してきたのも青年部であった。すべてを青年部の手で担ってきました。
だから、戸田先生も、『青年部は私の直系だ』と言われ、その成長に、最大の期待を寄せてくださっていたのです。しかし、学会が大きくなり、組織が整ってくるにつれて、青年が壮年や婦人の陰に隠れ、十分に力が発揮されなくなってきているように思えてならない。端的にいえば、自分たちだけで小さくまとまっていく傾向にあることが、私は心配なんです。青年部に、学会の全責任を担うという自覚がなければ、いつまでたっても、後継者として育つことなどできません」(中略)
彼は、一部員であったころから、戸田の広宣流布の構想を実現するために、学会の全責任をもとうとしてきた。その自覚は班長の時代も、青年部の室長の時代も、常に変わらなかった。もちろん、立場、役職によって、責任の分野や役割は異なっていた。しかし、内面の自覚においては、戸田の弟子として、師の心をわが心とし、学会のいっさいを自己の責任として考えてきた。
(「青葉」の章、155~156ページ)
人生の根本目的は広宣流布

<水滸会の友との質問会で、伸一は「仏法への帰命」について語る>
「帰命という問題ですが、現代の状況のなかでは、自分の人生の根本の目的は広宣流布であると決めて、生きて、生きて、生き抜くことが、仏法に身命を奉ることになるといえるでしょう。
広宣流布を自分の人生の根本目的とするならば、学会員として、職場にあっても第一人者にならざるを得ない。自分が職場の敗北者となってしまえば、仏法のすばらしさなど証明できないし、誰も信心など、するわけがないからです。また、家庭にしても、和楽の家庭をつくらなければならないし、健康にも留意することになる。
ゆえに、広宣流布を根本にした人生を歩むということは、社会の勝利者となって、幸福になっていくということなんです。したがって、それは、決して、悲壮感が漂うような生き方とはなりません」
いつの間にか、屋外の雨の音も消えていた。
伸一は、「帰命」ということについて、さらに別の角度から語っていった。
「見方を変えて語るならば、たとえば、広宣流布のために活動する時間をどれだけもつか、ということにもなってきます。
これは、極めて計量的な言い方だが、仮に一日二時間の学会活動を、六十年間にわたってすれば、計算上は五年間の命を仏法に捧げたことになる。
ともあれ、広宣流布こそわが生涯と決めて、自らの使命を果たそうとしていく生き方自体が、仏法に帰命していることに等しいといえます」
(「立正安国」の章、255~256ページ)
未来へ、大飛躍の時は「今」

<伸一は、10月の欧州訪問でデンマークのコペンハーゲンを訪れた際、仕事が多忙で思うように学会活動に参加できずにいた男子部員の塩田啓造を激励する>
「いいんだよ。仕事が大変なことはわかっている。ただ、心は、一歩たりとも信心から離れないことだ。
また、こうして、少しでも時間があれば、私にぶつかって来る、あるいは、先輩にぶつかっていくということが大事なんだよ。
私も、なすべき課題は山ほどあるが、時間は限られている。そこで、心がけていることは、一瞬たりとも時間を無駄にしないということだ。さっきも、日本の同志に、手紙を書いていたんだよ」
見ると、机の上には、既に書き上げられた、二十通ほどの封書や絵葉書があった。
それは、塩田の胸に、勇気の炎を燃え上がらせた。
“忙しいのは、自分だけじゃないんだ。先生は、もっと忙しいなか、こうして戦われているんだ。ぼくも挑戦を忘れてはいけないんだ!”(中略)
伸一は、さらに、言葉をついだ。
「塩田君。人生は長いようで短い。ましてや、青年時代は、あっという間に過ぎていってしまう。今、学会は、未来に向かって、大飛躍をしようとしている。広宣流布の大闘争の『時』が来ているんだ。時は『今』だよ」
(「大光」の章、315~316ページ)
山本伸一の「立正安国論」講義
<第4巻で描かれる1961年(昭和36年)は、自然災害や疫病が猛威をふるい、国際情勢も不安定だった。
この年の8月、山本伸一は夏季講習会で「立正安国論」を講義した。
ここでは、「立正安国」の章から、その講義の一部を紹介する>

夏季講習会で「立正安国論」を講義する池田先生(1961年8月、静岡で)
伸一は、「須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を禱らん者か」(御書三一ページ)の御文では、仏法者の社会的使命について論じていった。(中略)
「この意味は、『当然のこととして、一身の安堵、つまり、個人の安泰を願うならば、まず、四表、すなわち、社会の安定、世界の平和を祈るべきである』ということです。
ここには、仏法者の姿勢が明確に示されている。
自分の安らぎのみを願って、自己の世界にこもるのではなく、人びとの苦悩を解決し、社会の繁栄と平和を築くことを祈っていってこそ、人間の道であり、真の宗教者といえます」
(287~288ページ)
◇
「世の中の繁栄と平和を築いていく要諦は、ここに示されているように、社会の安穏を祈る人間の心であり、一人ひとりの生命の変革による“個”の確立にあります。
そして、社会の安穏を願い、周囲の人びとを思いやる心は、必然的に、社会建設への自覚を促し、行動となっていかざるを得ない。
創価学会の目的は、この『立正安国論』に示されているように、平和な社会の実現にあります」
(288ページ)
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