第45回SGI提言① 世界各地で相次ぐ異常気象の被害2020年1月26日
気候変動の問題に立ち向かう
グローバルな連帯の拡大を
創価学会の創立90周年とSGI(創価学会インタナショナル)の発足45周年を記念し、誰もが尊厳をもって安心して生きられる「持続可能な地球社会」を築くための提言を行いたいと思います。
最初に述べておきたいのは、年頭以来、緊張が続くアメリカとイランの対立を巡る情勢についてです。
両国の間で現在続けられている自制を今後も最大限に維持しながら、国際法の遵守と外交努力を通じて事態の悪化を何としても防ぐことを強く求めたい。そして、国連や他の国々による仲介も得ながら、緊張緩和への道を開いていくことを切に望むものです。
世界では今、異常気象による深刻な被害が相次いでいます。
昨年もヨーロッパやインドが記録的な熱波に見舞われたほか、各地で猛烈な台風や集中豪雨による水害が発生し、オーストラリアで起きた大規模な森林火災の被害は今も続いています。
このまま温暖化が進むとさらに被害が拡大するとの懸念が高まる中、昨年9月に国連で気候行動サミットが行われました。
国連加盟国の3分の1にあたる65カ国が、温室効果ガスの排出量を2050年までに実質ゼロにするとの方針を表明しましたが、そうした挑戦を全地球的な規模に広げることが急務となっています。
気候変動は、単なる環境問題にとどまるものではありません。
地球上に生きるすべての人々と将来の世代への脅威という意味で、核兵器の問題と同様に“人類の命運を握る根本課題”にほかならないものです。
そして何より、国連のアントニオ・グテーレス事務総長が強調するように、「私たちの時代を決定づける問題」(国連広報センターのウェブサイト)としての重みを持つものといえましょう。
実際、気候変動の影響は貧困や飢餓の根絶をはじめとする国連のSDGs(持続可能な開発目標)の取り組みを土台から崩しかねないものとなっています。
そこで焦点となるのは、負の連鎖に歯止めをかけることだけではありません。
気候変動の問題は、誰もが無縁ではないものであるがゆえに、問題の解決を図るための挑戦が、これまでにないグローバルな行動の連帯を生み出す触媒となる可能性があり、その成否に「私たちの時代を決定づける問題」の要諦があると訴えたいのです。
気候行動サミットと相前後して、若い世代を中心に時代変革を求める動きが広がったのに加えて、各国の自治体をはじめ、大学や企業が意欲的な取り組みを加速させようとしています。
国際社会を挙げて平均気温の上昇幅を1・5度以内に抑えることを目指す「パリ協定」(※注1)の本格運用も、今月から始まりました。
その推進を軸に気候変動の問題に立ち向かう連帯を広げる中で、SDGsのすべての分野を前進させるプラスの連鎖を巻き起こすことに、創設75周年を迎える国連の重要な使命もあるのではないでしょうか。
そこで今回は、グローバルな行動の連帯を強固に築くために必要となる視座について、三つの角度から論じたいと思います。
* * * * *
注1 パリ協定
2015年12月、フランス・パリ郊外での気候変動枠組条約の第21回締約国会議で合意された国際協定。18世紀の産業革命前と比べて平均気温の上昇を2度より十分低く保つとともに、1.5度以内に抑える努力をすることを目指す。196カ国・地域が参加し、各国が5年ごとに温室効果ガスの削減目標を定めて、国連に実施状況を報告する仕組みとなっている。
☆多くの人命と尊厳を脅かす
温暖化と異常気象の被害
海面上昇の影響で水没の危機に直面
第一の柱は、困難な状況に陥った人々を誰も置き去りにしないことです。
近年、災害の被害が拡大する中、大半は異常気象によるものとなっています。
日本でも昨年、台風15号や台風19号によって各地が猛烈な暴風雨に見舞われ、大規模な浸水被害や停電と断水による日常生活の寸断が起きましたが、気候変動の影響は先進国か途上国かを問わず広範囲に及んでいます。
その中で世界的な傾向として懸念されるのは、国連が留意を促しているように、その影響が、貧困に苦しむ人々や社会的に弱い立場にある人々をはじめ、女性や子どもと高齢者に強く出ていることです。
そうした人々にとって、異常気象の被害を避けることは難しく、生活の立て直しも容易ではないだけに、十分な支援を続けることが求められます。
また、気候変動が招く悲劇として深刻なのは、住み慣れた場所からの移動を余儀なくされる人々が増加していることです。
中でも憂慮されるのが、太平洋の島嶼国の人々が直面する危機です。
海面上昇による土地の水没が原因であるために、一時的な避難では終わらず、帰郷できなくなる可能性が高くなるからです。
私が創立した戸田記念国際平和研究所では、この太平洋の島嶼国における気候変動の影響に焦点を当てた研究プロジェクトを、2年前から進めてきました。
そこで特に浮き彫りになったのは、島嶼国で暮らす人々にとって「土地とのつながり」には特別な意味があり、その土地の喪失は自分自身の根源的なアイデンティティーを失うことに等しいという点でした。
他の島などに移住して“物理的な安全”が確保できたとしても、自分の島で暮らすことで得てきた“存在論的な安心感”は失われたままとなってしまう。ゆえに、気候変動の問題を考える際には、こうした抜きがたい痛みが生じていることを十分に踏まえなければならない――というのが、研究プロジェクトの重要なメッセージだったのです。
「土地とのつながり」を失う悲しみは、これまでも地震や津波のように避けることが難しい巨大災害によって、しばしば引き起こされてきたものでした。
それは、家族や知人を突然亡くした辛さとともに耐えがたいものであり、私も東日本大震災の翌年(2012年)に発表した提言で、その深い悲しみを社会で受け止めることが欠かせないと強調した点でもありました。
「樫の木を植えて、すぐその葉かげに憩おうとしてもそれは無理だ」(『人間の土地』堀口大學訳、『世界文学全集』77所収、講談社)との作家のサン=テグジュペリの含蓄のある言葉に寄せながら、自分の生きてきた証しが刻まれた場所や、日々の生活の息づかいが染みこんだ家を失うことの心痛は計り知れないものがある、と。
ともすれば気候変動に伴う被害を巡って、数字のデータで表されるような経済的損失の大きさに目が向けられがちですが、その陰で埋もれてきた“多くの人々が抱える痛み”への眼差しを、問題解決に向けた連帯の基軸に据えることが大切ではないでしょうか。
音楽隊による「希望の絆」コンサート(昨年1月、福島・いわき市で)。東日本大震災をはじめ、豪雨災害などの被害を受けた地域で、被災者の“心の復興”を願って開催されてきた公演は150回を超える。その活動は、国連防災機関が運営するウェブサイトでも紹介された
マクロ的な数値の陰で一人一人が直面している窮状が埋もれてしまう構造は、近年、エスカレートする貿易摩擦の問題においても当てはまるのではないかと思います。
自国の経済の回復を図るために、関税の引き上げや輸入制限などを行う政策は、「近隣窮乏化政策」と呼ばれます。しかし、グローバル化で相互依存が深まる世界において、その応酬が続くことは、「自国窮乏化」ともいうべき状態へと、知らず知らずに陥ってしまう危険性もあるのではないでしょうか。
実際、貿易摩擦の影響で多くの中小企業が業績悪化に陥ったり、雇用調整の圧力が強まって仕事を失う人々も出てきています。
貿易収支のような経済指標の改善は重要な課題だとしても、自国の人々を含め、多くの国で弱い立場にある人々に困難をもたらす状況が続くことは、世界中に不安を広げる結果を招くと思えてなりません。
昨年の国連総会でグテーレス事務総長も、深刻な脅威に直面する場所を訪れた時に出会った人々――南太平洋で海面上昇のために暮らしが押し流されることを心配する家族や、学校と家に戻ることを夢見る中東の若い難民、アフリカで生活の再建に苦労するエボラ出血熱の生存者などの姿を挙げながら、次のような警告を発していました。
「極めて多くの人々が、踏みつけられ、道をふさがれ、取り残されるのではないかという恐怖を感じています」(国連広報センターのウェブサイト)と。
私も同じ懸念を抱いており、グローバルな課題といっても、一人一人の生命と生活と尊厳が脅かされている状況にこそ、真っ先に目を向ける必要があると訴えたいのです。
☆牧口初代会長が警鐘を鳴らした
他者を顧みない競争の弊害
『人生地理学』で提起された問題
気候変動も貿易摩擦も、経済と社会のあり方に深く関わる問題といえますが、この古くて新しい問題について考える時に思い起こされるのは、私ども創価学会の牧口常三郎初代会長が20世紀初頭に著した『人生地理学』で提起していた視点です。
牧口会長は、武力による戦争が「臨時的」に引き起こされるものであるのに対し、経済的競争は「平常的」に行われる特性があると指摘した上で、こう論じていました。
「彼(=武力による戦争)が遽然として惨劇の演ぜらるるが故に意識的に経過するに反して、此(=経済的競争)は徐々として緩慢に行わるるが故に無意識的に経過するにあり」(『牧口常三郎全集』第2巻、第三文明社。注<=>を補い、現代表記に改めた。以下同じ)
牧口会長が強調したかったのは、戦争の残酷さは明白な形で現れるために多くの人々に意識され、交渉や仲裁によって被害の拡大を食い止める余地が残されているが、経済的競争はそうではないという点です。
つまり、経済的競争は自然的な淘汰に半ば一任されるような形で無意識的に休むことなく続けられるために、社会における日常的な様相と化してしまう。そのために、人々を苦しめる状況や非人道的な事態が生じても往々にして見過ごされることになる、と。
当時、世界では帝国主義や植民地主義の嵐が吹き荒れ、他国の犠牲の上に自国の繁栄を追い求める風潮が広がっていました。
こうした風潮が当たり前のようになってしまえば、“ある程度の犠牲が生じてもやむを得ない”とか“一部で被害が出ても自分たちには関係がない”といった受け止めが社会に沈殿することになりかねない。
その結果、弱肉強食的な競争が歯止めなく進む恐れがあり、牧口会長は「終局の惨劇においては却って遙かに烈甚なるにあり」(同)と警鐘を鳴らしましたが、その危険性は、当時とは比べものにならないほどグローバル化が進んだ21世紀の世界において、格段に増しているのではないでしょうか。
もとより牧口会長は、社会の営みにおける競争の価値そのものは否定しておらず、切磋琢磨があってこそ新しい活力や創造性は豊かに育まれると考えていました。あくまで問題視したのは、世界を生存競争の場としか見ずに、自分たちだけで生きているかのような感覚で振る舞い続け、その結果に無頓着でいることだったのです。
「共同生活」を意識的に行う
牧口会長の思想の基盤には、世界は「共同生活」の舞台にほかならないとの認識がありました。
その世界観の核となった実感を、牧口会長は『人生地理学』の緒論で、自らの経験を通して、こう述べています。
――子どもが生まれて母乳が得られなかった時、粗悪な脱脂粉乳に悩まされたが、医師の薦めでスイス産の乳製品にたどりつくことができ、ことなきを得た。スイスのジュラ山麓で働く牧童に感謝する思いだった。また、乳児が着ている綿着を見ると、インドで綿花栽培のために炎天下で働く人の姿が思い浮かぶ。
平凡な一人の乳児も、その命は生まれた時から世界につながっていたのだ――と。(趣意。同全集第1巻)
出会ったこともない世界の人々への尽きせぬ感謝の思いが示すように、牧口会長は「共同生活」という言葉を世界のあるべき姿としてではなく、見落とされがちな世界の現実(実相)として位置付けていました。
世界は本来、多くの人々の営みが重なり合い、影響を与え合う中で成り立っているにもかかわらず、その実相が見失われる形で競争が続けられることになれば、深刻な脅威や社会で生じた歪みの中で苦しんでいる人々の存在が目に映らなくなってしまう。
だからこそ、「共同生活」を意識的に行うことが重要となるのであり、「自己と共に他の生活をも保護し、増進せしめんとする」(同全集第2巻)生き方を社会の基調にする必要があるというのが、牧口会長の主張の眼目だったのです。
経済発展と温暖化防止についても両立の余地がないわけではないと思います。
2014年からの3年間は世界経済の成長率が3%を超えていたものの、温室効果ガスである二酸化炭素の排出量は、ほぼ横ばいの状態が続きました。
その後、残念ながら排出量は再び増加に転じましたが、再生可能エネルギーの導入やエネルギー効率の改善のような「自己と共に他の生活をも保護し、増進せしめんとする」方法を意欲的に選び取る中で、経済と社会の新しいあり方を追求していくべきではないでしょうか。
私は、この「共同生活」を意識的に行う上での土台となるのは、深刻な脅威にさらされているのは自分たちと変わらない人々であるとの認識を持つことだと考えます。
この点、経済的競争と深く関わる貧困の問題について、マクロ的な視座からではなく、人々の置かれた状況を踏まえて実証的な研究を進めてきた経済学者に、マサチューセッツ工科大学のアビジット・バナジー教授とエスター・デュフロ教授がいます。
両教授は、ハーバード大学のマイケル・クレマー教授と共に昨年のノーベル経済学賞を受賞しており、『貧乏人の経済学』(山形浩生訳、みすず書房)と題する著作の中で、次のような点を強調していました。
世界の最貧困層と呼ばれる人々も、「ほとんどあらゆる点でわたしたちみんなと何も変わらない」のであり、他の人々と比べて合理性の面で劣るわけではない、と。
一方で豊かな国の人々は、安全な水や医療のような「眼に見えないあと押し」に囲まれて生活しているのに、「ただそれがシステムにしっかり埋めこまれているため、気がついていないだけ」であると指摘しました。
また、貧しい人々の状況について「そうでない人よりもリスクの多い暮らしを送るにとどまりません。同じ規模の不運でも、受ける被害はずっと大きいのです」と述べ、人々を紋切り型で判断せず、置かれた状況に目を向ける必要があると訴えていたのです。
☆苦悩に沈む人を一人のままにしない
釈尊が貫いた「同苦」の精神
不幸の淵から共に立ち上がる
人々と向き合うにあたって、階層や集団などの社会的なカテゴリーにとらわれず、今どのような状態にあるのかを最優先して見つめる眼差しは、私どもが信奉する仏法においても強調されていたものでした。
釈尊の言葉に、「身を禀けた生きものの間ではそれぞれ区別があるが、人間のあいだではこの区別は存在しない。人間のあいだで区別表示が説かれるのは、ただ名称によるのみ」(『ブッダのことば』中村元訳、岩波書店)とあります。
その趣旨は、人間には本来、区別はないのに、社会でつくられた分類に応じて名前が付けられてきたのにすぎないことを、浮き彫りにする点にありました。
実際、釈尊は重い病気を患った人に対して、自ら看病したり、励ましの言葉をかけていましたが、そこには相手の社会的立場の区別はなかった。
その対象は、通りがかった場所で目にした修行僧から、かつて釈尊の命を狙ったことのある阿闍世王までさまざまでした。
しかし、そこには共通点がありました。修行僧が仲間たちから見放されて一人で病床に臥せっていたのと同じように、阿闍世王も深刻な難病にかかって誰も近づかないような状態に陥っていたからです。
釈尊は修行僧に対し、汚れていた体を洗い、新しい衣類を用意して着替えさせました。
また阿闍世王に対して、釈尊は自身が余命いくばくもないことを感じていたにもかかわらず、あえて阿闍世王と会う時間をつくり、法を説くことで病状の回復を後押ししたのです。
私はこうした釈尊の振る舞いに、“苦しんでいる人を決して一人のままにしない”“困難を一人で抱えたままの状態にしない”という、仏法の「同苦」の精神の源流を見る思いがしてなりません。
仏法の視座から見れば、「弱者」という存在も初めからあるのではなく、社会でつくられ、固定化されてしまうものにすぎない。
たとえ、「弱者」と呼ばれる状態に陥ったとしても、困難を分かち合う人々の輪が広がれば、状況を好転させる道を開くことができる。同じ貧困や病気に直面しても、周囲の支えがあることで生の実感は大きく変わるというのが、仏法の思想の核をなしています。
牧口会長の言う「共同生活」を意識的に行う生き方も、困難を抱えた人々を置き去りにしないことが基盤になると思うのです。
☆国連の使命は「弱者の側に立つ」中に
2008年に世界を激震させた金融危機が起きた時、国連で事務次長などを歴任したアンワルル・チョウドリ氏との対談で焦点となったのも、経済的に厳しい状況にある国々や、社会的に弱い立場にある人々への支援を最優先にすることの重要性でした。
その際、チョウドリ氏は、気候変動をはじめ、金融の極端な逼迫や商品価格の急激な変動といった外的ショックを緩和するためのグローバルなセーフティーネット(安全網)を設ける必要性を訴えていました。
私もまったく同感であり、21世紀の国連に強く求められる役割は「弱者の側に立つ」ことにあるとの点で意見が一致したのです。
チョウドリ氏は、国連で2001年に新設された「後発開発途上国ならびに内陸開発途上国、小島嶼開発途上国のための高等代表事務所」で初代の高等代表に就任し、国際社会から置き去りにされがちだった国の人々のために行動してきた経験を持つ方でした。
その氏が、「一番嬉しかったのは、最も弱い立場にある国々の状況が大きく改善したことを知るときでした」(『新しき地球社会の創造へ』潮出版社)と述懐されていたことに、私は深い感銘と共感を覚えました。
なぜなら、創価学会も草創期に“貧乏人と病人の集まり”と揶揄されてきた歴史があり、社会から見捨てられてきた名もなき人々が互いに励まし合い、不幸の淵から共に立ち上がってきたという出自を、何よりの誉れとしてきたからです。
どれだけ冷笑されても、「私は、やるべきことをやっていきます。それは、貧乏人と病人、悩み苦しんでいる人々を救うことです。そのために、声を大にして叫ぶのです」(『戸田城聖全集』第4巻)と信念の行動を貫いたのが、牧口初代会長と共に創価学会の民衆運動を立ち上げた戸田城聖第2代会長でした。
ハマーショルドが第九に託した思い
その戸田会長が熱願としていたのが、地球上から“悲惨”の二字をなくすことでした。それは、第2次世界大戦で多くの国の民衆が戦火に見舞われ、塗炭の苦しみを味わった悲劇を繰り返してはならないとの思いに発したものでした。
それだけに、二度に及んだ世界大戦の痛切な反省に基づいて創設された国連に限りない期待を寄せ、“世界の希望の砦”として守り育てていかねばならないと訴えていたのです。
私が60年前に第3代会長に就任した時、世界平和への行動を本格的に開始するにあたって、最初の一歩としてアメリカに向かい、国連本部に足を運んだのも、師の思いを受け継いでのことにほかなりません。
以来、私どもは国連に対する支援を社会的な活動の大きな柱に据えて、志を同じくする人々や多くのNGO(非政府組織)との連帯を強めながら、地球的な課題の解決を前進させるための行動を続けてきました。
国連の歴史を繙くと、私が1960年にニューヨークを訪れた直後の国連デー(10月24日)に、当時のダグ・ハマーショルド事務総長の提案で、ベートーベンの交響曲第九番の全楽章の演奏が国連本部で行われたことが記されています。
それまで国連で“第九”が演奏される時は最後の第四楽章のみの演奏が恒例となっていましたが、国連デーの15周年を記念して、全楽章を通しての演奏が行われたのです。
席上、ハマーショルド事務総長は次のようにスピーチしました。
「交響曲第九番が始まると、我々は激しい対立と陰鬱な脅威に満ちたドラマに入っていく。しかしベートーベンは我々をその先へと誘い、第四楽章の冒頭で我々は、最終盤における統合に向けた橋渡しとして、さまざまな主題が繰り返されるのを再び耳にする」と。
その上で、楽曲の展開を人類の歴史になぞらえつつ、「最初の三つの楽章の後に、いつの日か、第四楽章が続いて現れることになるとの信念を、我々は決して失うことはないだろう」との希望を述べたのです。
ハマーショルド事務総長のこの信条は、牧口会長が『人生地理学』で示していた時代展望と響き合うものでもありました。
20世紀の初頭に牧口会長が危惧を呈していた、多くの人々の犠牲の上に自らの安全と繁栄を追い求めるような「軍事的競争」や「政治的競争」や「経済的競争」は、残念ながら今なお世界から消え去ってはいません。しかし“第九”の第四楽章での合唱が「おお友よ、こんな調べではなく!」と始まるように、従来の競争のあり方を転換させるアプローチを生み出すことが必ずできるはずです。
牧口会長はその骨格を、「他のためにし、他を益しつつ自己も益する」(前掲『牧口常三郎全集』第2巻)との理念に基づく人道的競争として提起していましたが、気候変動の問題に立ち向かうグローバルな行動の連帯を広げることで、人類史の新たな地平を開くパラダイムシフト(基本軸の転換)を推し進めるべきであると、私は強く呼び掛けたいのです。
そして、その挑戦の主旋律となるのが、「困難な状況に陥った人々を誰も置き去りにしない」との思いではないでしょうか。
その主旋律をあらゆる場所で力強く響かせていく中でこそ、気候変動という未曽有の危機も、時代の潮流を転換させるチャンスに変えることができるに違いないと信じるのです。
☆利己主義や悲観主義を乗り越え
大切なものを共に守る世界を
パリ協定の運用が今月からスタート
次に第二の柱として提起したいのは、危機感の共有だけでなく、建設的な行動を共に起こすことの重要性です。
そもそも地球温暖化に対する警鐘は1980年代から鳴らされてきたもので、気候変動枠組条約が採択されたのは、ブラジルのリオデジャネイロでの国連環境開発会議(地球サミット)が開催される直前の92年5月でした。
その後、先進国を対象にした温室効果ガスの排出量を削減する枠組みとして「京都議定書」が97年に採択され、新興国や途上国も含めた枠組みとして「パリ協定」が合意をみたのは2015年12月でした。
全地球的な枠組みが成立した背景には、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)が積み上げてきた科学的検証を通じて、温暖化がもたらす影響への認識が広がってきたのに加えて、異常気象が各地で相次ぎ、“目に見える脅威”としての危機感が募ってきたことがあるといえましょう。
いよいよ今月から「パリ協定」の本格運用が始まりましたが、その前途には容易ならざる課題が立ちはだかっています。
IPCCの特別報告書によれば、温暖化が現在のペースで進むと、早ければ2030年に、世界の平均気温は「パリ協定」が抑えようとしている“1・5度の上昇幅”を突破する恐れがあり、各国の取り組みを即座に加速させねばならない状況があるからです。
事態を打開するためには、危機感の共有に加えて、多くの人々の積極的な行動を鼓舞するような、連帯の結集軸となるものを掲げる必要があるのではないでしょうか。
脅威を強調するだけでは、被害が直接及ばない限り、関心の輪が広がりにくい傾向がみられます。また、脅威を深刻に受け止めた場合でも、その規模の大きさを前にして“自分が何かをしたところで状況は変わらない”との無力感に陥る可能性があるからです。
ボールディング博士の問題提起
この点、課題の分野は異なりますが、平和学者のエリース・ボールディング博士が、私との対談の中で印象深いエピソードを紹介してくださったことを思い出します。
――博士が1960年代に軍縮に関する会議に出席した時、「もし完全な軍縮を達成することができたら、どのような世界になるのでしょうか」と質問したことがあった。
そこで返ってきた答えは、次のような思いもよらないものだった。
「私たちにはわからない。私たちの仕事は、軍縮が可能であることを説くことにあると思う」――と。
このような経験を踏まえて博士は、「平和な社会がどのような社会であるか」を具体的に思い描くことなくして、平和を求める運動を力強く結集するのは難しいのではないかと問題提起していたのです。(『「平和の文化」の輝く世紀へ!』、『池田大作全集』第114巻所収)
非常に重要な観点であり、私どもSGIもICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)と共同制作し、2012年から世界90都市以上で行ってきた「核兵器なき世界への連帯」展を通し、「平和な社会」のビジョンを幅広く喚起することに力を入れてきました。
ともすれば核兵器の問題は人類の破滅のイメージと結びつくために、できれば直視したくないものとして受け止められがちです。
一方、この展示では、訪れた人々に“あなたにとって大切なものとは?”との問いを投げかけることから始まります。
その問いかけを通し、自分にとって大切なものだけでなく、他の人々にとって大切なものを守るには、どのような世界を築いていけばよいのかという「建設」への思いを共に育むことに主眼を置いてきたのです。
長らく不可能と言われてきた核兵器禁止条約が2017年に採択をみたのも、非人道性に対する懸念の高まりと相まって、核兵器の禁止を通して築かれる世界のビジョンの輪郭が浮かび上がる中で、連帯の裾野が大きく広がるようになったからだと私は考えます。
禁止条約で強調されているのは、核兵器のもたらす危険が「すべての人類の安全」に関わるとの警鐘だけではありません。
前文でその輪郭が示されているように、禁止条約の精神の基底には、核兵器の禁止を前に進めることは、そのまま、人権とジェンダー平等が守られる世界を築き、すべての人々と将来世代の健康を保護する世界への道を開き、地球環境を大切にする世界にもつながっていくとのビジョンが描かれています。
同様に、気候変動の問題に立ち向かう上でも、平均気温の上昇を抑えるという数値目標の追求だけでなく、問題解決を通して実現したい世界のビジョンを分かち合いながら、その建設に向かって意欲的な行動を共に起こすことが肝要ではないでしょうか。
こうした建設の挑戦の中に、自分たちが被害を受けなければ問題ないと考える“利己主義”でも、課題の困難さに圧倒されて行動をあきらめてしまう“悲観主義”でもない、第三の道があると訴えたいのです。
私どもSGIが、国連環境開発会議(地球サミット)が行われた1992年に開設したブラジルの「創価研究所――アマゾン環境研究センター」で、熱帯雨林の再生や生態系を保全する活動を続ける一方で、国連の「持続可能な開発のための教育の10年」を支援する一環として開催してきた展示に、「変革の種子」や「希望の種子」とのタイトルを付けてきたのは、ゆえなきことではありません。
誰もが今いる場所で、持続可能な地球社会の“建設者”となることができるのであり、一つ一つの行動が世界に尊厳の花を咲かせる「変革の種子」となり、「希望の種子」になるとの思いが込められています。
☆法華経が説く国土変革のドラマ
自分の足元から希望を灯す
娑婆即寂光の法理
脅威に対して建設的に向き合うこのアプローチは、仏法の思想に根差したものです。
釈尊の教えの精髄が説かれた法華経には、「娑婆即寂光」という法理があります。
「娑婆」とはサンスクリット語の“サハー(堪忍)”を漢語にしたもので、「娑婆世界」という言葉には、私たちが生きる世界は“さまざまな苦しみに満ちた世界”であるという釈尊の洞察が込められていました。
釈尊がこの洞察を土台にしつつも、「私は二十九歳で善を求めて出家した」(中村元『釈尊の生涯』平凡社)と宣言したように、それは厭世的な認識ではなく、根底には“人々が苦悩に沈むことなく幸福に生きるにはどうすれば良いのか”との真摯な問いが脈打っていました。
釈尊の評伝を思想的な観点からまとめあげた哲学者のカール・ヤスパースが、「仏陀が教えるのは認識体系ではなく、救済の道である」(『佛陀と龍樹』峰島旭雄訳、理想社)と述べたのは、その本質を突いたものといえましょう。
そこを外して、苦しみに満ちた世界という認識だけが先行すると、世界との向き合い方は誤った方向に傾きかねない。「自分だけが苦しみから解放されれば良い」といった考えや、「社会の厳しい現実として諦めるほかない」との無力感に陥ったり、「誰かが解決してくれるのを待つしかない」といった受け身的な生き方に流される恐れがあるからです。
釈尊の本意は、娑婆世界は“堪え忍ぶしかない場所”ではなく、“人々が願ってやまない世界(寂光土)を実現する場所”であると説き明かすことにありました。
この法理が具体的なイメージをもって描かれているのが、法華経の見宝塔品です。そこでは、釈尊の説法を聞くために集まった大勢の人々がいた場所、すなわち娑婆世界の大地から、尊極の光を放つ巨大な宝塔が涌出したことをきっかけに、娑婆世界が寂光土へと変わっていく様子を人々が目の当たりにする場面が描かれています。
13世紀の日本で仏法を展開した日蓮大聖人は、この「娑婆即寂光」の法理の要諦について、「此を去って彼に行くには非ざるなり」(御書781ページ)と説きました。
つまり、人々が願い求める理想の「寂光土」は、どこか別の場所にあるのでも、手の届かない遠い場所にあるのでもない。
自分たちが今いる場所をそのまま「寂光土」として輝かせていく行動を広げることに、法華経のメッセージの核心がある――と。
大聖人の時代の日本でも、戦乱に加えて、地震や台風などの災害や疫病が相次ぎ、多くの民衆が苦悩に沈んでいました。
さらに当時の社会では、自分の殻に閉じこもることで現実から目を背けさせる思想や、人間は非力な存在にすぎないとの諦観を説く思想が蔓延しており、それがまた人々から生きる気力を奪う悪循環を生んでいました。
その中にあって大聖人は、法華経で説かれる国土変革のドラマの起点となった宝塔の出現について、「見大宝塔とは我等が一身なり」(同740ページ)と述べ、苦しみに満ちた世界を照らした宝塔と同じ尊極の光が、自分にも他の人々にも具わっていることに目覚めることが、人間の限りない力を引き出す源泉になると説きました。
そして、一人一人が自らの生命を宝塔のように輝かせ、社会を希望で照らす行動を広げる中で、自分たちが望む世界を自らの手で建設することの重要性を訴えたのです。
ケニアから世界に広がった植樹運動
以前(2005年2月)、ケニアの環境運動家のワンガリ・マータイ博士と、自分の足元から新しい世界の建設に向けた希望を灯す挑戦について語り合ったことがあります。
たった7本の苗木の植樹から始まった「グリーンベルト運動」の思い出を振り返りながら、博士はこう述べていました。
「未来は未来にあるのではない。今、この時からしか、未来は生まれないのです。将来、何かを成し遂げたいなら、今、やらなければならないのです」と。
マータイ博士が春風のような笑顔をひときわ輝かせたのは、創価大学の学生たちが「グリーンベルト運動」の愛唱歌を博士の故郷のキクユ語で歌って歓迎した時でした。
「ここは私たちの大地
私たちの役割は
ここに木を植えること」
歌声に合わせて全身でリズムをとり、一緒に口ずさむ博士の姿を前にして、植樹運動がケニアからアフリカの国々に広がる原動力となった“建設の挑戦を進める喜び”がここにあると、感じられてなりませんでした。
思い返せば、博士と対談したのは、温室効果ガス削減の最初の枠組みとなった「京都議定書」の発効から2日後のことでした。
「京都議定書」の発効のような、歴史の年表に刻まれる出来事に比べると、マータイ博士がケニアで最初に始めた行動は目立たないものだったかもしれない。
しかし、博士が自分の足元で灯した希望の光は、歳月を経るごとに共感の輪を広げて、国連環境計画のキャンペーンなどの多くの植樹運動につながり、博士の逝去後も続けられる中で、現在まで150億本にものぼる植樹が世界で進められてきました。
また、昨年の国連の気候行動サミットでも、パキスタンやグアテマラなど多くの国が、合計で110億本以上の植樹を今後進めることを誓約したのです。
今も忘れ得ぬマータイ博士の言葉があります。
「私たちは、自らの小さな行いが、物事を良い方向に変えていることを知っています。もしこの行いを何百万倍にも拡大することができたなら、私たちは世界を良くすることができるのです」
“建設の挑戦を進める喜び”がどれだけの力を生み出すのかを、実感をもって訴えかける言葉ではないでしょうか。
その後も続けられた両者の対話は、対談集『地球対談 輝く女性の世紀へ』に結実した
SGIの「希望の種子」展では、このマータイ博士をはじめ、大気汚染の防止に取り組んだ未来学者のヘイゼル・ヘンダーソン博士など、自分の足元から行動の輪を広げた人々の挑戦を紹介してきました。
マータイ博士が行動を始めたきっかけは、故郷のシンボルとして大切に感じていたイチジクの木が経済開発のあおりで伐採されたのを知ったことでした。
また、ヘンダーソン博士が立ち上がった理由は、ニューヨークで深刻化していた大気汚染のために、幼い娘さんの肌がすすで汚れるようになったことでした。
いずれも、その原点には心に受けた強い痛みがあった。だからこそ博士たちは、「世界で欠けていてはならない大切なもの」が何かを、身に染みて感じたのだと思います。
二人は、その痛みを痛みのままで終わらせなかった。マータイ博士が“木々を植えることは貧困と飢えのサイクルを断ち切り、平和を育む”との思いを胸に植樹運動を広げ、ヘンダーソン博士が“きれいな空気を子どもたちのために取り戻したい”と願い、仲間と力を合わせて行動を起こしたように、自分たちが望む世界を現実にするための「建設」のエネルギーへと昇華させていったのです。
こうした数々の挑戦の物語を紹介する「希望の種子」展で最後に現れるのは、たくさんの葉をつけた1本の木のイラストを背景に“空白”が広がっているパネルです。
その“空白”は、一人一人が今いる場所で挑戦できることは何かを考え、その行動を「希望の種子」として世界に植えることを呼び掛けるメッセージとなっているのです。
国連創設75周年を記念する取り組み
折しも国連では、創設75周年を記念して、「UN75イニシアチブ」と題する取り組みが今月からスタートしました。これは、人類が直面する多くの課題を見据えながら、「どのようにすれば、より良い世界を建設できるのか」について対話と行動を喚起するための取り組みです。
さまざまな形で対話の場を設け、特に国際社会から置き去りにされがちだった人々に重点を置く形で、世界中の人々が抱いている希望や恐怖に耳を傾けるとともに、その経験から学ぶことが主眼となっています。
こうした対話を通じて、国連創設100周年にあたる2045年に向けたグローバルなビジョンを描き出し、実現に向けた協働的な行動を推進することが目指されているのです。
国連では、対話の中心課題の一つとして気候変動を挙げています。
この絶好の機会を逃すことなく、それぞれの人々が深刻な脅威や課題を前にして感じている思いを、より良い世界の建設に向けてのポジティブな挑戦を生み出す糧にすることが大切ではないでしょうか。
気候変動による被害を受けてきた人々をはじめ、多くの人々の思いを、一つ一つのピースとして持ち寄ることを通し、今後築いていきたい世界のビジョンについて、人間としての実感に根差したイメージを共に重ね合わせていく――。
その対話を通じた共同作業と、ビジョンに対する共感の広がりがあってこそ、温暖化防止の取り組みを勢いづかせながら、持続可能な地球社会への確かな軌道を敷くことができると確信するのです。
☆2030年に向けてSDGsに取り組む
「行動の10年」を青年が推進
新しい国連の姿を示したサミット
第三の柱は、SDGsの達成期限である2030年に向けて国連が立ち上げた「行動の10年」の一環として、気候変動問題に焦点を当てた“青年行動の10年”ともいうべき運動を巻き起こしていくことです。
国連で昨年9月、ユース気候サミットが行われました。各国首脳による気候行動サミットに先駆けて開催されたものですが、新しい国連の姿を見る思いがしてなりませんでした。
そこには次の特徴があったからです。
①140カ国・地域以上から集った青年たちが、各国を代表する立場というよりも、同世代の一員として参加していたこと。
②さまざまな討議における議事進行の多くを、国連の関係者ではなく、青年たちが担ったこと。
③登壇者が順番にスピーチをすることが中心となっている国連の一般的な会議とは異なり、活発な議論が重視されたこと。
そして何といっても象徴的だったのは、国連のグテーレス事務総長が「キーノート・リスナー」を務めたことでした。
オープニング行事に出席した事務総長は、青年たちの声を真正面から受け止めながら、議論を支える役割を務めたのです。
かつて私は2006年に発表した国連提言で、「毎年の国連総会の開会前に、世界の青年の代表を招いた『プレ・ミーティング』を行い、青年たちの意見に各国の首脳が耳を傾ける機会を設けることを検討してみてはどうか」と提案したことがあります。
ユース気候サミットは、その先見的なモデルとなるものと思えてなりません。
加えて、世界的な動きとして注目されるのが「グローバル気候ストライキ」です。サミットが開催された時にも、温暖化防止の緊急行動を求める行進が185カ国で実施され、760万人以上が参加しました。
運動の発端となったのは、スウェーデンの高校生であるグレタ・トゥーンベリさんが、気候変動の対策強化を訴えて2年前の夏に始めたストライキでした。
その後、瞬く間に若い世代の間で共感を呼び起こす中で、あらゆる世代の人々が参加するようになったのです。
パリ協定の達成を目指すNGOの「ミッション2020」で議長を務め、サミットの開催に尽力したクリスティアナ・フィゲレス氏(気候変動枠組条約の前事務局長)は、青年たちが怒りを示しているのは明確な理由があるとして、こう述べていました。
「ストライキに参加している人々、特に青年たちは科学を理解し、気候変動が自分たちの人生に及ぼす影響を理解するとともに、気候変動の問題に対処することは可能であることを知っているからだ」と。
つまり、青年たちが変革を不可能と考えていないからこそ温暖化防止の遅れに怒りを示しているのであり、今後、この「怒り」と「楽観主義」が結びつく中で、より大きな力が生まれることに対して期待を寄せたのです。
創価学会の総本部を昨年2月に訪問されたフィゲレス氏は、「聖教新聞」への寄稿でも、困難視されていたパリ協定を合意に導いた自らの経験を振り返りながら、「楽観主義なしに勝利をもたらす道はない」と強調していました。
私も、青年たちの現実変革への思いが、不屈の楽観主義と相まった時の可能性は計り知れないものがあると思えてなりません。
青年の行動は、多くの人々や団体の行動を加速させる波動を広げています。
一つは、世界の大学の動きです。
大学で生じる温室効果ガスの排出量を実質ゼロにすることや、気候変動に関する研究に力を入れ、学内や地域で持続可能性に関する教育を強化することを約束する宣言に対し、賛同する大学が増えています。環境問題に取り組む多くの高等教育機関のネットワークがこれに加わり、所属する大学などは累計で1万6000以上に達しています。
もう一つは、各国の自治体の動きで、温室効果ガスの削減に意欲的に取り組む「世界気候エネルギー首長誓約」の輪が138カ国の1万以上の自治体に広がっています。
ユース気候サミットで登壇したアルゼンチンの学生のブルーノ・ロドリゲスさんは、「気候変動の問題で変化を起こす若者たちは、新たな集団意識を築きつつある」と述べましたが、まさに若い世代の息吹がプラスの連鎖を起こす源泉となってきているのです。
ペッチェイ博士の人生における転機
新しい時代への胎動を前にして脳裏に浮かぶのは、ローマクラブの創設者であるアウレリオ・ペッチェイ博士が述べていた、「公正で民主的な道理を働かせれば、若者たちの声を聞くのが筋なのである」(『未来のための一〇〇ページ』大来佐武郎監訳、読売新聞社)との言葉です。
ローマクラブは、「持続可能性」の概念を形づくる契機となった地球の有限性への警鐘を、半世紀ほど前に鳴らしたことで知られますが、その中心者だったペッチェイ博士が特に重視していたのが、「若い世代の想像力と行動組織にもっと活動の場を与えること」(同)でした。
博士とは1975年の出会い以来、5回にわたって対談しましたが、その必要性を強く訴えておられたことが忘れられません。
若者たちの声を聴くのは、オプションでもベターでもない。本当に世界のことを考えるならば、当然踏まえなければならない“道理”であり、外せない“筋”である――というのが、博士の信念だったのです。
企業の経営者だった博士が、「報われるところが大きく、刺激に富むもの」と感じていた仕事から離れ、ローマクラブを立ち上げる決意をしたのは、自らが手がけてきた仕事に対し、年々、次のような思いが去来するようになったからだったといいます。(『人類の使命』大来佐武郎監訳、ダイヤモンド社。以下、同書を引用・参照)
「これらの個々の事業や計画にすべての努力を集中するのは、結果的に無意味な行動となるおそれがあるということを、私はしだいに悟るようになった。それらの個々の活動が進められるより広い母体――つまり世界の地球的状況――は、一貫して悪化の道をたどっていたからである」
ローマクラブはこの博士の危機感に基づいて68年に創設されましたが、最初の2年近くは成果をほとんど得られませんでした。
地球が直面する課題について懸命に訴えても、「あたかも他の惑星についての問題であるかのように思われるばかりであった」と。
活動の意義を称賛する人がいても、「それは自らの利害領域や日常活動の妨げとならない限りにおいてであった」というのです。
ローマクラブの名を世に知らしめた『成長の限界』(※注2)が発刊されたのは、活動開始から4年が経過した72年でした。
反響は大きく、地球の有限性への認識は広がったものの、内容が悲観的すぎるとの批判はやむことはありませんでした。
しかし、博士は決して意気消沈することはありませんでした。
「重要なことは、正しい方向に向かって速やかに真剣な第一歩を踏み出すことである」との揺るぎない確信があったからであり、人間が持つ限りない可能性への信頼をどこまでも手放さなかったからです。
ペッチェイ博士と初めてお会いしたのは、SGIの発足からまもない頃(75年5月)でした。
『成長の限界』が発刊された翌年(73年5月)にロンドンへ向かい、歴史家のアーノルド・J・トインビー博士との2年越し40時間に及ぶ対話を終えた時、“こうした対話を私の友人たちとも続けてほしい”と推薦をいただいた人物の一人がペッチェイ博士だったのです。
☆人間の内なる力の開花こそ
時代創造の波を広げる源泉
国籍は“世界”
再びヨーロッパを訪問する際にお会いできる機会があればと考え、連絡をとり合う中、ペッチェイ博士は、私どもがグアムで第1回「世界平和会議」を開催することを知り、メッセージを寄せてくださいました。
1975年1月26日、SGI発足の舞台となった「世界平和会議」で、私は参加者の署名簿の国籍欄に“世界”と記しました。
世界を「共同生活」を意識的に行う場と位置付け、各国の国民としてだけでなく「世界民」の自覚を併せ持つ重要性を訴えていた牧口初代会長、そして、世界のどの国の民衆も絶対に犠牲になってはならないとの思いで「地球民族主義」を提唱した戸田第2代会長の精神を、“世界”の二文字に凝縮させる形でSGIの原点として留めたいと考えたからです。
その4カ月後にペッチェイ博士とお会いした時、博士が手に携えていたのが、私が執筆した小説『人間革命』の英語版でした。
牧口・戸田両会長の二人の先師に始まる創価学会の歴史を綴った小説であり、博士がその際、私どもが進めてきた「人間革命」の運動――一人一人に具わる内なる力の開花を通して時代変革を目指す運動に対し、深い共感を寄せてくださったことは、何よりの後押しを得る思いがしてなりませんでした。
私との対談集の中でも、博士は述べていました。
「一人一人の人間には、これまで眠ったままに放置されてきた、しかし、この悪化しつつある人類の状態を是正するために発揮し、活用することのできる資質や能力が、本然的に備わっている」(『二十一世紀への警鐘』、『池田大作全集』第4巻所収)と。
時を経て今、世界の多くの青年たちが連帯して声を上げ、気候変動の問題に勇んで立ち向かおうとしている姿は、まさに博士が希望を託していた力が大きく開花し始めた姿ではないかと思えてなりません。
『成長の限界』の発刊当時に焦点となっていた公害や資源問題のように、局所的な対応で解決の糸口をつかむことができるものとは異なり、気候変動の原因は人々の生活や経済活動のあらゆる面に及んでいるだけに、状況の打開は決して容易ではありません。
現在、ローマクラブで共同会長を務めるサンドリン・ディクソン=デクレーブ氏が、昨年10月に欧州議会で紹介した「地球非常事態プラン」における緊急課題だけでも、低炭素エネルギーへの転換や再生可能エネルギーへの投資増大をはじめ、循環型経済への移行に関するものなど10項目が挙げられていました。
しかし、気候変動を巡る複雑で困難な状況も、受け止め方次第で、チャンスへと変えることができるのではないでしょうか。
対応すべき分野や場所が多岐にわたるという状況は、一方で、一人一人に具わる限りない力を発揮できる舞台が、それだけ多種多様な形で広がっていることでもあるからです。
SGIの代表も参加したユース気候サミットでは、その舞台の広がりを物語るような分科会が行われました。自然保護をはじめ、起業、金融、テクノロジー、芸術、スポーツ、ファッション、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)、動画配信などの分野において、新しい発想で問題解決を前に進めようとするアプローチが多角的に模索されたのです。
青年に焦点当てた安保理の新決議を
その意味で私は、ユース気候サミットの直後に、国連で採択された「SDGサミット」の政治宣言の内容に注目しています。
2030年までの期間を「持続可能な開発に向けた行動と遂行の10年」と位置付けた上で、取り組みを進めるにあたって永続的にパートナーシップを築くべき対象の一つとして「青年」を挙げていたからです。
この政治宣言を受けて、グテーレス事務総長は国連として「行動の10年」を立ち上げ、グローバルな行動と地域レベルでの行動に加えて、青年たちを含む民衆レベルでの行動を広げることを呼び掛けました。
そこで私は、国連の「行動の10年」における民衆レベルでの取り組みの一つとして、青年を中心に気候変動問題の解決策を共に生み出す挑戦を力強く進めることを提唱したい。
気候変動問題に対して先頭に立って行動するグレタ・トゥーンベリさんも、先月、スペインのマドリードで行われた気候変動枠組条約の第25回締約国会議(COP25)で、2030年までの10年間の意義に触れ、こう訴えていました。
「歴史上の偉大な変革は、すべて民衆から始まりました。待つ必要はありません。今この瞬間から変革を起こせるのです」と。
具体的には、今後もユース気候サミットを毎年開催する中で新しい国連の姿を定着させることに加えて、国連と市民社会が連携して“気候変動問題に立ち向かう青年行動の10年”ともいうべき活動を幅広く展開してはどうでしょうか。
また、その方向性を決定づける礎として、平和と安全保障における青年の役割を強調した国連安全保障理事会の2250決議(※注3)に続く形で、気候変動の問題に関わる意思決定への青年の参画を主流化させるための安保理決議を採択することを提案したい。
9月には、国連創設75周年を記念するハイレベル会合の開催も予定されています。そこに世界の青年たちを重要なパートナーとして招くとともに、“青年行動の10年”の開始と安保理決議の採択をもって、国連の新章節を飾るべきではないでしょうか。
私どもも、青年部が2014年から進めてきた「SOKAグローバルアクション」を発展させる形で、本年から新たに「SOKAグローバルアクション2030」を始動しました。
その一環として、一人一人が日常生活の中で温室効果ガスの削減につながる行動を起こす「マイ・チャレンジ10」の活動をはじめ、草の根レベルで行動の連帯を広げる活動を進めることになっています。
気候変動の問題の解決をはじめ、SDGsの目標を達成する道は、決して平坦なものではないでしょう。
しかし、青年たちの連帯がある限り、乗り越えられない壁など決してないと、私は固く信じてやまないのです。
* * * * *
注2 『成長の限界』
1972年にローマクラブが発表した報告書。60年代のような人口増加率と経済成長率が続けば、食糧不足や資源の枯渇、汚染の増大によって、100年以内に地球は成長の限界に達するとの将来予測を示した。この予測は、72年にストックホルムで行われた国連人間環境会議に向けて、地球環境問題への取り組みの重要性を広く知らせる啓発的な役割を果たした。
注3 国連安全保障理事会の2250決議
平和構築の取り組みをはじめ、暴力的な過激主義に対抗するための活動において、青年が果たす役割に焦点を当てた決議。2015年12月に国連安全保障理事会で採択された。永続的な平和を促進するための重要なパートナーとして青年を位置付け、紛争予防と解決のための意思決定に青年の代表を増やす方法を考慮することなどを、国連加盟国に求めている。
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