「グローバル公共財」を共に育む
各国の連帯が事態打開の礎に
大多数の国が同時に“被災”
次に第二の柱として強調したいのは、各国が立場の違いを超えて「連帯して危機を乗り越える意識」に立つことの重要性です。
新型コロナのパンデミックが招いた被害が、一体どれほどのものになるのか。
国連防災機関(UNDRR)は、「数多くの命と健康の痛ましい喪失」と「経済的・社会的な困窮」を防ぐための対応の重要性を指摘しながら、次のように述べています。
「雇用の喪失と収入の途絶による影響も加えると、これまで人類が経験してきたどの災害よりも、新型コロナウイルス感染症という単一の災禍によって被害を受けた人が多いといえるでしょう」と。
規模の大きさもさることながら、危機の様相が未曽有となっているのは、大多数の国がコロナ危機によって“被災”した状況にあることです。
21世紀に入ってからも、世界ではスマトラ島沖地震(2004年)をはじめ、パキスタン地震(2005年)、ミャンマーでのサイクロン被害(2008年)、中国の四川大地震(2008年)、ハイチ地震(2010年)など、巨大災害が発生してきました。
いずれも現地に深刻な被害を及ぼしましたが、被災直後の救援から復興にいたるまでの過程で、他の国々がさまざまな形で支援する流れが広がってきました。10年前の東日本大震災に対しても、たくさんの国が次々と支援の手を差し伸べてくれたことが、どれだけ被災地の人々を勇気づけたか、計り知れません。
災害時には、こうした国際的な連帯の輪の存在こそが、先の見えない不安を抱える被災地の人々にとって大きな心の支えとなるものだからです。
しかし現在のコロナ危機は、大多数の国が同時に“被災”しているために、状況はより混迷を深めています。
世界の国々を「航海を続ける一隻一隻の船」に例えてみるならば、すべての船が一斉に嵐に巻き込まれ、経験したことのない荒波にさらされる中で、コロナ危機という“同じ問題の海”にいながらも、別々の方向に押し流されてしまう危険性があるからです。

1973年5月、池田SGI会長はイギリスのロンドンを訪問し、歴史家のトインビー博士と対談。前年の訪問(72年5月)と合わせて、のべ40時間に及んだ両者の語らいは対談集『21世紀への対話』として結実し、これまで世界の29言語で出版されてきた
では、コロナ危機の克服という“海図なき航海”において、羅針盤となるものを、どのようにして探っていけばよいのか――。
かつて私が対談した歴史家のアーノルド・J・トインビー博士は、こう述べていました。
「私たちが手にできる未来を照らすための唯一の光は、これまでに経験してきたことの中にある」と。
そこで私が振り返りたいのは、かつて冷戦対立が激化する最中にあって、ポリオの感染拡大を防ぐためのワクチン開発で、アメリカとソ連が歩み寄って協力した史実です。
それまでポリオを予防する方法として「不活化ワクチン」が主に利用されていましたが、接種方法が注射に限られていた点に加えて、高価であるという問題点がありました。この課題を解消するべく、経口摂取が可能な「生ワクチン」の開発がアメリカで始められたものの、すでに「不活化ワクチン」の接種が進んでいたために、新しいワクチンの被験者になれる人が、それほどいませんでした。
一方のソ連では、当初、自国の子どもたちにも関わる問題とはいえ、敵対関係にあるアメリカとの協力には消極的でした。しかしソ連が、感染者の増加を憂慮して歩み寄りを模索するようになり、アメリカもソ連との協力の必要性を認識した結果、1959年以降、ソ連とその周辺国で大規模な治験が行われる中で、ついに「生ワクチン」が実用化にいたったのです。
当時、この「生ワクチン」によって、日本の多くの子どもたちが救われた出来事は、私自身、鮮烈な記憶として残っています。
ポリオが日本で大流行したのは、1960年のことでした。
その翌年も再び感染が広がり、連日のニュースで患者数が報じられる中で、ワクチンの投与を求める声が母親たちを中心に強まりました。その時、カナダから輸入された300万人分に加えて、ソ連から1000万人分もの「生ワクチン」の提供が受けられたことで、流行は急速に沈静化していったのです。
米ソ両国の協力の結晶ともいうべき「生ワクチン」の投与が、日本でも実現し、幼い子どもを持つ母親たちの間で安堵の表情が広がっていった光景は、60年の歳月が経った今でも忘れることはできません。
途上国にワクチンを供給する
国際的な枠組みを支援
COVAXの意義
翻って現在、新型コロナの世界的な感染拡大が止まらない中、有効なワクチンの開発と実用化を軌道に乗せることと併せて、各国へのワクチンの安定的な供給をどう確保するかが、大きな焦点になっています。
この難題に対応するために、WHOなどによって昨年4月に立ち上げられたのが、「COVAXファシリティー」という国際的な枠組みです。すべての国々が迅速かつ公平にワクチンを入手できる体制づくりを目指し、まずは今年の年末までに、20億回分のワクチンを参加国に提供することが計画されています。
COVAXの創設は、WHOによるパンデミック宣言のわずか1カ月後でした。それだけ対応が早かったのは、国際的な枠組みがないままでワクチンの開発競争が進めば、資金力のある国とない国との間でワクチンの確保に深刻な格差が生じたり、ワクチン価格が高騰したりすることが懸念されたからです。

質の高い基礎的な保健サービスを地球上のすべての人が受けられる「ユニバーサル・ヘルス・カバレッジ」の推進を目指し、2019年9月、ニューヨークの国連本部で行われたハイレベル会合(EPA=時事)。政治宣言が採択され、感染症対策を含めて誰も取り残さないことが呼び掛けられた
WHOは昨年5月の総会決議で、ワクチンの広範な接種は、すべての国で分かち合うべき「グローバル公共財」であると強調しました。現在、COVAXの参加国は190カ国・地域に広がり、2月からの供給開始が目指されていますが、ワクチンの安定的な供給は、すべての主要国の協力を得て活動を支える体制が確立できるかどうかにかかっています。
私は、早期の参加を果たした日本が、アメリカやロシアなどの未加入国に、COVAXの枠組みに参加して積極的に関与していくことを、呼び掛けるべきではないかと訴えたい。
WHOと連携して、国際的なワクチン供給の運営を担う「GAVIワクチンアライアンス」のセス・バークレー代表は、日本が昨年10月に資金拠出を誓約し、いち早く途上国支援の姿勢を示したことの意義を、こう述べていました。
「この貴重な支援は、安全かつ有効な新型コロナワクチンの接種が可能となった時に、それを待つ長い列の後方に低所得国が取り残されないためだけでなく、感染の世界的な急拡大を止めるためにも、極めて重要な役割を果たします」と。
かつて、2000年に行われた九州・沖縄サミットで、議長国の日本が感染症対策をサミットの主要議題に初めて取り上げたことが契機となり、2年後の「世界エイズ・結核・マラリア対策基金」の創設に結びついたことがありました。以来、日本をはじめ、多くの国が基金に対する支援を続ける中で、この三大感染症の脅威から、累計で世界の3800万人もの人々の命が救われてきたのです。
皆が享受できるグローバル公共財
思うに、新型コロナのパンデミックに立ち向かうグローバルな連帯を形作る上でも重要になってくるのは、「どれだけの命を共に救っていくのか」という“プラス”の面に着目し、そこに足場を築くことではないでしょうか。
感染者数の増加といった“マイナス”の面だけに目が向くと、他の国々との連携よりも、自国防衛的な発想に傾きがちになってしまうかもしれません。そうではなく、「どの国の人であろうと感染の脅威から救うことが、自国の人々の命を守ることにもつながる」との意識に立つことが欠かせないと思うのです。
先に私は、WHOがワクチンの広範な接種を「グローバル公共財」と位置付けていたことに触れましたが、COVAXの計画が軌道に乗った先には、それにもまして重要な意義を持つ「グローバル公共財」を分かち合える未来が開かれるに違いないと確信します。
「グローバル公共財」を巡る研究では、ワクチンのような製品や、インターネットなどの社会基盤だけがその対象ではなく、平和や環境といった、各国が協力して進める政策の結果としての“世界全体が享受できる状態そのもの”が含まれると考えられています。
気候変動の問題を例に挙げて言えば、各国で温室効果ガスの排出量削減に積極的に取り組むことで異常気象や海面上昇の悪化を抑えていくという、すべての国にとって望ましい状態が築かれるようなものです。
同様に、今回のパンデミックを各国の連帯で収束させた先には、「今後起こり得る感染症の脅威にも十分なレジリエンス(困難を乗り越える力)を備えた世界」への地平が大きく開かれ、“将来にわたってあらゆる国の人々の命と健康を守る基盤”が形作られていくと私は考えるのです。

2019年12月、スペインのマドリードで行われた国連気候変動枠組条約の第25回締約国会議(COP25)の関連行事。会議には、気候変動の問題に対し、倫理や人権の観点からの議論の醸成に尽力してきたSGIの代表も参加した
互いの存在を思いやる心が
「レジリエンス」を育む土壌に
このレジリエンスを支える要となるものについて考える時、どの国の船にとっても航海の安全を確保する上で欠かせない存在となってきた「灯台」のイメージが思い浮かびます。
新型コロナによって命の危険にさらされた人々に対し、その最前線で「灯台」のような崇高な使命を担い、献身的な行動を続けてきたのが、医師や看護師をはじめとする医療従事者の皆さんにほかなりませんでした。来る日も来る日も、人々のために懸命に尽くしてこられた方々に、改めて深い感謝の思いを捧げるものです。
世界の看護師の8人に1人は、出身国や訓練を受けた国以外の場所で尊い仕事を担っているといわれます。
ともすれば多くの国で、移民とその家族に冷たい視線を向け、社会的な負担とみなして疎外するような空気がみられます。
国連でもその是正を呼び掛けてきましたが、まさに各国がコロナ危機に陥った時に、多くの人命を救うための「なくてはならない存在」となったのが、看護師をはじめ医療の現場や病院の運営などを支えてきた移民の人たちにほかならなかったのです。

新型コロナの感染拡大が続く中、最前線で働く人々への感謝の思いを伝えるために、イギリス各地で行われた「医療・介護従事者に拍手を」のキャンペーン(昨年5月、リバプールで。AFP=時事)
同様に、パンデミック宣言後に深刻なマスク不足が生じ、各国の間で確保競争が起きた時期に、難民の人たちが、受け入れ地域の人々のために自発的な取り組みをしていたことについて、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が事例をいくつか紹介しています(以下、UNHCR駐日事務所のウェブサイトを引用・参照)。
ケニアで昨年3月に最初の感染者が報告され、公共の場所でのマスク着用が要請された時、ニュースを聞いて行動を起こしたのが、難民の男性でした。
近隣国のコンゴ民主共和国から逃れ、難民キャンプで洋服の仕立ての仕事をしていた彼は、「私たち難民も、支援に頼るだけでなく、この危機の中で貢献できることがある」との思いでマスクづくりを開始し、他の難民や地元の人たちにマスクを配るとともに、UNHCRの事務所のスタッフにも届けたのです。
またドイツでも、自分たちを受け入れてくれた町にある病院の看護師を応援したいと願って、中東のシリアから逃れてきた難民の家族がマスクづくりに取り組みました。
途中でマスク用のゴムが足りなくなった時には、事情を知った町の人々が、即座にたくさんのゴムを自宅まで届けてくれたといいます。
難民の家族は、マスクづくりに込めた思いを、こう語っています。
「私たちは、この町の人たちに本当に温かく迎えてもらったんです。住む場所を見つけ、仕事も得て、子どもたちは学校にも行くことができています。ドイツに恩返しができれば、私たちはそれでうれしいんです」と。
自分のできることは限られるかもしれないが、“たとえ一人でも誰かの助けになりたい”との、やむにやまれぬ思い。同じ地域で暮らしているからこそ、互いの存在を気遣い、人々のために力を尽くそうとする行動――。
私は、国籍や置かれた状況の違いを超えて、そのような思いと行動が社会で積み重ねられる中でこそ、「レジリエンス」の土壌は力強く育まれるに違いないと考えるのです。

創価学会平和委員会が主催した難民映画の自主上映会(2019年1月、東京・中野区内で)。国連難民高等弁務官事務所が毎年実施する「難民映画祭」でも紹介されたドキュメンタリー映画を通し、中東のシリアで故郷を去ることを余儀なくされた子どもたちの状況を学ぶ機会となった
ポリオや天然痘の根絶に向けた共闘
ワクチンの開発は、危機を打開する上で極めて重要な要素となるものですが、WHOが留意を促すように、それだけで問題がすぐに解決に向かうわけではありません。安全性の十分な確保が何よりも欠かせないほか、ワクチンの輸送体制を整えることから、接種を各地で実際に進めるまでのあらゆる過程において課題が残っており、今後の感染防止対策と併せて、大勢の人々の協力を得ることが必要となるからです。
この挑戦を進める上で基盤となるのが、「連帯して危機を乗り越える意識」の共有であり、「レジリエンス」の構築を担う人々の輪を広げることではないでしょうか。
パンデミックは、ギリシャ語の「すべての人々」を意味する言葉が語源となっているように、地球上のあらゆる場所で感染拡大が収束していかない限り、その脅威は国籍や置かれた状況の違いに関係なく及び続けるものです。
その意味で、パンデミックへの対応において求められるのは、従来の「国家の安全保障」のような自国の安全の追求だけを基盤にした発想ではない。
冷戦期のポリオのワクチン開発を巡る米ソの協力に、その萌芽がみられたような、国の垣根を越えて人々が直面する脅威を共に取り除こうとする「人間の安全保障」のアプローチであるといえましょう。
今後、パンデミックの状況がさらに悪化していった場合に、ワクチンの供給を含めた感染防止策の重心が、“世界中の人々を救うため”ではなく、“自国の安全だけを優先する目的”に傾く風潮が各国の間で強まるような事態を生じさせてはならないと思います。
ある意味で、この問題の構造は、冷戦期の核政策となった相互確証破壊(MAD)<注3>の陥穽にも通じる面があるのではないでしょうか。
自国の安全を第一に追求した核抑止力の強固な構築といっても、ひとたび核戦争が起きて攻撃の応酬が始まれば、自国民の安全の確保どころか、人類全体の生存基盤を破壊する結末を招いてしまうからです。

核戦争防止国際医師会議(IPPNW)の共同創設者であるバーナード・ラウン博士と再会を喜び合う池田SGI会長(1989年3月、東京・信濃町で)。両者の出会いが機縁となって、SGIとIPPNWとの交流が大きく広がり、「核兵器のない世界」を目指す連帯が築かれてきた
ポリオについては、昨年のアフリカでの根絶宣言を経て、アジアの2カ国での流行を止めることができれば、世界全体の根絶が達成できるところまで迫っています。
それに先駆けて人類が初めて感染症の克服に成功したのが、1980年の天然痘の根絶でした。
その画期的な偉業に寄せて、私の大切な友人であった核戦争防止国際医師会議(IPPNW)の共同創設者のバーナード・ラウン博士が述べていた言葉を思い起こします。
「冷戦の闇が最も深い時期にあっても、イデオロギーの対立下にあった両陣営の医師たちの協力が途切れることはありませんでした。核兵器による先制攻撃を想定してミサイルを大量製造していた、まさにその時に、アメリカとソ連の医師たちは協力して、天然痘の根絶のために奮闘していたのです。この団結の姿は、核兵器の反対運動においても大きな説得力を持つモデルを提示しています」
核兵器禁止条約は、このIPPNWを母体に誕生したICANを含め、広島と長崎の被爆者や世界のヒバクシャをはじめとする市民社会の力強い後押しを得て実現したものにほかなりませんでした。
どこかに脅威の火種が残る限り、同じ地球で生きるすべての人々にとって、本当の安心と安全はいつまでも訪れない。どの国も犠牲にしてはならず、世界の民衆の生存の権利が守られるものであってこそ、真の平和の実りをもたらす安全保障となる――。
こうした新しい時代の基軸となるべきメルクマール(指標)を条約として打ち立てたものこそ、今月22日に発効した核兵器禁止条約であると思えてなりません。
かつて歴史家のトインビー博士が述べていた、「時間の遠近法」という印象深い言葉があります。
博士は、この言葉を通して、次のような視点を提示していました。
「時間の遠近法に照してみると時々ものの姿が正しい釣り合いで眺められるものだが、今後数世紀ののちにおいて未来の歴史家が二十世紀の前半を顧みてこの時代の諸々の活動や経験をそういう眼で眺めようとした場合、はたして何が現代の目ぼしい出来事として選び出されるでありましょうか」(『試練に立つ文明』深瀬基寛訳、社会思想社)と。
同様に私も、未来の歴史家が21世紀前半の時代を「時間の遠近法」に照らしてみた時、何が最重要の出来事として浮かび上がるのかについて強い関心を持つものです。
思うにその一つは、コロナ危機が深まる最中にあって、安全保障のパラダイム(思考的な枠組み)の転換を促す、核兵器禁止条約の発効が果たされたことになるのではないでしょうか。
そしてまた、もう一つの最重要の出来事として、COVAXによるワクチン接種の地球的な規模での推進が、今後の国際社会のさらなる努力を通じて歴史に刻まれていくことを、私は強く期待したいのです。
新型コロナのパンデミックは深刻な危機ですが、“困難の壁を打ち破る人間の限りない歴史創造力”を結集することで、必ず克服できるはずです。その上で、パンデミックへの対応を土台にしつつ、「連帯して危機を乗り越える意識」を時代潮流に押し上げ、「国家の安全保障」の対立による悲劇を断ち切る人類史転換への道を開くべきだと強く訴えたいのです。
④に続く
* * * * *
注3 相互確証破壊(MAD)
冷戦時代の核戦略構想の一つ。核兵器による先制攻撃を受けた場合でも、相手国に耐えがたい損害を確実に与えられる核報復能力を持つことで、恐怖の均衡をもたらし、核攻撃を抑止することを目指した構想。1965年にアメリカのマクナマラ国防長官が提唱した。略称の「MAD」は、英語で「狂気」の意味を持つことから、当時、“狂気の戦略”とも呼ばれた。
誰も蔑ろにしない「人権文化」を
社会を分断する差別を打ち破り
万人の尊厳が輝く世界を
感染症を巡る歴史
続いて第三の柱として提起したいのは、感染者への差別や新型コロナを巡るデマの拡散を防ぐとともに、誰も蔑ろにしない「人権文化」の建設を進めることです。
今回のパンデミックを機に、改めて読まれるようになった文学作品の一つに、ダニエル・デフォーの『ペスト』があります。
17世紀のロンドンを舞台にしたこの作品では、ペストの恐怖にかられた市民がデマに惑わされ、不安を煽る言葉に影響されて我を失っていく姿が描かれていますが、古くはペストから近年のエイズにいたるまで、感染症に苦しむ人を差別したり、パニックによる分断や混乱で社会に深い傷痕を残したりするような歴史が繰り返されてきました。
がんや心臓病などの疾患に対する、「自分もいつか発症するのではないか」といった心配とは違って、感染症の場合は、「誰かにうつされるかもしれない」との不安が募るために、病原体への恐怖心がそのまま“他者への警戒心”に転じやすいといわれます。
問題なのは、その警戒心がエスカレートして、感染症に苦しむ人や家族をさらなる窮地に追い込むような事態を招いたり、以前から根強い差別や偏見にさらされてきた人々に対して、感染拡大の責任を転嫁したりするような空気が社会で強まることです。
特に現代においては、感染症に関する誤った情報やデマが、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)などを通じて一気に拡散する状況があることが懸念されます。
その背景には、感染防止の対策が次々と変わることや、感染拡大が生活に及ぼす影響が深刻であるために、多くの人が情報を求めて、新聞などのメディアだけに向かうのではなく、ネット空間にあふれる真偽不明の情報や出所不明の発信に触れて、“情報の空白”を埋めようとする動きがあるといわれます。
その中には、人々の不安につけこむ形で社会を扇動しようとしたり、特定の人々を槍玉に挙げて憎悪の感情を向けさせようとしたりする、悪意に満ちた言説も少なくありません。

戸田記念国際平和研究所が、2019年11月にアメリカ・カリフォルニア州のサンディエゴ大学で開催した研究会議。ソーシャルメディアが社会に与える影響を巡って、「意図的な誤情報の流布」や「分断や孤立化の助長」の問題などが討議された
正確な情報の共有が不可欠
こうした誤った情報やデマが野放図に拡散され、差別や偏見が増幅することで、人間社会を支える基盤が蝕まれていく“もう一つのパンデミック”ともいうべき事態は、新しい造語で「インフォデミック」と呼ばれています。
国連でも強い注意喚起をしており、昨年5月には、新型コロナに関する誤った情報やデマの蔓延を防ぐための「ベリファイド」という取り組みが立ち上げられました。多くのメディアとも連携して、正確で信頼できる情報について、国連や科学者などの専門家によって内容が“検証済み”であることを示す「ベリファイド」の認証マークをつけて発信していく活動です。
また、世界中の市民に「情報ボランティア」としての参加を呼び掛け、信頼できるコンテンツを市民の手で積極的に拡散し共有することを通し、家族やコミュニティーの安全とつながりを守ることが目指されているのです。
虚偽の情報やデマの拡散が放置されたままで、その誤りが周知徹底されなかった場合、重大な問題となるのは、正しい情報の定着が妨げられることだけではありません。
何より懸念されるのは、デマの根にある強い差別や偏見が、感染症への恐怖に乗じる形で人々を疑心暗鬼に陥らせて、社会の亀裂を深め、誰もが守られるべき尊厳と人権に“断層”を生じさせることです。

2018年9月にジュネーブの国連欧州本部で行われた、「人権教育ウェブサイト」の完成発表会。国連人権高等弁務官事務所の協賛のもと、SGIが諸団体と共同して制作したサイトは、現在、英語に加えて、フランス語、アラビア語、スペイン語でも閲覧できるようになっている
感染症と人権を巡る問題について、
WHOがパンデミック宣言を発する5日前に、「人間の尊厳と人権は、後付けではなく、その取り組みの前面と中心に掲げる必要がある」と、いち早く留意を促していたのが、国連のミチェル・バチェレ人権高等弁務官でした。
バチェレ氏は昨年9月にも、コロナ危機の克服において外してはならない急所として、次のように訴えていました。
「根深い不平等と人権の格差が、ウイルスの感染拡大とその脅威を加速度的に膨張させていく様子を、私たちは目の当たりにしてきました。社会とその狭間に存在するこれらの格差を修復し、深く刻まれた傷を癒すための行動が、今こそ必要とされています」
ここでバチェレ氏は「根深い不平等と人権の格差」に言及していますが、こうした「深く刻まれた傷」は社会で構造化されて、問題の深刻さが見過ごされがちになってきたものの、コロナ危機をきっかけに差別意識がより鮮明な形で表れるようになった面があるのではないでしょうか。
コロナ危機が深刻化し、多くの人々が「生きづらさ」を感じるようになる中で、差別や憎悪を煽る言説に影響を受け、そこに憤懣のはけ口を求めていく危険性が高まっている点が懸念されるのです。
建設的な行動を生み出すカギ
暮らしている地域や職業の違い、人種や宗教の違いなど、あらゆる差異に関係なく誰もが感染する恐れがある病気であり、共に乗り越えるべき課題であるはずなのに、かえって社会の分断が広がり、脅威を加速させてしまう背景には何があるのか――。
この問題を考える上で、差別を巡る示唆的な分析として私が触れたいのは、アメリカの哲学者のマーサ・ヌスバウム博士が、社会と嫌悪感の関係を論じた著書『感情と法』(河野哲也監訳、慶應義塾大学出版会)で述べていた言葉です。
博士は、人々が社会で境界線をつくり出そうとするのは他者への「嫌悪感」に根差しており、境界線を設けることで、自分たちが「安堵」を得たいと考えるからであるとして、こう問題提起しています。
「私たちは救済を求めて嫌悪感を呼び出している」と。
ここでヌスバウム博士が論じているのは、“邪悪な行為をするのは特定の集団だけで、自分たちにはまったく関係ない”とみなす思考に対してのものですが、感染症が引き起こす混乱と差別を巡る問題にも、その構図は当てはまるのではないかと私は考えます。
同書の中で博士が指摘するように、「病原菌」といった医学的言説が嫌悪感を示す表現として転用されて、特定の人々を貶めたり、抑圧したりする傾向があるからです。
差別の根源にある“自分たちこそ最も正しく尊い存在にほかならない”との意識。それが何らかの社会的危機が起きた時に、“自分たちだけは難を逃れたい”と望む気持ちと相まって、他の集団への嫌悪感を強め、関わり合いを断つことで安堵しようとする構図がみられると思うのです。

SGIなどが制作し、2017年3月以来、各地で行われてきた「変革の一歩――人権教育の力」展。昨年1月には、ジュネーブの国連難民高等弁務官事務所の本部でも開催され、反響を広げた
ヌスバウム博士は、嫌悪感はその感情を向ける相手や集団に対し、「共同体の成員あるいは世界の成員ではないというレッテル」を貼るものであり、特にそれが「弱い集団や人物の周縁化を行う時には、危険な社会的感情となる」と警鐘を鳴らしています。
また、博士が民主主義社会を支える感情として重視するのは「憤り」であるとし、その機能について次のように述べています。
「憤りは建設的な機能を持っている。憤りが語るのは、『これらの人々に対して不正がなされてきたが、そのような不正はあるべきではなかった』ということである。憤りはそれ自体で不正を正す動機を提供する」と。
その意味から言えば、人々が感じる「生きづらさ」は差別意識を募らせる原因となり、社会を分断させる危険性を持つ半面で、共生の社会を築くための建設的な行動を生む可能性も秘めているといえましょう。
コロナ危機による打撃が社会のあらゆる分野に及ぶ中で、人々の生命と尊厳が蔑ろにされることに対する痛みについて、これまで以上に切実に胸に迫った人は決して少なくなかったのではないでしょうか。
そこで肝要となるのは、自分が感じる「生きづらさ」を、他者を貶める「嫌悪感」に向けて解消しようとするのではなく、他の人々が感じている「生きづらさ」にも思いをはせながら、厳しい社会の状況を変えるための“建設的な行動”の輪を広げることだと思えてならないのです。
法華経に説かれる生命触発のドラマ
もちろん、自分の存在を何よりも大切に思う心情は、人間にとって自然な感情であり、私どもが信奉する仏法の人権思想においても、その点が踏まえられています。例えば、釈尊を巡る逸話を通して、こんな教えが伝えられています。
――ある時、コーサラ国の国王夫妻が会話を交わす中で、夫妻のそれぞれが「自分よりもさらに愛しい他の人は存在しない」との思いを抱いていることが話題となった。その後、釈尊のいる場所に赴いた国王が、自分たちの正直な思いを伝えたところ、釈尊は次の詩句をもって応えた。
「どの方向に心でさがし求めてみても、自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。そのように、他の人々にとっても、それぞれの自己が愛しいのである。それ故に、自己を愛する人は、他人を害してはならない」――と(『ブッダ 神々との対話』中村元訳、岩波書店を引用・参照)。
つまり、自分を“かけがえのない存在”であると感じるならば、誰もが同じ思いを抱いている可能性があることを深くかみしめるべきであり、その実感を自分の生き方の基軸にして、他者を害するような行為を排していかねばならないと、釈尊は諭したのです。
この逸話が示すように、仏法の人権思想が促しているのは、自分を大切に思う心情を打ち消すことではなく、その実感を“他者に対しても開かれたもの”へと昇華させる中で、自分と他者、自分と社会との関係を紡ぎ直すことにあると言ってよいでしょう。

東洋哲学研究所が企画・制作し、17カ国・地域で開催されてきた「法華経――平和と共生のメッセージ」展。2019年9月にインドネシアで行われた同展には、故ワヒド元大統領のシンタ・ヌリヤ夫人をはじめ、インドネシア大学のムハマッド・アニス学長ら多くの識者が訪れた(ジャカルタ近郊のデポック市で)
意識変革を促す人権教育の力
釈尊の教えの精髄が説かれた法華経で展開されているのも、まさにそうした人間生命の触発のドラマにほかなりません。
万人に「尊極の生命」が宿っていることを説いた釈尊の教えに触れて、自身の尊厳のかけがえのなさを心の底から実感した人が、一人また一人と続く中で、他の人々の尊厳の重みにも気づき、「自他共の尊厳が輝く世界」を築いていく決意を互いに深め合っていく姿が描かれています。
その中で釈尊は、人間と人間とを隔てるあらゆる境界線を取り払い、根強い差別にさらされてきた女性たちをはじめ、過ちを犯してしまった人々に対しても、「尊極の生命」が宿っていることを強調しました。
このように法華経では、さまざまな形で差別を受け、虐げられてきた人々の尊厳を明らかにした宣言と、互いの存在の尊さを喜び合う声が満ち満ちており、そうした生命と生命との触発のドラマを通して、「万人の尊厳」という法理が確かな輪郭を帯びて現れているのです。
いかなる人も蔑ろにしない
私どもSGIは、この法華経が説く「万人の尊厳」の精神に基づき、いかなる差別も許さず、誰も蔑ろにされることのない社会の建設を目指し、国連が呼び掛ける人権教育の推進に一貫して力を注いできました。
1995年に始まった「人権教育のための国連10年」を支援する一環として、「現代世界の人権」展を8カ国40都市で開催し、2005年からは国連の新たな枠組みとして発足した「人権教育のための世界プログラム」を推進する活動を行ってきました。
また2011年に、人権教育の国際基準を初めて定めた「人権教育および研修に関する国連宣言」の採択を諸団体と協力して後押ししたほか、その後も国連人権高等弁務官事務所の協賛を得て、「変革の一歩――人権教育の力」展の開催や「人権教育ウェブサイト」の開設をしてきたのです。
昨年9月には国連人権理事会で「人権教育学習NGO作業部会」を代表して共同声明を読み上げ、青年に焦点を当てた「人権教育のための世界プログラム」の第4段階が昨年1月からスタートしたことに寄せて、こう訴えました。
「この行動計画は、人権教育と青年の可能性を大きく広げるものです。新型コロナウイルス感染症によって、実施に伴う困難の度は増しましたが、人権を実現するための主要な条件となる人権教育を『中断』することがあってはなりません」と。

「人権教育のための世界プログラム」の第4段階の焦点を巡って、人権教育学習NGO作業部会の主催で行われたパネルディスカッション(2018年3月、ジュネーブの国連欧州本部で)
折しも、「人権教育および研修に関する国連宣言」の採択から、本年で10周年の佳節を迎えます。その中で、人権教育の力で築くべきものとして掲げられていたのが、「誰も排除されない社会」でした。
円を描く時に、“弧”のどこかが少しでも欠けている限り、円の形が出来上がらないように、普遍的な人権の尊重も、差異や社会的な区別によって軽んじられたり、排除されていたりする人々がいる限り、スローガンのままで終わってしまい、完結することはない。
これまで社会的に構造化される中で“蔑ろにされ、失われてきた人権や尊厳の弧”を、誰の目にも見える形で浮かび上がらせ、共に尊厳の大切さを分かち合いながら、生き方を見直し、社会の在り方を変えていく連帯を後押しする力となるのが人権教育です。
SGIが取り組んできた人権教育も、「誰も排除されない社会」という“円”の形を、同じ世界に生きる人間として共に描き出していくことに眼目があります。
感染症にまつわる差別やデマの蔓延を防ぐ努力を重ねながら、コロナ危機に伴う不安や恐怖の暗雲を打ち払うとともに、“誰も蔑ろにされてはならない”との思いを人権文化として結実させる挑戦を、今こそ力強く巻き起こすべきではないでしょうか。
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