
きょう26日の第46回「SGI(創価学会インタナショナル)の日」に寄せて、SGI会長である池田大作先生は「危機の時代に価値創造の光を」と題する記念提言を発表した。
提言ではまず、世界が今、深刻化する気候変動の問題に加えて、新型コロナウイルスの感染拡大とそれに伴う社会的・経済的な混乱に直面している状況について言及。危機が日常化する中で、社会の表面から埋没しがちになっている「さまざまな困難を抱えた人たち」の存在に目を向け、苦しみを取り除くことの大切さを仏法の視座から強調している。
その上で、冷戦時代にアメリカとソ連が、ポリオや天然痘の克服のために協力した史実などに触れて、各国が「連帯して危機を乗り越える意識」に立つことの重要性を訴えるとともに、感染者への差別や新型コロナを巡るデマの拡散を防ぐ努力を重ねながら、誰も蔑ろにしない「人権文化」を建設することを呼び掛けている。

2017年9月、ニューヨークの国連本部で行われた核兵器禁止条約の署名式(時事)。50カ国の批准を得て、今月22日に条約の発効がついに実現した
続いて、国連で「コロナ危機を巡るハイレベル会合」を行い、新型コロナ対策の連携強化の基盤となり、新たな感染症の脅威にも対応できるような「パンデミックに関する国際指針」を採択することを提案。
また、今月22日に発効した核兵器禁止条約の最初の締約国会合に日本が参加し、唯一の戦争被爆国としてのメッセージを発信することで議論を建設的な方向に導く貢献を果たすよう呼び掛けている。
加えて、核拡散防止条約(NPT)再検討会議で、新型コロナの影響で世界が甚大な被害を受けた状況を踏まえ、「次回の2025年の再検討会議まで、核兵器の不使用と核開発の凍結を誓約する」との文言を最終文書に盛り込むことを提唱。
最後に、コロナ危機からの経済と生活の再建に向け、社会的保護の拡充を柱としながら、「誰もが安心して暮らすことのできる社会」を各国が協力して築くための方途について論じている。
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第46回SGI提言 世界が直面する未曽有の危機2021年1月26日
新型コロナの問題を乗り越え
希望の社会を共に建設
私たちは今、これまで人類が経験したことがない切迫した危機に直面しています。
異常気象の増加にみられるような、年々悪化の一途をたどる気候変動の問題に加えて、新型コロナウイルス感染症のパンデミック(世界的な大流行)が襲いかかり、それに伴う社会的・経済的な混乱も続いています。
未曽有であるというのは、危機が折り重なっていることだけに由来するのではありません。長い歴史の中で人類はさまざまな危機に遭ってきましたが、世界中がこれだけ一斉に打撃を受け、あらゆる国の人々が生命と尊厳と生活を急激に脅かされ、切実に助けを必要とする状態に陥ることはなかったからです。
わずか1年余の間に、新型コロナの感染者数は世界で9900万人を超えました。亡くなった人々も212万人に達し(1月25日現在)、その数は過去20年間に起きた大規模な自然災害の犠牲者の総数をはるかに上回っています。
大切な存在を予期せぬ形で失った人たちの悲しみがどれだけ深いものか、計り知れません。とりわけ胸が痛むのは、感染防止のために最後の時間を共に過ごすこともかなわなかった家族が少なくないことです。
この行き場のない喪失感がいたる所で広がっている上に、経済活動の寸断で倒産や失業が急増し、数えきれないほどの人が突然の困窮にさらされる事態が生じています。

各国の青年部の友がオンラインで参加し、混迷の闇を打ち払う「希望と勇気の波動」を広げることを誓い合った世界青年部総会(昨年9月、東京・新宿区の創価文化センターで)
一方、未曽有の危機による暗雲が世界を覆い尽くそうとする最中にあっても、「平和と人道の地球社会」を築く挑戦の歩みが、すべて止まったわけではありませんでした。
核兵器禁止条約が今月22日に発効したのをはじめ、児童労働を禁止する条約<注1>に対して国際労働機関(ILO)の全加盟国の187カ国が批准したことや、野生株のポリオウイルスの根絶がアフリカで実現するなど、画期的な前進がみられたからです。
いずれも、国連が2030年に向けて達成を目指している「持続可能な開発目標(SDGs)」にとって、かけがえのない重みを持つ成果であり、“困難の壁を打ち破る人間の限りない歴史創造力”を示したものにほかならないといえましょう。

ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)の市民会議。国際パートナーの一員であるSGIの代表も出席し、宗教者としての取り組みなどを報告した(2018年4月、スイスのジュネーブで)
なかでも、昨年の国連デー(10月24日)に発効要件を満たした核兵器禁止条約は、国連創設の翌年(1946年)に総会の第1号決議で掲げられて以来、未完の課題となってきた核兵器の廃絶に対し、ついに条約として明確な道筋をつけた意義があります。
冷戦下で核開発競争が激化していた1957年9月に、創価学会の戸田城聖第2代会長が発表した「原水爆禁止宣言」を原点に、核兵器を全面的に禁じる国際規範の確立を目指して、ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)などの団体と行動を共にしてきた私どもSGI(創価学会インタナショナル)にとっても、条約の発効は何よりの喜びとするものであります。
そこで今回は、世界中が深刻なショック状態に陥る中で、未曽有の危機を乗り越えるためには何が必要となるのかを探るとともに、「平和と人道の地球社会」を建設する挑戦を21世紀の確かな時代潮流に押し上げるための方策について提起していきたい。
苦境を支え合う社会のつながり
統計的な数字の奥にある
「命の重み」を見失わない
パンデミックの宣言以降の日常
第一の柱として挙げたいのは、“危機の日常化”が進む中で、孤立したまま困難を深めている人々を置き去りにしないことです。
昨年の3月11日に世界保健機関(WHO)が新型コロナのパンデミックを宣言して以来、毎日のニュースで感染者や亡くなった人たちの数が報じられるようになりました。
いまだ感染拡大の勢いは止まらず、収束の見通しは立っていませんが、連日、更新されている数字の意味を見つめ直すために、今一度、思い起こしたい言葉があります。
パンデミック宣言の1週間後に、ドイツのアンゲラ・メルケル首相がコロナ危機を巡る演説で語った次の一節です。
「これは、単なる抽象的な統計数値で済む話ではありません。ある人の父親であったり、祖父、母親、祖母、あるいはパートナーであったりする、実際の人間が関わってくる話なのです。そして私たちの社会は、一つひとつの命、一人ひとりの人間が重みを持つ共同体なのです」(駐日ドイツ連邦共和国大使館・総領事館のウェブサイト)
もとより、こうした眼差しを失わないことの大切さは、巨大災害が起こるたびに、警鐘が鳴らされてきた点でもありました。
しかし、今回のパンデミックのように、世界中の国々が脅威にさらされる状態が長引き、“危機の日常化”ともいうべき現象が広がる中で、その緊要性がいっそう増していると思えてなりません。

昨年3月11日、スイスのジュネーブにある世界保健機構(WHO)の本部で、新型コロナウイルス感染症の「パンデミック宣言」を行ったテドロス事務局長(写真中央。AFP=時事)
私どもSGIでも、感染防止の取り組みを徹底するとともに、日々の祈りの中でコロナ危機の早期の収束を強く念じ、亡くなった人々への追善の祈りを重ねてきました。
また、私が創立したブラジルSGIの「創価研究所――アマゾン環境研究センター」では、新型コロナで亡くなった人々への追悼の意を込めて植樹を行う「ライフ・メモリアル・プロジェクト」を昨年9月から進めています。
一本一本の植樹を通して、これまでブラジルの大地で共に生きてきた人々の思いと命の重みをかみしめ、その記憶をとどめながら、アマゾンの森林再生と環境保護にも寄与することを目指す取り組みです。
亡くなった人々を共に悼み、その思いを受け継いで生きていくことは、人間社会を支える根本的な基盤となってきたものでした。
感染拡大が続く中で、故人を共に追悼する場を得ることが難しくなっている今、統計的な数字の奥にある「一つひとつの命」の重みを見失わないことが、ますます大切になっていると痛切に感じられてならないのです。
社会の表面から埋没する窮状
この点に加えて、“危機の日常化”に伴って懸念されるのは、各自の努力で身を守ることが求められ、社会の重心がその一点に傾いていく中で、弱い立場にある人々の窮状が見過ごされがちになる恐れについてです。
パンデミックに立ち向かうために、各国では医療体制の支援を最重要課題に掲げるとともに、「ニューノーマル(新しい日常)」が呼び掛けられる中、社会を挙げて取り組むべき対策が模索されてきました。
直接的な接触を避けるために一定の距離を確保する「ソーシャル・ディスタンス」をはじめ、在宅での仕事の推奨とオンライン授業の導入などによる「リモート化」や、不要不急の外出を控える「ステイホーム」の推進などに代表されるものです。
この呼び掛けを通し、急激な感染拡大を抑え、医療現場の逼迫を防ぐための取り組みが広がってきた意義は大きいと思います。
なかでも、感染防止策の呼び掛けに対して、積極的に工夫や改善を試みる人が増えてきたことは、単なるリスク対策の域を超える可能性を秘めたものでもあったのではないかと、私は感じています。
その行為は、まずもって大切な家族や身近な人々を守ることに直結していますが、同時にそれは、同じ社会に生きる“見知らぬ大勢の人たちを守るための気遣い”を積み重ねる行為にもなってきたと思えるからです。

ブラジルSGIの「創価研究所――アマゾン環境研究センター」による「ライフ・メモリアル・プロジェクト」の発足式。式典では、ローズウッドなどの苗木が植樹された(昨年9月、マナウス市で)
困難を抱える人たちの
苦しみをまず取り除く
しかし一方で、コロナ危機が始まる以前から弱い立場に置かれてきた人や、格差や差別に苦しみながらも、“社会的なつながり”によって支えられてきた人たちの生活や尊厳に、深刻な影響が生じている側面にも目を向ける必要があるのではないでしょうか。
例えば、「ソーシャル・ディスタンス」が重要といっても、日常的な介助を必要とする人たちにとって、周囲のサポートが普段よりも制限されることになれば、毎日の生活に重大な支障が出ることになります。
それは、自分を支えてくれる人たちとの大切な時間を失い、“尊厳ある生”を築く土台が損なわれることも意味します。
また、仕事や教育から買い物にいたるまで、オンラインによる「リモート化」が急速に進んできたものの、経済的な理由などでインターネットに接続する環境を持つことが困難な人や、オンラインの活用に不慣れな人たちが取り残されていく状況も課題となっています。
加えて、外出制限による「ステイホーム」が長引く中で、家庭内暴力(DV)に苦しむ女性たちが急増したことが報告されています。
なかには、暴力をふるう相手が家にいる時間が長くなったために、行政や支援団体に連絡をとって相談する道まで塞がれている女性も少なくないとみられているのです。
ゆえに大切になるのは、感染防止策に取り組む中で社会に広がってきた“見知らぬ大勢の人たちを守るための気遣い”を基盤としながら、コロナ危機が日常化する中で、社会の表面から埋没しがちになっている「さまざまな困難を抱えた人たち」の存在に目を向け、その苦しみと生きづらさを取り除くことを、社会を立て直すための急所として位置付けていくことではないでしょうか。
コロナの発生前に生じていた歪み
WHOでも、社会的な距離を意味する「ソーシャル・ディスタンス」ではなく、物理的・身体的な距離を意味する「フィジカル・ディスタンス」を用いることを勧めています。
「ソーシャル・ディスタンス」という表現では、人と人とのつながりを制限しなければならないとの誤解を広げてしまい、社会的な孤立や分離を固定しかねないからです。
社会全体が先の見えない長いトンネルに入る中で、他の人々の置かれている状況が見えにくくなっているとしても、同じ社会を生きているという“方向感覚”だけは決して失ってはならないと、私は訴えたいのです。
そこで着目したいのは、国連のアントニオ・グテーレス事務総長が述べていた問題提起です。
昨年7月、「コロナに立ち向かおう」と題する国連のオンライン・セミナーが行われました。席上、「ニューノーマル」の意味について問われた事務総長は、世界の人々が直面する現状に対し、その一言でもって規定してしまうことに異を唱えた上で、「アブノーマル(異常な事態)」という言葉をもって表現したいと強調したのです。
私はその問題提起に、コロナ危機によって世界の大勢の人々が強いられてきた状態が、緊急避難的で、やむを得ないものであったとしても、それは人間にとって本来、“異常な事態”であるとの認識を持ち続けなければならないとの警鐘を感じてなりません。
また事務総長は、別の機会で次のような主張をしていました。
「コロナ危機を受けて、『ニューノーマル』の必要性を訴える声が多くありますが、新型コロナが発生する前の世界が『ノーマル』とは程遠い状態であったことを忘れてはなりません。拡大する不平等、蔓延する性差別、若者がさまざまな機会を得られない状況、上昇しない賃金、悪化していく一方の気候変動、これらは一つとして『ノーマル』ではないのです」
いずれの指摘にも、深く共感します。
こうした世界の歪みを放置したままでは、置き去りにされてしまう人々が次々と出ることは避けられず、ましてアフターコロナ(コロナ後)の社会を展望することなどできないと、思えてならないからです。

アフリカのエチオピアで激化する紛争の影響で、隣国のスーダンに逃れた難民の子どもたち。学習の機会を失わないために、難民キャンプ内で授業が行われた(昨年11月、スーダンで。AFP=時事)
新型コロナの脅威はあらゆる国に及んでいる危機ですが、影響の深刻さは、人々が置かれている状況によって格段の開きがあると言わざるを得ません。
実際、感染防止策として推奨される「石鹸と水による手洗い」ができない環境で生活する人の数は、世界の4割に及ぶといいます。
こうした自分と家族を守り、周囲の人たちを守るための基本的な手段を得ることが難しい人々は、30億人もいるのです。
また、紛争や迫害によって故郷を追われた難民の人たちの数が世界で8000万人に達する中、その多くが難民キャンプなどでの密集した生活を余儀なくされています。
もとより、物理的・身体的な距離を確保することは困難で、感染者が出れば、感染拡大が避けられない危険と隣り合わせで生活している状況にあるのです。
今、世界が直面している未曽有の危機には、複合的な要素が折り重なっているために、それぞれの脅威の関係性や問題の所在を見定めることは容易ではないといえましょう。
そうであったとしても、危機への総合的な対処とは別に、脅威にさらされている一人一人に対しては、苦しみを取り除くことが、先決になるのではないかと訴えたいのです。
仏法の源流に力強く脈打つ
誰も置き去りにしない精神
「毒矢の譬え」が提起する視座
この問題を考える上で、想起される仏法の視座があります。釈尊が説いた「毒矢の譬え」です。
――ある男が、毒矢に射られた。その時、「この矢を射た者はなんという姓でなんという名の者か」との疑問や、「弓矢を作った者はだれか」といったことに気をとられ、「それが分からぬうちは矢を抜いてはならぬ」とこだわり続けたために、状況が放置されそうになったとする。しかしそれでは、毒矢が刺さったままで、やがて命を落とすことになってしまうのではないか――と(中村元・増谷文雄監修『仏教説話大系』第11巻、すずき出版を引用・参照)。
この譬えは、人間の身に実際に起きる問題よりも、観念的な議論に関心が向きがちな弟子を諭すために、釈尊が用いたものでした。
この譬えに着目し、釈尊の目的は体系的な教えを説き明かすことにはなかったと洞察していたのは、20世紀を代表する宗教学者のミルチア・エリアーデ博士でした。博士が釈尊の教えを、人々の苦しみに対する治療と位置付けていたように、釈尊が何よりも心を砕いていたのは“毒矢を抜き去ること”、つまり、一人一人の苦しみの根源を取り除くことにありました。
仏法の出発点に息づいていたのは、そうした切なる思いから釈尊が折々に語った言葉にほかならなかったのです。

2019年1月、福島・いわき市で行われた「希望の絆」コンサート。東日本大震災で被災した人々の“心の復興”を願い、音楽隊が2014年3月から東北の友と手を携えて開催してきたコンサートは、2016年以降、地震や豪雨などの自然災害に見舞われた全国の被災地でも行われてきた
釈尊の教えの精髄である法華経を礎にして、13世紀の日本で仏法を説き広めた日蓮大聖人は、釈尊の言葉が及ぼした力について、「燈に油をそへ老人に杖をあたへたるがごとく」(御書576ページ)と表現していました。
つまり、何か超人的な力をもって人々を救済したのではなく、釈尊は、相手の内面に本来具わる力を引き出す支えとなるような言葉を語ることに専心していたのです。
災害や飢饉に加えて疫病の蔓延が相次いでいた当時の日本で、「立正安国論」を著し、“民衆の苦悩と嘆きを取り除く”という一点に立って行動する重要性を訴えた大聖人の仏法にも、その精神は力強く脈打っていました。
度重なる災禍によって、人々がどれだけ塗炭の苦しみにさいなまれていたのか――。大聖人は、その様子をこう記しています。
「三災・七難・数十年起りて民半分に減じ残りは或は父母・或は兄弟・或は妻子にわかれて歎く声・秋の虫にことならず、家家のち(散)りうする事冬の草木の雪にせめられたるに似たり」(同1409ページ)
こうした時代にあって、大聖人は混迷を深める社会に希望を灯すべく、災禍や苦難に見舞われた人々を励まし続けたのです。

昨年10月、ニューヨークやロサンゼルスなど13の地域ごとに、オンラインで開催されたアメリカSGIの集い。それぞれの集いでは、「イケダ・ユース・アンサンブル」の鼓笛隊の友による演奏が披露された
信念の行動を貫く中で流罪などの迫害に何度も遭ってきた大聖人は、物理的な距離で遠く隔てられた弟子たちを何とか勇気づけたいとの思いで、手紙を認めることもしばしばでした。
ある時は、夫を亡くした一人の女性門下に、次のような手紙を送っています。
――亡くなられたご主人には、病気の子もおり、愛娘もいた。「私が子どもを残し、この世を去ったら、老いた妻が一人残って、子どもたちのことをどれほど不憫に思うだろうか」と嘆かれたに違いない、と(同1253ページ、趣意)。
その上で、「冬は必ず春となる」(同ページ)との言葉を綴られた。そこには、女性門下を全魂で励まそうとする、次のような万感の思いが込められていたのではないかと拝されるのです。
今は、厳しい“冬”の寒さに覆われているような、辛い思いをされているに違いありません。しかし、“冬”はいつまでも続くことはない。必ず“春”となるのです。どうか心を強く持って、生き抜いてください――と。
そしてまた、「幼いお子さんたちのことは、私も見守っていきますから」との言葉を添えて、夫の逝去によって人生の時間が“冬”のままで止まりかけていた女性門下の胸中に、温かな“春”の光を届けたのです。
この女性門下への言葉のように、大聖人は手紙に認めた一つ一つの文字に、自らの“心”を託された。そして手紙が読まれた時に、その言葉は物理的な距離を超えて大聖人の“心”を浮かび上がらせ、相手の胸に刻まれたのでした。
宗教が担うべき社会的な使命
大聖人の時代とは状況が異なりますが、今回のパンデミックによる混乱が広がる中で、多くの人たちが痛切に感じたのは、「自分の人生が急停止してしまった」「生活の基盤が突然、絶たれてしまった」「まったく未来が見えなくなってしまった」といった、やりきれない思いだったのではないでしょうか。
こうした時に、社会的な支援や周囲からの手助けを得られず、苦しみを独りで耐えるほかない状態が続く限り、その人の世界は暗転したままとなりかねない。
しかし誰かがその状態に気づいて寄り添った時、困難を抱えた人も、自らの苦境を照らす温かな光が周囲や社会から届けられることを通じて、かけがえのない人生と尊厳を取り戻す力を得ることができるのではないかと思うのです。
私どもSGIが大聖人の精神を受け継ぎ、世界192カ国・地域で広げてきた信仰実践と社会的活動の立脚点も、“孤立したままで困難を深めている人々を置き去りにしない”との信念にありました。
その信念は、私の師である戸田第2代会長の「世界にも、国家にも、個人にも、『悲惨』という文字が使われないようにありたい」(『戸田城聖全集』第3巻)との言葉に凝縮された形で表れています。

SGIがアジア防災・災害救援ネットワークとの共同で制作した人道展「人間の復興――一人一人がつくる未来」。防災や救援活動におけるFBO(信仰を基盤とした団体)の役割に関する国際会議の会場で開催された(2016年10月、スイスのジュネーブで)
ここで強調したいのは、世界と国家と個人という、すべての面において、戸田会長の眼差しが「悲惨」を取り除くという一点に貫かれていることです。
世界に生じているどんな歪みであろうと、どの国が直面する困難であろうと、どのような人々の身に起きている苦境であろうと、人間と人間とを隔てるあらゆる垣根を越えて、「悲惨」を取り除くために共に力を合わせて行動する――。
これまでSGIが、グローバルな諸課題の解決を求めて、志を同じくする多くのNGO(非政府組織)をはじめ、さまざまな宗教を背景とするFBO(信仰を基盤とした団体)と連携を深めてきたのも、この精神に根差してのものにほかならないのです。
ある意味で、人類の歴史は脅威の連続であり、これからも何らかの脅威が次々と現れることは避けられないかもしれません。
だからこそ肝要となるのは、どんな脅威や深刻な課題が生じようとも、その影響によって困難を抱えている人々を置き去りにせず、「悲惨」の二字をなくすための基盤を社会で築き上げていくことだと思います。
なかでも現在のコロナ危機で物理的・身体的な距離の確保が求められ、他の人々の置かれている状況が見えにくくなる中で、同じ社会で生きる人間としての“方向感覚”を失わない努力を後押しする役割を、宗教やFBOが積極的に担うことが求められていると、感じられてなりません。
パンデミックが世界に及ぼした打撃は極めて深刻で、脱出の方法が容易に見いだせない迷宮のような様相を呈しています。しかし、一人一人を窮状から救い出すアリアドネの糸<注2>は、それぞれの命の重みをかみしめ、その命を守るために何が切実に必要とされているのかを見いだすことから浮かび上がってくるのではないでしょうか。
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注2 アリアドネの糸
非常に困難な状況から抜け出す上で、その「道しるべ」となるものの譬えで、ギリシャ神話を淵源とする言葉。クレタ島の王女であるアリアドネが、怪物を退治するために迷宮に入ろうとするテセウスに糸を持たせることで、迷宮の入り口と結んだ糸を手がかりに無事に脱出できるようにした話に由来している。
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